令和4年1月5日
覚りの旅  令和4年1月 新年祭を終えて
三救責任者
改めまして、新年祭、おめでとうございます。

図1
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昨日○○ちゃんが引いた御歌ね、
「 若しも吾 この土に出でずば全人類 滅び果てなん罪の重荷に 」 でしたね。

ところで、伊勢神宮に無いものって何でしょう? 神社へ行くとよくするものが、伊勢神宮には無い。

参加者
よくするもの?参拝の時とかに人がするものですか?

三救責任者
これです。 おみくじね。

参加者
あぁ・・、無かったでしたっけ?

三救責任者
無いんですって。

図2
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何故ないんでしょう?
伊勢神宮、造られたのも古いですからね、その頃はそういう占いとか無かったんですね。
天照大御神様が御鎮座されているんだ、参拝出来るだけでありがたく幸運なんだ。吉凶を占うおみくじは必要ありませんよと。お伊勢参りということで、一生に一度参拝出来たらありがたい、そういうおかげ参りであったわけで、そういう意味ね。だから、個人的なお願いをする場所ではないということです。お参りできるだけで大吉なんだと。そういう意味があるそうです。
何でこういう・・という話ですけども、メシヤ講座三重108号平成29年1月度の時に御歌を引きましたよね。この時にちょっと紹介しましたけども、信者さんの質問で
「よくどっちをとってよいか選択に迷うことがありますが、ある所では、なにか「こより」のようなものを観音様にお供えし、それを「オミクジ」を引くように頑是(がんぜ)ない子供にとらせて迷っていることを決めるそうですが、だいたいうまくいくとのことでした。」 ということがありました。
メシヤ様は、『ええ、それはいいですよ。』
と、たった一言だけですけども、そういうことが書かれておりましたので、真似てみました。
ということで、あの時に御歌を引くということをさせて頂きました。
「頑是(がんぜ)ない」というのは、「あどけない、無邪気な、是非、善悪の区別のまだ判らない子供」という事です。
ですので、昨日子供の引かれた御歌というのは三救全体で受けとめるべき深い神界からの働きかけがあると思いまして、調べてみました。
本当は親御さんがその人に合うように話をしてあげるのが良いかと思いますけども、今の参拝出来るだけで有難いんだと、大吉なんだと、そういう事からいくと、おみくじという捉え方ではなくて、その引いた御歌自体というのが、三救全体、あるいは世界全体に対することだと、これからの指針が何か神界からあるんじゃないかなという思いを持って調べてみました。
昨日の御歌、一番最初に引いてもらった御歌です。

「 若しも吾 この土に出でずば全人類 滅び果てなん罪の重荷に 」 

どう考えられたかなと思いますけども。
これは私の考えね、
「罪の重荷」って何だ? と思うとおもうので、「罪の重荷」という事で調べると、非常に学びになることが出て来ました。
「幸運の秘訣」というところで、

霊主体従の法則によりその通りの運命となるのである。
昔から罪の重荷というが、その通りで、悪の行為は霊が曇り重くなるに反し、善の行為は軽くなり上へ昇るのである。故に人間は悪を慎み、罪を作らないようにする事で、出来るだけ善を行い、霊を軽くする事こそ幸運の秘訣である。

重荷という事を調べると、幸運の秘訣というところに繋がるということと、その次が面白くてですね、

治るのは、罪の重荷を観音様がとってくださる。ということで、

観音様はとても大きくくださる。なんとなれば観音様は主神で、全世界を自由にし得る神

という事がでてきているんですよ。ここで、観音様は主神でと。
中心的な流れというのは観音様から来てる。この頃ね。年代不詳なので、いつの事か分かりませんけども、観音様は主神で、全世界を自由にし得る神 というのと、観音様の御働きで 罪の重荷を観音様がとってくださるんだよと。
その少し後ろの方に、今の時代に繋がることがあって、

一般では、その罪をお医者や薬がとってくれると思うから違う。
顕微鏡でみたようなものなど、そんなもので罪はとれぬ。

罪をとるかどうかであって、顕微鏡で見えるものではないよと。
顕微鏡は罪をとるためにできたものではないんだからと・・。肉体に現れたものを消滅しようとしているんだと。ここでいうと、ゼロコロナと言っても無理だよということですね。

観音会では、人間に観音光を与える。すると子孫が祖先から受けた罪は解消し、この人の魂が光り、光が放射して祖先の罪は許されて天国へ行く。天国ではみな観音様のお側へ行く。ですから祀るより早く行く、根本的であります。

