令和4年12月23日
          令和4年 メシヤ様御降臨祭 責任者挨拶
三救責任者
皆様、メシヤ様御降臨祭おめでとうございます。

参加者一同
おめでとうございます。
冒頭で司会が話したことを覚えています?

参加者
昭和29年のメシヤ会館での話でした。

三救責任者
ポイントはそこというよりも、何故、千手観音様をその時(昭和29年12月23日)に御奉斎されたかに想いをいたしつつ、祭典に臨んで欲しいという話でした。
昭和29年にメシヤ会館での御降臨祭において、千手観音様を御奉斎されました。
何でだと思います? 正解はございませんので、推し量るしかないので。
そういう事を考えつつ、ちょっと違う話をします。

参加者
考えておきます。

三救責任者
はい。
話は変わりまして、今年の漢字は「戦」でしたね。

図1

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図2
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古代中国の大切なものとしては、神様に祈ることと、戦争だったそうです。
(図2を見ながら)これが盾で、これが矛。盾には羽根飾りが2本付いているそうです。それがこの「単」という字になる。2本の羽根飾りがついた盾の形が「戦」という字です。
「戦」ということで、御教えをしらべていて出てきたのが、「悪魔の囁き」。

図3
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すごいタイトルですね。
ちょっと読みます。これは昭和11年4月19日の御執筆です。

悪魔の囁き
悪魔の囁(ささや)き、とは映画の題名のようであるが、これは誰もが体験する事なのである。
大抵の人が、最初観音信仰に入信した時、それは嘗(かつ)て覚えない程、感激に溢れるものである。それは、今まで諸々の信仰に懲りたり、又、何程信仰しても、御利益がなかったり、又は、真理を掴めなかったりして、失望しているところへ長い間、求め求めてやまなかった宝玉を、見当(あて)たようなものであるから、その歓びに浸るのも無理はないのである。
しかるに、ここに恐るべき危機が伏在している。それは、悪魔がその人に対し、隙あらば信仰を引き落とそうと、狙い詰める事である。
 元来、この娑婆においては、昔から目には見えないが、絶えず、神と悪魔が戦い続けているのである。その戦というのは、大にしては国同志であり、次は党派と党派、階級と階級、小にしては個人と個人、今一層小にしては、一個の人間の心の中での、神と悪魔の戦、即ち善悪の争闘である。故に、最大の拡がりは国家間の争闘であり、最小の縮まりは、故人の心における争闘である。

「戦」という事で御教えを検索すると、こういう・・・人間の心の中の善悪の争闘というのも「戦」、「争い」でありますね。そういう事が言えるかと思います。それから、

しかるに、この心なるものは今日まで大部分は、悪に属し易かったのである。いわば、悪魔の家来が多かったのである。しかし、多くの人は悪魔の家来である事を、勿論、意識はしていない。何となれば、意識をすれば最早それは悪魔から放れる事になるからである。

意識したら悪魔から放れるという事です。

しかしついに、神に救われる人は、この無意識で悪魔の家来になっている人が多いのである。それはその人の盲目の眼の開く可能性があるからである。それらの人の無意識とは何か、それはその人の善と信じている事が、悪であったり、正神と思って拝んでいる、それが邪神であったり、真理と思っていることが、不真理であったりする事である。そうしてそれが、救いの光に依って、それら誤謬の正体が、暴露する事である。
 しかし、右は救われる側の人であって、ここに絶対救われない人もある。それは勿論、少数ではあろうが、はっきりした意識の下に、悪を行う人がある。又、悪を好む人もある。この意識的の悪人こそは、滅多に救われないのであって、これは、最後の清算期に滅びてしまう憐れむべき人々である。
ここで又、前へ戻って説明をしよう。真の信仰を把握し、過去の誤りに目醒め、感激の喜びに浸っている時、悪魔は己の家来を奪われた痛恨事に、切歯するのである。よし再び彼を、己に引戻さずに措くべきやと、その機会を狙いつめる。故にこの事に気の付かない人間は、何らかの折に触れて、迷いを生ずる。 それは多くの場合、親戚知人の親切な忠告や誠しやかな非難の言葉で、その人の心を乱そうとする。それは悪魔がその親切な言葉という、仮面を被って、実はその人を引堕す弾丸である。そうしてその第一歩として 心に間隙を生ぜしめんと努力するのである。その際余程確固不動の信念を有しない限り、成程、それもそ うかなと思う。その刹那(せつな)の想念こそ、実に悪魔の弾丸による、信仰の一部破綻である。この破綻は、たとえば 戦争の時、城塞の一角が崩されたようなもので、そこから敵が続々侵入し、遂に其城廓全部を悪魔軍の手に帰する様なものである。
心に悪魔軍が侵入したその状態は、こうである。それは必ず、信仰を離れさせるべき、いとも巧妙な理 屈を作るものである。即ち其信仰の欠点を探そうとするので、それが悪魔の囁きである。その時は常識で 批判すれば、馬鹿々々しいと思うような事を、さも欠点らしく意識させる。そうして飽くまでもその信仰を非なるもののように、理屈づけるが、それは実に巧妙極まるものであって、普通人には到底観破出来難いものである。そうしてそういう時は、必ず本部へ接近させないよう、本部へ参拝しようとする時は、些(いささ)かの支障にも理由付けて、接近させまいとする。それは何故かというと、悪魔は強い光を非常に恐れるからである。悪魔にとって光程恐ろしいものはない。光に遇う時、悪魔はその悪魔力が弱るものである。
万に一つも、助かる見込のない重患が、観音力によって助けられたとする。その時は自分の生命は、観 音様から戴いたものであるから、生命を捧げても惜しくないという、熱烈な信仰心が起るもので、又、それを口へ出す人もすくなくないのである。 
それが幾日も経ち、幾月も経つ裡に、不思議な程忘れてしまう人がある。実に浮薄、驚くべきである。 それは、そういう浮薄な人こそ、巧妙な悪魔の術策に陥り易い人で、折角一度、観音様の家来になりながら、惜しくも再び悪魔の虜となるのである。 
そうして信仰を離れた人は、例外が無いと言いたい程不幸に陥ってしまう事実である。それを常に余り に多く見せつけられている。しかし、そういう人も早い内に気が付いて、再び救を求めて来る人はいいが、 偶(まれ)には時機を失してしまう人がある。そういう人は、不幸の極、悲惨にも滅びるようになる人さえよく見るので、ちょうど、一旦乗ったノアの方舟から、海中へ墜ちて溺れるようなものである。
 真に救われた人は、この点能々(よくよく)注意すべきである。

