令和2年4月
覚りの旅 令和2年4月度 勉強会を終えて

三救責任者
一日祭ならびに月次祭おめでとうございます。
これ(天恩地惠 『覚りの旅』2020年4月の挨拶)を書いたのが3月9日でしたので、作り直しました。

連日、世界中がコロナウイルスのニュースで持ちきりです。
外出禁止とか都市封鎖とか、これこそ戦争を経験していない世代にとって未だ嘗てない状況です。
戦後高度成長期以降の私達の日常は、如何に平和であったかということです。
平和の祭典であるオリンピックが延期となりました。

嘗て幻の東京オリンピックと呼ばれたオリンピックがあります。
昭和7年のロサンゼルスでのIOC(国際オリンピック委員会)総会において、日本は正式に開催地への立候補を表明し、昭和11年(1936年)のベルリン・オリンピックの際のIOC総会で、1940年の第12回オリンピックの開催地が東京に決定されました。

ところが、東京オリンピック開催に対する反対の動きが起こります。
昭和12年(1937年)7月7日に、日本軍と中国軍との間で衝突事件が勃発したことと、日中戦争が長期化する見通しが強まっていたからです。
国内では、国際的な緊張が高まっている状況で、オリンピックなどを開催するべきかどうか、という疑問が出ていました。その一方で、国外からは、日本と中国との軍事的な衝突が問題視され、日本がオリンピックの開催地として適当かどうかが問われていました。特に、国際社会における日本批判は勢いを増し、IOC会長のもとには、東京オリンピック開催に反対する声が多数寄せられました。こうした事態を受け、IOC会長は、東京オリンピックの招待状が発送される翌年1月までに日本が戦争をやめていなければ、イギリス、アメリカ、スウェーデンはもちろんのこと、他の国々からも参加拒否の動きが出てくるだろうと述べ、そのような事態を迎えるよりは、自ら辞退を申し出る方が日本にとっても良いだろう、と勧めてきたということです。

こうして、昭和15年(1940年)の第12回オリンピック東京大会は、「幻の東京オリンピック」となりました。これにかわってヘルシンキでの第12回オリンピックの開催が決定されましたが、こちらも第二次世界大戦の勃発によって実現しませんでした。

昭和39年(1964年)東京オリンピックは、アジア初のオリンピック開催となりました。
当時は「有色人種」国家における史上初のオリンピックという意義を持っていました。また、アジアやアフリカにおける植民地の独立が相次いだこともあり、過去最高の出場国数となりました。

日本は戦争によるオリンピックの中止と、アジア初のオリンピック開催と、史上初のオリンピックの延期を経験する唯一の国となったわけです。

日本は雛形だからこの試練を乗り越えて見よ。との神様のお計らいなのでしょうか。
他国のように、強権を発動することなく、自粛要請を真摯に受け止め、国民一人一人の自制で、他の人を思う、利他愛で乗り切ってこそ、オリンピック招致の滝川クリステルさんの「お・も・て・な・し」スピーチに繋がるのではないでしょうか。

このスピーチを確認しておきますと、
東京は皆様を私たちにしか出来ない独自のやり方でお迎えします。日本語ではそれを「おもてなし」という一語で表現できます。
それは見返りを求めないホスピタリティの精神、それは先祖代々受け継がれながら、現代日本の最先端文化にも深く根付いています。「おもてなし」という言葉は、日本人がいかに互いに助け合い、お迎えするお客さまのことを大切にするかを示しています。

「浄霊があるから大丈夫だわ」とか「一回かかっておきたいわ、免疫できるから」などという言動は慎まなければならないと思います。それは、「自分は大丈夫だから外出しても平気だよ」という、自分本位な、お年寄りのことを考えない、一部の心ない若者の発言と変わらないと思うからです。

思うに、薬毒残留が少ない人は、若者と同じくらい免疫力があるのだと思います。
ですから、既に浄化を誘発する直前であっても若者と同様に活動できてしまうのです。
症状が出ていない状態で動き回れば、残留薬毒が多く免疫力の弱い人の浄化を誘発してしまうことになりかねません。

そして感染が確認され、病院隔離になってしまえば家族さえ面会が出来ないという事です。
そうならないように、
今こそ、一人一人の利他愛の精神が問われていることを肝に銘じなければなりません。

それでは、『覚りの旅』を始めます。『天恩地惠 4月号』を開いてください。

ということで、
この時はですね、大相撲中継があって、コロナウイルスの影響で観客を入れずに初めての大相撲開催ということで、まわしを叩く音が館内に反響しているということで、力士の四股(しこ)の音も響いてるわけですね。そういうことで、四股という事を調べてみました。
ということから、この時は挨拶を書きました。

力士が土俵の上で片足を高くあげ,強く地を踏む所作。相撲稽古(けいこ)の重要な一方法だが,他方で地を踏み鎮めるという宗教的意味をもつ。日本各地の祭礼で行う民俗相撲では,力士の四股によって大地の邪悪な霊を踏み鎮め,あるいは踏むことで春先の大地を目ざめさせて豊作を約束させると伝えるものが多い。(出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア より)
伊勢神宮では毎年奉納相撲がありますように、宗教的要素が相撲にはあるのですから、厳粛な雰囲気の大相撲というのもまた本来の姿なのかもしれません。

四股ということでは、メシヤ講座で何度か話題に上がっております。

メシヤ講座・三重 75号(平成26年1月度)
○「腰割り」「テッポウ」トレーニング
(質問者)
○○さんですが、心地が悪いので、婦人科に行ったら「子宮が下がると膣が下がる」「手術しても再発する恐れがあります」と言われたそうです。泌尿器科へ行きましたら「三重県では手術出来るところはないので大きい病院を紹介する。しかし、検査をして病名を確定する必要がある。」と言われたそうです。
(先生)
子宮が下がるということは子宮に筋があるでしょう。筋腫になる筋です。
(質問者)
以前子宮筋腫の手術を受けたそうです。
(先生)
筋(すじ)で引っ張っているわけです。その筋が緩んでくるので、下がってくるのです。そうするとそれに子宮や膣とかもくっついているので、全体的に下がってくるからどうしても違和感があるのです。
それで三重県で手術が出来ないというのであれば〝手術をしない方が良い″というように受け止めて、『浄霊』に徹すると良いと思います。そして運動が大事です。引っ張っている筋を鍛えれば良いのです。