ということです。
これを調べていてこういう御教えが出てくるんですね。

病気はすべて罪の重荷に堪えきれず死ぬのである
これも、年代不詳なんですけども、
なにでそれは証拠立てるかというと、寿命でないのに死ぬことがある。なぜ死ぬかというと、罪の重荷に堪えきれずに死ぬ。病気はすべて罪の重荷に堪えきれず死ぬのである。

言い方がズバリできついので未発表だったのかも知れませんけども、御教えであります。
それから、
本当の誠 という事で、・・タイトルは私が付けていますのでね。

みんな罪の重荷をいっぱい背負ってますからね。病人を助けるのも結構だし、金の御用をして、早く地上天国を造るというのも結構ですし、そこが ちょうど良いところですね。なかなか難しいですがその人なりに、自分はこのくらいが良い、こうすべきだ、と言う程度にやれば良いんです。それで、そういった信仰の関係や理屈は、御神書を読んで、教師は私の話を、質問したり聞いたりすることとそれから普段、先輩の先生――資格者から聞いたり、質問したりして、だんだん磨いていくんです。

人の良いとか悪いとか言うことは、人間には解らないんだからね。神様以外には解らないんだからね。あの人は邪神だとか、邪神が憑いているとか言うことは、神様のなさるべきことを冒しているので、たいへんなことです。だから、人を見ないで自分を見るんです。自分は間違っているかいないかと見るんです。それが本当の誠です。

だから、本当の誠というのは自分を見るということですね。
それから、霊層界
今年の漢字は 「靈」 ということで、これと繋がってきていますけども、霊層界 ということで、

善事を行ない徳行を重ねれば罪穢が減少するから軽くなり、悪事を行ない罪を重ねれば罪穢が増すから重くなるという訳で、昔から罪の重荷とはよく言ったものである。

それから、
人間の生命の命の字は命令の命の字である。

これは、話の繋がりで、今年の漢字という話の中の最初は命令の 「令」 の字だったね。
だから、霊 と 令 が出てきている御教えであります。

人間は命令を解除されぬよう神に愛され社会有用なる人間にならなければ、長寿と幸福は得られる筈がないのである。

とあります。
それから、浄霊によること、私の本を読むこと ということで、

つまり、罪の重荷と言いますが、その罪を取れば軽くなるから上がるのです。

これは、対談の話の中で、「どうしたらその罪が取れましょうか。」との質問に、メシヤ様は「浄霊によることと私の本を読むとかすることです。それは光が出るからです。」と。

質問者 「そうしますと私どもは当分の間は貧から救われないわけですね。」
メシヤ様 「あなたしだいです。救われたいと思えば信者になればよいのです。そうすればドンドン良くなります。しかし、うまいことを言って信仰させようとするのだろうと思うでしょうが、思っても思わなくても、「信じろ」と言うのは嘘です。ものは試しだ瞞されたと思ってやって「なるほど、これだな」と思えばよいし、思わなければ御守りは捨ててもよいのです。」
質問者 「私も救われたいとは思いますが……それはやはり罪が多いわけでしょうか。」
メシヤ様 「人を苦しめるというのは罪になりますが、自分が仕合せになろうというのは本当の欲求です。人をいじめてオレだけというのはいけませんが、人も良くなりオレも良くなるというのは良いです。共存主義です。」

という事が出ております。
それから、毒素の解剖 では、
罪の重荷によって地獄のドン底に堕ちてしまうので、いかなる悪人も悔悟せざるを得ない。

霊界に行くと神罰、神律ということね。人間の刑罰とかを免れても、神律というのがあって、神様の刑を、またそれをかいくぐったとしても、霊界に行ってから罪の重荷で地獄に行くんですよという。だから、悪人も悔悟せざるを得ないことになりますということが、書いてあります。これは 毒素の解剖 というタイトルのところに出てくるというのがね、「濁血が霊に映れば曇りとなる」ということで、そういう流れの中での話ですので、すごいなぁと思って。
あと、夜の終り近づけり汝等悔改めよ ということで、

すなわち人類が負える罪の重荷を神の御手によって取除かれ清められる以外救われる道はないからである。

夜の終り近づけり ということまで含めてね、幸運の秘訣、観音様は主神様ですよということ、病気で死ぬという事は罪の重荷に堪えきれず死ぬんだよということと、本当の誠というのは自分は間違っているかいないかを見ることですよということ、あと、霊層界というのは、罪の重荷に直結してるということですね。浄霊によること、私の本を読むことは、浄霊によることと御教え。私達のやっていることによってその重荷というのは取れていきますよと。
だから、浄霊を受けることはいいんですよということが話が出来ればいいんじゃないかなと思いますね。
そういう受け止め方をさせて頂きました。