信仰で救われた人への注意事項を昭和11年に御教え下さっております。
「戦」という今年の漢字から、今年の世情、さらには私たち一人一人の心の中を見通されての昭和11年の御執筆と受けとめさせていただきたいと思います。
信仰の浅い人、長い人にもよくよく熟読すべき御教えかと思います。

それで、話は戻りまして、昭和29年12月23日の祭典においてメシヤ様は大幅の千手観音様をメシヤ会館に御奉斎されるように御指示あそばされました。
御在世中最後のメシヤ様御降臨祭における御神体が千手観音様であったわけです。
どうしてでしょうか? 正解があるわけではありませんが、みなさん考察してみて下さい。

正解は無いですよ。だれもメシヤ様にお聞き申し上げていないので、拝察するしかないという事です。
御歌に 『思ひきや昔語りの桃太郎は千手観音の化現にませり』 とあり、

図4
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『桃太郎は千手観音であります。観音講座 第六講座』 
それから、
『千手観音は桃太郎のことである。たくさんの宝を取るのは、千手観音の手にたくさんの宝を持っている。あれは、いままでの世界の物はすべて鬼ヶ島の鬼が支配しておったのを、取り返したことになるのであって、いままでのあらゆる権力を鬼が持っていたのである。今後鬼が改心することになるのである。桃太郎に出られてはとてもかなわないと言って降参するのである。
それから、
『聖徳太子は千手観音の小さい型。私が今行っているのは千手観音の働き。だから何でも無限にいろいろなことをやっている。』
という御教えが出てまいります。