それからお相撲さんが良くやる四股(しこ)とテッポウを応用した筋トレがあるのです。
*「腰割り」「テッポウ」トレーニング というようです。
「腰割り」をすると足の付け根のリンパ腺とかが解(ほぐ)れるので、まず血行が良くなってきます。それからリンパ液が流れやすくなりますので、肩幅より少し足を広げて無理にならない程度にズーッと腰を下げていくと解れてくるのです。

そういうようなことが書いてあって、少し下の方(2ページ10行目)で

ですから、『浄霊』と運動をすれば必ず治っていきます。
「一度浄霊と運動をやってみないかい」と話をしてみてください。

というような事が四股ということで書いてあります。
ということと、歩いてほぐすという事で、下線のところを読みますと

〝歩いてほぐす″ということを我々は浄霊だけでなくてね、そろそろ行った方が良いです

これも、三重のメシヤ講座(平成26年3月度)にあります。

大きな浄化を乗り越えていく方法というのは御教えやメシヤ講座で早くから示されているのです。私の場合もそうでしたが、浄霊・運動・食ということに取り組めばよいのだという基本路線が確立されているのです。
しかしながら、人様のお世話をさせていただく時に心掛けておかねばならないことがあります。『ご随意に』ということです。

ということで、

『ご随意に』
メシヤ講座番外編より
先生
重病患者が薬を止めて浄霊のみで治していきたいというのであれば、家族の了解もしっかり得た上で臨機応変に対応して行くのが望ましいでしょう。
しかし何度も念を押しますが、医者にかかるにしても浄霊一本で治すにしてもあくまでも本人の意思と言うのが徹底されていないといけません。
誘導するような形になってはいけないので、ここは特に気をつけてください。
メシヤ様のやり方はどんな場合でも臨機応変だったのです。
本来の在り方は提示するが、選択は『本人のご随意に』というご姿勢がありました。
指導者の言われたとおりにやるというのはどちらに転んでも問題を発生させます。
以前お話ししたくも膜下出血の方への対応ですが、「何があっても一切責任は問わないで」という確約を取りました。冷たい言い方をしたかもしれませんが、その方は本当に神様を求める気持ちが強かったのです。だから私も一生懸命に取り組みました。だからその方は奇蹟を頂き、難病を克服したのです。

これは、先生がほかの教団のところから頼まれてくも膜下出血の対応をしたという、この時の経験があったので○○さんの時に浄霊の急所ということで、お臍の両脇という事を教えていただいたという事があります。
  それと、

【御教え】『御垂示録』21号  昭和28年6月15日
『「私のほうではお医者にかかるな薬をのむなとは決して言いません。それはあなたのご随意です。しかし道理はこうです。それから私は神様からこういうように教えられている、薬は毒だと教えられている。それをあなたのほうで採用するしないはあなたのご随意だ」というように言うのです。』

それから、伝道の手引き 
伝導の手引きというのは、中村市郎先生のまとめられた御教えです。

伝導の手引き より
家族が浄霊に反対する場合
 『ですからそういうようにしてすべてをやっていれば、決して問題は起こらないのです。病気の場合にも家の人が反対したりする場合には、「それは結構だ、全くそのとおりだ」と言って、感心していれば、その反対した人は、あの先生はなかなか分かると思います。「私のほうではお医者にかかるな薬をのむなとは決して言いません。それはあなたのご随意です。しかし道理はこうです。

さっき読んだところですね。だから、円転滑脱にやって下さいという事ですね。
それと、また同じようなことですけども

メシヤ講座・特選集(№62・平成18年3月分)
メシヤ様は絶対的な真理をお説きになられながらも、『それを採用するかしないかは相手のご随意である』という姿勢を貫かれ、無理強いをされませんでした。これは絶対的な自信に裏付けられたお姿であり、そこにこそ、メシヤ教における信仰生活の規範を拝することができます。

ちょっととばして(4ページ9行目へ)

これから、厳しい浄化が予想されますので、お世話させて頂く時に、理解して取り組んでいただきたいことを始めにお話しさせて頂きました。

色んな事がこれから浄化者が出てくると思うので、お世話する側の立場に立っての書き方です。
で、『覚りの旅』ですけども、今読むと時間がかかりますので、読んでもらっているとしてですね・・。
「真の大乗宗教」というのが、今回のテーマです。
要約しましたので、確認させて頂きます。

令和二年四月度『覚りの旅』御教え
「真の大乗宗教」 栄光二四二号 昭和二十九年一月六日
要約いたしますと、
・宗教には大乗と小乗とあり、世界的宗教は、分派という、色分けがされているが、本来宗教は、人間相互の親愛、平和協調精神が生命である以上、目標は一つであるべきで、手段方法にしても色分け等ないのが本当だろう。
・別れ別れだと、社会混乱の原因となり、宗教という善の力は分散されるから、邪神の力に対抗する事が出来なくなります。
・宗教よりも邪悪の方の力が勝つ事が常にあるが、神は十全、邪神は九分九厘であるから最後は神が勝つのです。しかし、善の方の苦しみは並大抵ではありません。
・邪神の勢力は、絶えず吾々に対し眼を光らし、隙あらば切り込んで来ます。
・ですから、宗教は邪神以上の力を有たねば、善の勝つ幸福な世にはなり得ません。
・そうなってこそ万教は帰一し、世界は打って一丸となり、茲に不安なき幸福な世界が実現する。
・それは、不可能ではない。何故なれば主神の御目的たる地上天国は已に近寄りつつあるからである。
・その根本は勿論小乗を棄て、大乗精神が基本的条件となる事である。

結構短くまとまるでしょ?(笑)。 皆さんのまとめ方はまた違うかもしれませんけども・・。
で、ここでポイントというのは、“巨人”。
巨人が出なければならない・・という、この巨人。
この巨人とはメシヤ様だと思います。

真の大乗宗教というのは、地球上一切のもの、宗教、科学、政治、経済、芸術等悉くを包含された処の超文化運動であり、その指導的役割を発揮する超人的力と智慧とを有する巨人こそ、メシヤ様なのです。そうすると、真の大乗宗教とは、メシヤ様の御教えを実践することだと言えるのではないでしょうか。

「真の大乗宗教とはといえばメシヤ様の御教えを実践すること」 という風に私は解釈させていただきました。一つの解釈です。
で、ここで

神は十全、邪神は九分九厘と書かれています。3月にも、『九分九厘と一厘』の学びをさせて頂きました。もう少し掘り下げてみたいと思います。

下線のところだけ読ませていただくと、5ページの15行目ですね。

『文明の創造』の中に書いてある
今までは主の神様の教えは説かなかったのです。主の神様が善と悪と両方こしらえて闘わせて、文化というものが今日のように発達したのです。
そのために主神は両方作って闘わしたのです。

善と悪と両方作って闘わせた。
で、

主の神様の教え――私の教えは両方説くのです

主の神様の教え、だからメシヤ様の教えというのは両方説くんです。という事が書かれています。
それで、これは九分九厘と一厘という事を調べていたんですね。『天恩地惠 メシヤ講座』の編集も続けてやっていました。ということで、両方平行して進めていたわけですけども、

『メシヤ講座・番外編』というのもメシヤ講座の方で載せるようにしてましたので、その時の最終号に載せるように作業を進めていました。すると、メシヤ教の皆様にどうしても伝えたいのだと、私に語り掛けて来られたように次の御教導がヒットしました。それで早速ブログに掲載させて頂きました。

ここが重要かと思いまして、
一厘の力 ということで、 2020年03月06日ブログにも掲載させていただきましたけども、
楳木先生への質疑応答、これは○○さんが先生にインタビュー形式でされたものです。

一厘の力  2020年03月06日ブログ掲載
メシヤ講座no.14 番外編(平成22年1月その4)より
楳木先生への質疑応答13〜一厘の力 
楳木先生
そうすると、増々、「九分九厘と一厘」の、「一厘」というものをわかっておかなければなりません。例えば、「一厘の力」というと、「メシヤ様の力」ではないかとか、人によっては「大メシヤ」だとか、あるいは「大弥勒」だとか、このような表現を使ってイメージを膨らませる様な人も多い
しかし、これは御教えをそのまま読めばいい訳で、要するに、「主神様の」と書かれている。だから、先程の話と共通するのだけれども、「主神様」から出る力だから、浄霊力が最高であるという事。これを神科学ともおっしゃる。そういう力を出す事が出来るから、そこから頂く教えは、「真理」なのだという捉え方をして、この「真理」を以て行く事が、実は「一厘の力」なのだという捉え方をしないといけません。
「大メシヤ様が出て来るんだ」とか、「いや大弥勒だ」とか、あるいは「国常立尊」だとか、そういう世界ではないという事です。主神様からメシヤ様を通して出られた御教えを、我々は如何に実践して、普遍化して行くかという事が、実は「一厘の働き」なのだという姿勢を持っておかないと、いつまで経っても人を当てにしてしまう。「自分ではない」という事になって行ってしまう。この点を、取り違えない様にして頂きたいと思います。

10年前に、インタビュー形式で行われたメシヤ講座ですので、番外編となっております。
メシヤ教の混乱を予想されておられたのでしょうか。
「大メシヤ様」とか、「大弥勒様」とか、「国常立尊様」という世界ではない。
『主神様からメシヤ様を通して出られた御教え』なんだと、明確にご回答されておられるのです。御教えとメシヤ講座を規範として、ゆるぎない信仰生活をさせて頂ける私達は本当に幸せだと思います。

先生、事前に言われたんですね。だから、これ以外先生が大弥勒について語っておられるのは無いんですよ、実際。ミクラタナの神様の話はされていましたけども、大弥勒様のという話はされていない。こういう捉え方でずっと来られていたんだと思います。

それで次に、今回のテーマが「真の大乗宗教」ということで、大乗と小乗の御教えをチェックさせていただきたいと思います。
  これもピックアップしながら読ませていただきたいと思います。一つ目は省略させてもらいます。

合衆国の国民思想を範に取る(6ページ下部)ということでここには当時のアメリカと日本の裁判を例にして小乗大乗の説明をしているんです。
大乗小乗の話ですから・・例えば(6ページ下から11行目)

それでいろいろな事業をする人などは、どこかに法に触れることが少しはあります。それがなかったら、それまで気を配っていては、アメリカのような大きな仕事はできませんから、少しは法規に触れる場合があるので引っ張られる、そうすると、この人間は法規上の罪にした方が国のためになるか、アメリカ発展のためになるかということを考えるのです。それは、大きな罪はそうはゆかないが、小さなことは罪にしようがしまいがたいしたことはないので、裁判官の口先一つでよいくらいなものです。それで無罪にした方がアメリカのためになるということを標準にして決めるのです。

メシヤ様も裁判されてますので、大枠で捉えて欲しいなという事を、細かいことを突っつかずにね、という事を言われてまして、7ページの上から3行目になりますけども、

『九つの良いことを見ないで一つの欠点で消してしまうのです。それが日本の欠点です。これは法律のことですが、』

とは書いてありますけども、そういう精神の話にもつながっていくという事で、大乗と小乗の精神ね。だから悪いことをしていいというんじゃないんですよ。だけど、人のことを言う時にはですね、どれだけ大きなことをしたのかという話、細かい悪いことをしてるけども、大きいいい事をしましたよねとか小さい事だけ捉えてそこだけを突っついてその人をつぶしてしまうというのはどうなのか・・という事をメシヤ様は言われてますという事です。大乗と小乗の考えに合わせてね。