図5
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昭和29年12月23日から昭和30年3月3日までは70日間ですね。僕が考察していることですけども、70日間です。七(なな)という字。
メシヤ様が御生まれになった、1882年12月23日から昭和30年3月3日まで・・お亡くなりになったのは2月10日ですけども・・昭和30年3月3日までとすると、72歳と49日。
メシヤ様は御自身御昇天されることは分かってみえましたので、生れてからの御生涯というのと、この千手観音様をおかけになられて、メシヤとならせでメシヤ降誕本祝典を執り行うと仰せられたその日まで、「ならせ」 の七十と繋がってくるということと、観音様という事で考えると、善言讃詞を考えて欲しいんですけども、善言讃詞の主役というのは観音様から、世尊観世音菩薩此土に天降(あも)らせ給ひ・・ から始まっていますよね。
世尊観世音菩薩が天降(あも)られた、天降(あも)られたというのは、天降(あまくだ)る、天降(あも)らせというのは、神仏が天下ることですので、観音様が天降(あまくだ)られた。
御降臨祭という言葉も、そういう意味でいいのかなと。
誕生というのは人間が生まれること。
生誕というのは偉い人が生まれること。
御降臨というのは神仏が天降(あまくだ)ること。
メシヤ降誕という 降誕 はメシヤ様が・・「メシヤ降誕と言ってねメシヤが生まれたわけです。言葉だけでなく事実がそうなんですよ。私も驚いたんです。生まれ変わるというんじゃないんですね。新しく生まれるわけですね。」という言葉がございます。だから、メシヤ降誕ですので、御降誕祭。新しく生まれた。
そうすると、観音様が天降(あまくだ)られて、光明如来と現じて、応身弥勒と化して、この間も変化している。働きが変化しているという事ですよね。そういう働きをされつつ、救世主(メシヤ)とならせ。メシヤ様が現身を御持ちになられて、観音様が天降(あも)られて、その働きをしつつ最後には救世主(メシヤ)に新しく生まれた。
善言讃詞というのは、メシヤ様の御生涯をその働きによって地上天国化していくということを表わしているように思えます。そう考えるのがいいのかなと思います。そうすると、メシヤ降誕本祝典までつながっていくのであって、千手観音として、1本が25で、40本。40×25で千の働きをする。私達はその一つの手だとしても25の働きをさせて頂かなくてはいけないように思います。
ここでも25という数字は、観音普門品の25という数字と、5月5日の5×5で25、千手観音は桃太郎である、桃太郎は千手観音であるという事ともつながってくるということで、12月23日と3月3日のつながり、また、3月3日と5月5日、私達のやっている祭典のつながりというのが非常に関わり合いがあって、意味のある事なんだということが、善言讃詞の想いについて考えると分かるんじゃないかなと思います。
先程の昭和29年12月23日から30年3月3日というのは70日ということで、成るという字、七と書いても七(な)らせ、成ると書いても成(な)らせですから、これは1882年12月23日にメシヤ様が御生まれになられてから昭和30年3月3日というと72才49日ですから、72才と49日、49日というのは7×7、御法事の時には7×7でやってますので、これは今までに学んできた事ね、そういうこととも数字も合ってくるという事で、メシヤ様の御生涯と善言讃詞というのは重ね合わせて見ることが出来るんじゃないかと思います。
それで、前の教団の時の善言讃詞を見てみますと、「一天四海おしなべて仁愛(みろく)の御手に帰一され・・・」じゃなかったでしょうか? 覚えています?
「おしなべて」とは?
何か違和感なかった?僕は「おしなべて」って何だろうなと思って。
「おしなべて」というのは、辞書で調べると、一つの物や様を全体で表す。どれもこれも同じである様。大体の傾向をとらえる様。一様にとか、普通であるさま。世間並み。概して。
ちょっと今までの教えと考えると、善言讃詞が、観音様が現われてずっと御出世されてメシヤ様になられてという天国の様相を表わしつつも、ここの言葉の表現というのがね、これは昭和47年に前の教団がそういう風に変えられたわけですけども、メシヤ様の昭和25年には「救世主(メシヤ)とならせ」と入れられているということと、昭和25年にね。
・・25年だね!これ。
ここは、一天四海観音の仁愛を ミロク と読むのか メシヤ と読むのかですけども、メシヤ様の時代はミロクと読んでいましたけども、 御手に帰一され ということで表現されていますので、そこで、どれも観音様が中心という善言讃詞が今の私達の唱えていることですから、そこが一番僕は大切じゃないかと思って、だから、「おしなべて」というとみんな一緒くたにという、そうじゃないですよね。「一天四海おしなべて仁愛(ミロク)の御手に帰一され」というのと、ここで、先生がですね、「一天四海観音の」「仁愛(メシヤ)の御手に帰一され」のここの間を注意してくださいねと言われました。 覚えていますよね? ここの間で何を思うんでした?
善言讃詞を挙げられていますよね? 「一天四海観音の」 ここで少し間を取ってくださいと。この間を取る間に想念で唱えて下さいと言われたのは何でしょうか?

参加者
・・・応身彌勒と化し

三救責任者
そうですね、一番最初のこの御出世の「世尊観世音菩薩此土に天降らせ給ひ光明如来と現じ応身弥勒と化し救世主(メシヤ)とならせ」、御出世の順番、上がっていくことに想念を持って、そして「仁愛(メシヤ)の御手に帰一され」ですから。
「救世主(メシヤ)とならせ」と入っている善言讃詞において「仁愛(メシヤ)の御手に帰一され」ですから。先生の理論というのは私は一貫してこれは本当にきちんと考察されて善言讃詞そのもの、改ざんではないという風に思います。ここをきちんと考えればですね。
だから、どれもこれも一緒というわけじゃなくて、「おしなべて」じゃなくて、観音様が色々な働きをされて、中心で働きをされて、メシヤ様になられたよと。そこの事に想いをはせて善言讃詞を奏上してくださいねということですので、観音様のような、千手観音様のような手の御働きでもって浄霊とか・・、浄霊、そして御教えを伝えていくと、そういう事を私達は御神業として引き続きやっていっていただければ良いかと思います。

今回は、「戦」という今年の漢字から千手観音様についてのお話をさせて頂きました。
これは引き続き3月3日の祭典にもつながっていきますし、5月5日の桃太郎に関する祭典といったことにもつながっていきますので、そういう事に想いをいたしつつ御神業に励んでいただければと思います。

それでは今日はこれで終わりたいと思います。

司会
以上をもちましてメシヤ様御降臨祭を終わらせていただきます。

参加者一同
ありがとうございました。