で、次は省略して・・人類愛を中心とすべき事(7ページ)ということで、下線を読みます。

人類愛を中心とすべき事
だから自分が救われようということは捨てて、多くの人を救わなければ、とてもかわいそうで見ていられないということを、本人が始終思って念願するのです。そういうのが本当の信仰です。

それから次に 人の善悪を気にせぬこと事

人の善悪を気にせぬ事
『だから人を相手にせず、神様を相手にしろと言うのです。だからその点ちょっとしたことですが、たいへんな違いです。だからどこまでも大乗信仰です。それで大乗信仰の人は、人が良いとか悪いとか、そういうことは言わないのです。小乗信仰の人に限って、あそこがいけない、ここがいけないということを始終思ったり口に出したりするのですが、それがいけないのです。第一人が良いとか悪いということは分かるわけはないのです。』

次は省略して、布教する資格の問題という事が8ページの一番上ですけども、

布教する資格の問題
「自分にはその資格がないのかと思うのでございます」
『そんなことはない。人間で、資格がないということは絶対にない。はずれているんです。うんと御神書を読むんですね。これはだね。病気が治りさえしていれば、すがってくる人が多くて困るくらいのものですよ。そうしてお蔭をいただけば、お礼をしなければならないしね。』

資格がないという事はない!ということです。私には浄霊する資格は無いという事はない。この御神業をやっていく資格は無いという事はない。人を救う資格は無いという事はないんですと。人間がやっていくんですから。
ということで、次、次、次と省略して応変自在(8ページ下)というところ

応変自在
「小乗的な行き方を反省いたしますと、親切すぎるくらいにヒント与えているということになりますが――」
『結構ですが、その場合に、堅っ苦しい戒律的はいけない。道徳的ですね。少しは良いが、あれにこだわりすぎてはいけない。だから、言うに言われないんですね。それから、相手によって違わなければならない。だれもかれも同じではいけない。相手によって、小さく言うこともあるし、中くらいに言うこともあるし、大きく言うこともある。それが応身の働きですね。信仰だって、相手に理解し得るようにね。インテリはインテリらしく、普通の人は普通に、女子供は分かりやすく単純な話ですね。人によって違わなければならない。その修行ですよ。だから、なんでも、一番いけないのは、決めるのがいけない。こうだと、決めちゃうと、真理からはずれちゃう。そうかと言って、ぜんぜん決めなくて、でたらめでもいけない。決めるべきものは決める。決めていけないものは決めない、事に応じて千変万化にする。それが自由無碍です。法律というのは、定めるから悪人が出る。これは罪になるということを定めちゃうから、それに触れないことは罪にならないということになって、法律をくぐることになる。お医者でも、これはこういう療法でやる。あれはこうと定めるからいけない。つまり真理は一つです。だから決めることができないし、決めないことはいけない。決めて、また決めない。それから、はっきり言ってもいけないし、はっきり言わなくてもいけない。つまり、わけが分からない。そこに、一つのコツを見出すので、それが最高の信仰です。だから、そこにいくと、ほとんど口には言えない。覚りですね。』

何を言ってるのかな?(笑)
決めないという事です。臨機応変にと。応変自在で行きましょうと。何が正しいということではないという事ですね。

参加者
迷ってしまいます。

三救責任者
悩むよね。

参加者
うん。

三救責任者
それと、発展せぬ事は御神書をよく拝読すべき事(9ページ) ということで、


発展せぬ事は御神書をよく拝読すべき事 御光話(S24年 2月28日) 
――一人でも多くの人を救おうと悩むことはいかがでしょうか。
『教導所などが不振なのは、なにか神様のお気に入らぬ点があるんだから、それを見つけることです。『信仰雑話』をよく読めば判ります。あれは標準を教えてあるんだから。『信仰雑話』は何回でも読まなければいけません。よくあの中に出ているようなことが質問に出ますが、これはよく読んでない証拠です。』

これは、ほとんどね『天国の礎』の項目が入っています。『信仰雑話』をちょっと省略して書いたのが『天国の礎』かな。
それから、

小さき事にも心配るべき事 御垂示(S28年11月1日)
 『小乗大乗、あるいは大きい心小さな心と言っても、本当に大きなことをする人間は実に小さなことに気がつかなければならないのです。大きなことばかり考えて小さなことに気がつかないのは失敗者になります。大きな考えを持っていても、非常に小さな考えも持っていなければならないのです。結局小さなことに気がつかなければ大きなこともできないのです。そこで大乗にあらず小乗にあらずで、一方に偏ってはいけないのです。』

小乗はいけない、大乗であれという話もあるし、ここでは大乗にあらず小乗にあらずで偏るなということもありますので。人によって教え方を変えよということもありますし。
それから、

自分を審神すべき事 御講話(S27年1月1日)
 『今日はお説教じみたことが多いですけれど、邪神ですね――邪神が中々活躍しているんですよ。この間も言った通り、邪神というものは、信者を一番目掛けている。ところが信者は、自分は神様のご守護があるから――邪神は信者でない者に憑いて、そうして邪魔すると――こういう風に思いがちなんです。そういう事はあるにはありますが、ところがそういう邪神は、ごく力の弱い邪神なんです。邪神の方のへっぽこですね。ところが邪神の方で、力――腕のある奴は、信者に憑るんです。これが怖いんです。それで――憑っても、決して悪い意味じゃない。信者ですから、間違った事や悪いことを考える事はしない。「これが良い。こうするのがお道に為になる」と思わせるという――これが怖いんです。そうすると、これが教団の為になると、その人が思ってやるが、それが知らず識らず、教団のお邪魔になったり、不利益になったりすることが良くある。ですから、邪神を気をつけるのは自分ですよ。自分のやり方は、邪神にやられているんじゃないかと、審神(さにわ)するんですね。そいつは大いに必要です。ですから、そういう場合に、よく――こうした方が良いか、ああした方が良いかと迷う時があるが、そういう時は大乗で見ていくんですね。教団全体から見てどうかと、ところがどうも ――人間というものは、自分たちの会なら会を盛大にしようというんですがね。それは大いに結構ですがね。そのくらいの自信を――優越心がなくてはいけないですが、その為に他の教会なら教会に影響させて、自分が良くなろうという――この点がいけない。ですから、自分の会も良くし――他の会も良くなるというような意味から言えば結構ですが、そういう時に、ちょっと自分を審神するんですね。自己批判ですね。難しい事はない。じき解る。そういう時を狙って邪神が良くやりますからね。だから、その点を改心するんですね。』

人のことを邪神って言う前に、自分は大丈夫かという事を、自分も審神して下さいということが書かれています。
ちょっととばして、11ページ、


大乗たれ
人を邪神と決めぬ事 御講話(S28年8月1日)
 『最初に一言話したいことがあります。これは分かりきった話なのですが、どうも一番困るのは、いつも小乗信仰の人が多いのです。小乗信仰にもいろいろありますが、一番よくないのは「あの人は邪神だ」とか「あそこの家には邪神がいる」とか言うことですが、これが一番悪いのです。ですから私は「人を邪神と言う人は、その人が邪神だ」と言ってありますが、邪神である邪神でないということは、決して人間に分かるものではありません。神様以外には分かるものではありません。それを分かると思うのは、神様の地位を犯していることになります。ただ自分が邪神にならなければよいので、人が邪神であろうがなかろうが、大きなお世話です。』

と、ハッキリと教えていただいております
で、12ページに行きまして、布教も大乗的な行き方 ということで、これは下線のみ読ませていただきます。

布教も大乗的な行き方
小乗信仰というのは信仰地獄に陥るのです。天国というものは大乗です。苦しんだりいろいろすることは地獄に陥るのだから、つまり苦しまないことです。病人でもそうで、あの病人を助けなければならないと思うのは結構ですが、その心配のために地獄になります。この間も相談を受けたことがあります。精神病者ですが、どうしても助けたいと思っていろいろして、そのために気持ちが憂鬱になって、思案に余っていたわけです。それで私は「そんなことはわけない、すぐに病院に入れてしまったらよい」と言ったのです。それを病院に入れないで、どうしても治そうとするからです。そう言ったら、なんだか気がせいせいしましたと言ってました。というのはつまりこの間も言ったとおり、救われる人と救われない人とが時節が進むに従ってだんだん決まってゆくのです。だから救われない人はかえって諦めたほうがよいです。そのためにかえって救うべき人が救われないということにもなります。』

これは、執着になってるという事。何としても治さないといけない!と執着が逆に・・、反対者が周りに居たりするとその執着が病院に行かずに浄霊で治ってしまったら、反対してたのにこの宗教を信じなくちゃいけないじゃないかというような執着が働いてくるとそれが邪魔になってスーッと治っていかないという事です。
そういう事がある時には分かったらもう手放せって言ってるんですね
自分達の在り方というよりも、お世話するときの在り方を言ってますね。
難しいでしょ? 悩まない事ですね。(笑)

参加者
(笑)

三救責任者
『そう決めてしまうとまた間違ってしまいます。そこのところは臨機応変にやることです。』

○○さんの時でも、薬をのんでましたけども、ああいう状態でなかなか・・。徐々に減らしてという風に先生は指導されてましたし、薬を飲んでるから来るなとかそんな話はしてませんでしたので、それは自分が色々判断してきた道であって、どれだけ薬毒が入っているかによって、取っていくのに一気に止めたら余計に持っていかれるというのもあるので、その辺の状況というのが、医者に掛かってしまってるので、医者と話しながらというような指導をしていましたよね。そういうやり方だと思いますけどね。難しいですよね、元々薬が入っている人は。

参加者
元々入っているのもあるけど、本人の気持ちだよね。○○さんの場合、恐さが先に立ってたから。

三救責任者
だから、これは諦めた方が・・御教え上はそうなんですけども、だけど寄り添う事も大事という御教えもあるから、決めるんじゃなくて、駄目だって決めて手放すんじゃなくて、そういう寄り添う姿勢って事でやっていきましょうということでやっていたんですね。

参加者
徐々に減らすというね。

三救責任者
減らすという気持ちはあったもんね。

参加者
本当は止めたいっていう気持ちはあったでしょうからね。ただ、恐くて・・。

三救責任者
そうそう、だから、それとの葛藤の中でずっと来てたからね。

参加者
乗り越えられるか、乗り越えられないか・・。

三救責任者
それは人間皆そうだけどね。
一人一人違いますからね。

参加者
ねぇ、本当ですねぇ。

三救責任者
それから、15ページまでとんで

真ん中あたりですけども、

メシヤ様御降臨祭を御神業の起点に
御教え『大乗宗教』の中の
『即ち宗教も哲学も、科学も政治も、教育も経済も、芸術も、その悉くが含まれている。そればかりではない、戦争も平和も、善も悪も包含されているのは勿論である。』という『大乗宗教』の御論文の中身を私達は宗教の中に身を置く人間として大きな捉え方ができるように、今年一層想念を広げて行っていただきたいと思います。
その上で『宗教に自由はあるのか』の御教えの
『一種の宗教地獄に落ちるのである』の部分を肝に銘じておきたいと思います。とりわけ本日は御神業の中心を担ってくださっておられる方々にお集まりいただいておりますので、『真の自由とは他人の自由を尊重する事であるから、そこに自らなる限度がある、所謂一定枠内の自由で、此自由こそ真の自由である、何となれば他人に些かでも障害を与えるとすれば気が咎める、不愉快であるから、そこに天空海濶的の気持にはなり得ない、どうしても他人に愉快を与える事によって自分も愉快になる、之が真の自由である事を知るべきである。』という内容、このことを取り分けお世話をさせていただく方々は、肝に銘じて進んで行っていただきたい、と思います。
私も(先生)メシヤ教として小さいところから立ち上げ時、様々な方々から問題解決のあり方等を相談されてきました。中には皆さん方ご承知のように借金の癖が中々取れない人がおりました。ある時その父親から「竹刀で百叩きをして借金癖をとってくれないか」と言われたことがあります。その時私は「それは『夜の時代』の呪術方法なので、私はそういうことはしません」とお答えしたことがあります。

借金のお世話とかそういう問題解決から始まってたんですね。最初のスタートの頃って先生の話というのは○○さんという方の借金の問題の色々な話に親身になって。献金問題とか色んな所の宗教の人が来てるのはそういう人が多かったですから。そういう問題を解決してきたわけです。だから、借金の問題を解決する手法というのはよく知っておられました。

ということで、16ページ5行目、下線のところですけど、

実は私達には『夜の時代』の癖がビッシリと染み付いています。これを取り除いていくのが実は『浄霊』であり『御教え拝読と実践』であり『参拝』『奉仕』である訳です

で、16ページ、下から2行目
霊掛りの話の時ですけども、

メシヤ様の御光を、いかに“ここに救いを求めている霊に取り次いでいくか”という想念が大事なのです。夜の癖からすると、どうしても霊と戦うようになってしまいます。しかし、霊と戦っては『夜の時代』の宗教になってしまいますので、私達の想念を絶えず戻していかないといけないところがここにあります。

これは霊掛りの時に“元津御蔵(もとつみくら)に還(かえ)って下さい”というのは想念でもってやりましょうという。これは多重人格の話の時です。憑いた霊を、一つずつ取っていった。“元津御蔵(もとつみくら)にお還(かえ)り下さい”という想念で浄霊を取次ぎつつ解決していったという話です。
で、17ページの下線のところ

メシヤ様の御教えを具体的なところに下ろしてきて、私達はお世話に当たるということをしていかなければいけません。

救う側の立場に立って、『伝道の手引き』から主に御教えを掲載させて頂きましたので、大乗のあり方、メシヤ様のお示し下さった救いの方法を皆様で話し合っていただくのも良いかと思います。

というようなまとめ方にしてあります。
御教えがとても多いんです。ちょっと今回も省略しながらやりましたけども。

で、次のテーマに入らせて頂きます。
17ページの真ん中ね。

テーマ2
「明主様(メシヤ様)御言葉」昭和二十九年六月五日
メシヤ降誕
明主様御言葉
未発表、昭和29(1954)年6月5日、碧雲荘にて
管長 お祝申上げます。今日の御生誕の儀、御目出度う御座居ます。信徒一同、日々の御守護厚く御礼申上げます。メシヤ様(明主様)

メシヤ降誕と言ってね、メシヤが生まれたわけです。言葉だけでなく事実がそうなんですよ。私も驚いたんです。生まれ変わるというんじゃないですね。新しく生まれるわけですね。

御挨拶  理事 阿部晴三 栄光263号、昭和29年6月30日発行
今日は誠に御目出たい日でございました。謹んで、皆様と共に御祝いを申し上げます。
ただ今管長様から「明主様」を「メシヤ様」と、今月より申し上ぐる事のお話を拝聴させて戴きましたのですが、それにつきまして私から、世界はじまって以来なかった事を皆様に御伝えする喜びを持つ次第であります。
 
ということで、天下筋という、「ごてんもん」が現われましたよという話をされております。
18ページの天降説にいきますと・・下線のところね。

天降説
弥勒下生と云うも弥勒の御魂が下生、つまり下層社会に生れると云う訳である。

だから、高貴な方が下層に生まれるのを下生と言うんですね。弥勒下生。
続いて読みますと

また胎蔵弥勒と云う言葉があるが、これは仏教の内に胎中の期間を言うので、実はすでに誕生されたのである。従って、弥勒が生れた以上仏界は最早消滅期に入ったのである。弥勒出現成就経に仏滅後弥勒が生れると云う事が書いてある。
 
天降説って言うんだね。メシヤ様はタイトルで書かれてます。
要は、キリストの降誕の話、再臨の話、とかメシヤ降臨、弥勒下生、というのを天降説と。同じですよね。高貴な人が生れてくることを言ってる。
次に20ページ

2015年4月 メシヤ講座・浜松
国常立尊様の力が強まっていくことへの対応の仕方
もう一つ、メシヤ様が課題として出したのは、『これからは想念の世界なのだ』と。『御念じしなさい』というふうに仰っております。

という事が出ております。その上のところにはさっきの印刷の話とか

『本当はもう御守りはいらないのだ』と。メシヤ様に、名前と職業と年齢と住所、そうしたものを報告すれば浄霊力は授ける

という話が理事会であったけどもそこが伏せられてきたんだよという話がございました。
で、『これからは想念の世界だ』という話は、メシヤ様の側近者が浄化した時の話、側近奉仕者の体験談『これからは想念の世界』というのがあるんです。
ここに掲載してなかったので、それを読みますと、

明主様ご昇天の前年、昭和29年4月19日、明主様、神定めの最後の御浄化に入られました。ある時いつもなら明主様にご報告する信徒からの御守護願を明主様の御容態の良い時を見計らって、側近の樋口ひめさんが報告をさせて頂いたそうです。その折、明主様から「今までとは違う、これからは特に想念が大事なのだ」という旨の厳しいお叱りを頂いたのです。そんな時、カクタカズコさんという奉仕の方が顔に覆った前掛けが張り付くほどの火傷を負ったのです。それで、明主様の御言葉通り日光殿で皆で御念じさせていただいたそうです。きっと「明主様御願いします。惟神霊幸倍坐せ。」という旨の御念じだったと思います。す                       ると火傷は急速に快方に向かったのです。その翌日に皆で御念じし、阿部晴三執事先生に御浄霊を頂いてその結果今朝は何事もなかったかのように、むしろ前より奇麗になりました。とのご報告が樋口さんによって明主様になされたのです。その報告に明主様は「これが唯一の見本だよ」と仰ったということです。御浄化の中、明主様が度々発せられたという「これからは想念の世界である。御浄霊は二の問題でまず想念である。御念じしなさい。」というお言葉はその後のメシヤ降誕と御昇天の大きな神事と共に大変重要な意味を持つものであると私は思います。

と、側近奉仕者が話しておりましたということです。「これからは想念の世界なのだ」という事だけでとらえると、これは浄霊もしてますからね、当然。まずは御念じして、まずはメシヤ様に祈願・お願いして、浄霊という事が、ちゃんと手順を踏んでやってるわけです。
あるところに行くと、もうこれからは想念の世界だから浄霊はしなくてもいいんだということを言い始めてるところがあるようです。だけど、そこは全体を読まないと分からない・・。

参加者
本当ですね。そこだけ読むと・・二の問題ってところだけ読んじゃうと。

三救責任者
そうそう、そこだけ切り取ってやられると・・。

それは、一緒じゃないですか、メシヤと呼びなさいと言ってるのにも関わらず、明主とメシヤは五十歩百歩だからというのをやりましたけども、あれも、それだけをとらえて受け止め方が「だから明主様で、五十歩百歩で一緒でしょ、いいじゃないですか」って言ってる人がいるけれども、こういうことをきちんと一つ一つ確認していくとですね、メシヤ様は「もう御守りはいらない」のだと。メシヤ様に名前と職業と年齢等を報告すれば浄霊力は頂けるんだということをきちんと言われてるにもかかわらず、それが伝わってきてなかった、伝えてきてなかったことがあるということで。だから、言葉の捉え方ですね。きちんと前後を分かった上で、色んな浄霊の変遷があるのでね。御教えをしっかり拝読しなさいというのはそういうことにあるかと思います。
ということで、最後のところ

メシヤ様と御尊称申し上げ、メシヤ様に、名前と職業と年齢と住所等を報告すれば浄霊力を授けることが許されました。このことを、先生と御縁を頂いた時より御教導賜り、最初は疑った人もおられたことでしょう。恐る恐るお守りを外し、御浄霊をお取次ぎさせて頂いたのではないでしょうか。
そして、各拠点の御守護報告にありますように、奇蹟の御守護報告に驚愕されたのではないでしょうか。今では『メシヤ様』と御尊称申し上げることは、私達の信仰生活に根付いております。

3月25日は、楳木先生が他界されて3年となります。
『天恩地惠 メシヤ講座・特選集』全七巻を三救の内部資料として作成いたしましたことを御奉告致します。およそ一巻200頁で、1号~180号と番外編も収録し最終巻には目次も付けました。
「メシヤ様の御教えに基づいて『教・論・律』を日々形成してゆく」信仰生活を歩みながら「宗教宗派、人種を超えて浄霊力伝授する」取り組みをより一層拡大してゆく。このことを御神業の根底に置いていただきたいと、望まれ御教導下さったことを3年の節目に振り返っていただき、新たな御神業に出発していただければありがたいと思います。
以上をもちまして今月の『覚りの旅』を終わらせて頂きます。

何か質問あります?

ちょっとボリュームがあったので、飛ばしながらいって・・。
大乗、小乗という御教えは多いということですね。

参加者
この間、ちょっと迷っていた時にこれを頂いていって、ふと開けたところがここで(大乗、小乗)、「あぁ、こういう事かなぁ」って思いました。

三救責任者
そうそう。パッと開けたところに出てくるんですね。

参加者
その時に、「そっかぁ、ここなんだぁ」って思いましたねぇ。

三救責任者
今日はこれ(天恩地惠 4月)でいったので、黒板無しでやりました。
ブログに載せてもなかなか見れないとね、学び直しというのが出来ないって思って、これだとまた取り出して見れるからね。

参加者
さっきも読ませていただいてて、ここがね、ちょっと分からないんです。
6ページの5行目からの
「大メシヤ様が出て来るんだ」とか、「いや大弥勒だ」とか、あるいは「国常立尊」だとか、そういう世界ではないという事です。主神様からメシヤ様を通して出られた御教えを、我々は如何に実践して、普遍化して行くかという事が、実は「一厘の働き」なのだという姿勢を持っておかないと、いつまで経っても人を当てにしてしまう。「自分ではない」という事になって行ってしまう。
というところなんですけど、こういう姿勢を持っておかないといつまで経っても人を当てにしてしまう。「自分ではない」という事になって行ってしまう。という、ここがつながってこなくて・・ 。

三救責任者
これは、僕もここを抜き出したけど、ここの前のインタビューから読まないと分からないよね。これは、一厘の力は何かというところだけを書いたわけですから、そこの話の中で前段に話があったわけですね。

参加者
そうか、そこを見てないからですね。

参加者一同 再読

参加者
・・・勘違いする人もあるじゃないですか?私の思ったことですよ。

三救責任者
人にね。一厘の力は何ですかとか聞いた時に、色んな事をいう人がいるじゃないですか?
人によっては、「大メシヤですよ」とか「大弥勒ですよ」っていう人がいて、今、その状態じゃないですか。だけど、ここには御教えの中ではですね・・・

参加者
その奥にある主神様なんですよ、メシヤ様ですよ。だけど、自分ではないよって事は、結局御浄霊をいただいて御守護をいただいたら、この人に助けてもらったとかっていう人もあるじゃないですか。その中で、自分ではないということに・・・

三救責任者
何でも同じ意味合いで解釈の仕方が自分で御教えを読んで覚っていかなければ、人が「大弥勒だ」と言ったら大弥勒なのかと。その大弥勒というのはどうなのという事を今まで経験してきてましたよね。大弥勒と言ったらこうなってきてしまったというのもあるし、御教えに照らして自分の頭でしっかり考えていかないといつまで経っても人を頼りにしてしまう。

参加者
あぁ、そういうことか。そうかそうか、そういうことか。
人を当てにしてしまう事になりますね。

三救責任者
今までも全部そうじゃないですか?結局、御教えとかメシヤ講座を中心にしてどういう風に書かれているか、解釈されているかということをきちんと分かっておかないと、あの人が言ってましたよってよくいう人がいるじゃないですか。あの人が言ってますじゃなくてメシヤ様がどう言われたのと。それはメシヤ講座に書いてありましたという話にしていかないと、どこどこで聞いたけどこんなことを言っていました、って話が流れていく。
何も考えないからこうなってきてるということです。ちょっと待ってよって考えたところは御教えに照らし合わせて違いますねって。
色々悩んでた時に、メシヤ講座をまとめていて200ページにしようと思って、ページ数が余って来たのでインタビュー形式のから入れようと思った時にちょうどこれが出てきて、先生、「大メシヤ様が出て来るんだ」とか、「いや大弥勒だ」とか、あるいは「国常立尊」だとか、そういう世界ではないという事です。主神様からメシヤ様を通して出られた御教えを、我々は如何に実践して、普遍化して行くかという事が、実は「一厘の働き」なのだ、と言われてるのがありましたということで、僕は喜んで載せたわけです。だから、今の状況を予測してたのかと思えるくらいのドンピシャのが出てきましたよという事です。
先生は主神様とメシヤ様の事以外言ってませんよね。当然、ミクラタナの神様の話も出てきましたけども、ミクラタナの神様の御神名を唱えよって言われたわけじゃないんですよという話ね。そういう神様、こういう神様って、国常立尊様にしてもこういう神様ですよと御教えで話をされておりますけども、この御神体に国常立尊と奉唱されたことはありません。そういう事じゃないですかと。

参加者
働きだね。

参加者
働きね。それが分かり易かったですね。

三救責任者
観音様の働きと言うことであれば、それはずっと位が上がっていくんだという事を意識できれば主神様です。今度は〇にゝ(チョン)を意識できれば呼んでもいいわけです。
御尊影に対して拝んでるところも、間違いではないよね。〇にゝ(チョン)を意識できれば。
〇にゝ(チョン)を意識できるのかという事です。
色んな御神体があるけども、どこにどう意識してどういう御神名を唱えさせて頂けるのかということじゃないですか?
だから、何が悪いんじゃないよという話。ミロク大御神ということもずっと来てるわけですから、それはそれで正しい。
それぞれの働きでそれぞれが結局は全部主神様ですよ、メシヤ様ですよ、ということが分ってればいいんですけども、固執するんじゃなくて、相手のことを違う、邪神だって言うんじゃなくて、自分達は一番高い御神名を唱えさせて頂ける御神体をいただいて、日々参拝させていただけるということが本当に有難いと思って信仰していけばいいわけであって、人はどうであれ。

参加者
そのご縁があるところということだね。霊線のつながりとかね。

参加者
その人にはその人の働き、それぞれの役目があるということですよね。

三救責任者
そうそう。だから、もっと色んな、主神様、メシヤ様のことが分らない人にもつなげていって、広げていくという働きのところじゃない?その人達はそういう風にして働くということはあるんじゃないですか。
ここにつながってきた人たちにはこうやってずっとメシヤ講座とか御教えとか話をさせてもらって、浄霊というものにつながって救いにつながっていけることを目指してやっていければいいかなと。
だから、今までやって来たことをきちんと伝えていくという取り組みをしていけばいいかなという風に思ってます。
あまり難しく考えなくてもいいんじゃないかなと。
全体でとらえたら、増えていくんだって思っていたらいいじゃないですか。
浄霊に特化してやっていくところもあるでしょうし、教えに特化してやるところもあるでしょうし、それはそういうところで地上天国建設に向かっていく働きをしてもらってるんだと。それは別に組織で合体して一緒に同じ方向を向いてやっていくと色んな人がいてバラバラになって行くので、そうじゃなくて色んな所で色んな働きをする人が結局全体を作っていくんだと。

参加者
大乗!

参加者
そうです。そうです。

三救責任者
すごいね、今日はドンピシャだね。(笑)

参加者
あぁ、スッキリした。(笑)
癖でね、難しく考えてなんか窮屈になっていって。

三救責任者
そうそう、御教えばかりギューッてやっていくと、ここにこう書いてあるからこうしなきゃいけないて言う事に囚われていくとね、何か大きなところが見えなくなってく。だから大乗でいかないとということだね。
自分の興味ある事ばかり細かくやって、興味ないところは・・同じくらいにやっていかないと。中庸で。求めるんだったら、全体で徹底的に求められるのかといえばなかなかそうはいかないから、だから、人はそうやっていたって自分はここを一生懸命やっていくというのがあって、それが拡大していけばいいんじゃないかと思いますけどね。
こうでないといけないという訳じゃないと。

参加者
何かの機会に伝えていけるといいんですけど。

三救責任者
そういう機会がピッと来るんですよ。

参加者
伝えていかなくちゃいけないんじゃなくて、向こうがどこでどう・・ピッタリ感じて・・

参加者
どう受け止めるかだよ。

参加者
それでいいんですよ。

参加者
なんかねぇ、そこのズレをいつも感じてしまう。何かピッタリこないなって。誰と会う機会があっても、何かそういう話になる時に・・

参加者
身構えるんじゃない?

参加者
あぁ、そうかな。私がそうなのかな。
何かそれを伝えたいって思ってしまうからね。

参加者
世間話の中にもいろんな形で伝わることもあるし、それでいいんだと思う。御教えを伝えないとって思っちゃうと・・。

参加者
思っちゃう。それが駄目なんですね。そうですね。(笑)

参加者
普通でいいの。(笑)

参加者
普通で!(笑)
しっかり自分は学んでいくしかないですね。

参加者
相手から学ぶことが多いから。

参加者
そうですね。本当に。

三救責任者
色んな世間に起きて来る事とか、相手の行動を見ながら、御教えに照らして考えておけばいいわけであって、何かの時に一言ちょこっと言えればいい話であって、別にこうしなくちゃいけないって言わなくていいっていう話ですから。

参加者
うんうん。

三救責任者
決めてはいけない。人それぞれ。
だから、どうしてよって、結局分からない。
答えは無いわけです。こうして話をしてても答えは無いんだよね。その時に状況に応じた一番ピッタリしたことが口をついて出てくるんですよ、身構えなくても。(笑)

参加者
そこですね。(笑)

司会
以上をもちまして、月次祭並びに一日祭を終わらせていただきます。
ありがとうございました。

参加者一同
ありがとうございました。