自分達の引いた御歌はですね、自分なりに受け止めておいていただきたいと思います。また、発表してもらってもいいですけどね。

それでは、『文明の創造』 お願いします。

参加者
『文明の創造』 『主なる病気㈡  肋膜炎と腹膜炎』  拝読

三救責任者
はい、ありがとうございます。
何が重要かなと思って。

図3
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水とは尿。膜と膜との間に溜る水とは尿なんですよと。
腹に力を入れる人は毒素が流血し腹膜炎が発り易いですよということが出ています。
前からの続きなんですね。全部腎臓が元ですよというのが出たうえで、書いてみようかと書かれたのがこの「肋膜炎と腹膜炎」になっています。これは、御教えですね。
医学書とかでいくと、腹膜炎は胸膜炎とも言うのかな。
胸膜に炎症が起こり胸水のたまる疾患ですと。胸膜というのが、胃、腸、肝臓など腹部の臓器と腹腔をおおう薄い膜を言う。
原因により、結核性胸膜炎、がん性胸膜炎などに分けられる。結核性胸膜炎というのは青壮年者に多く、がん性胸膜炎は高齢者に多いそうです。
症状は、発熱、胸痛、せき、食欲不振、全身倦怠などで、胸水の貯留量が多くなると呼吸困難を生じます。それで、腹膜炎とは、お腹の中に細菌や毒素、消化酵素などが広がって起こった炎症のことを言います。
医学的な話ね。
お腹の中にある腹膜という膜が主に感染するため腹膜炎といいます。多くの場合は胃や腸に穴が空くこと(消化管穿孔)が原因で緊急の手術が必要になります。急性腹膜炎というのは激しい腹痛とか次第に腹部全体へ。 吐き気、嘔吐、発熱、頻脈。それから症状が進むと腹部が固くなり仰向けになることもできない。 脱水、ショック状態、全身の臓器不全を引き起こして死亡することもあるという病気。
実際メシヤ様は医学的なこともしっかり調べた上でですね、こういう・・知っていないと書けないことですからね、膜と膜との間隙に水が溜まるんだよと。それが何かというのは医学で分からないけども、尿なんだよと。腎臓が働いてなくてですね、尿が、余剰尿が出てきてるんだよと、それが原因となっているんだということがはっきりと書いてもらっています。だから問題は萎縮腎であることですね。そのように、メシヤ様は医学研究もされております。

図4
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神習って医学研究。大勢の人間をお救いできる人間を目指していきましょう。
こういう風に人間の医学的な話を、神様から教えてもらうわけじゃなくて、研究されて繋げていってるわけですから、そういうことを神習っていきましょうということですね。 

図5
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それから、私たちの体というのは物凄く素晴らしいんです。 医学は痛めつけます。浄霊は体が様々な対応していってくれる。
これから出てくるかと思うんですけども、そういうことを念頭においてですね、メシヤ講座でどのような学び方をしたかということですけども、(天恩地惠)15ページの 619行からいくと、
『肋膜炎と腹膜炎』を拝読して ということで、 622行ね。
肋膜炎も、腹膜炎も関節リョウマチも神経痛も婦人病も勿論(もちろん)そうであり、カリヱスも、肝臓病も、黄疸も、糖尿病も、胆嚢(たんのう)、腎臓、膀胱内の結石も、喘息も、中風も、小児痳痺(まひ)も、精神病もそうである。としたら実に腎臓萎縮を起さないやうにする事こそ、健康の第一条件である。以上の病気は順次説く事にするから、それを読めば尚(なお)よく判るであらう。
ということが、『文明の創造』の166ページに出てきているのかな。そこを受けて書かれている「肋膜炎と腹膜炎」でありますという事です。前回から続きですよという事をですね、そういう読み方をして欲しいですよということで、630行のところで、
〝腎臓が萎縮することによってこうした病気も引き起こして行くのだ″ということを、よくよく我々は念頭に置いておいて欲しいと思います。私たちの健康を維持するためには非常に大事なところなのですよということですね。
638行のところで、今回の拝読によって、改めて人間の体にですね、〝腎臓が大きな影響を与えているのだなあ″ということを解らせていただけます。

それで、先程も話しましたけども、神習うということで、 メシヤ様を神習って『医学研究』を行おう という小見出しをつけてありますけども、646行のところに行きますと、
メシヤ様が今で言う家庭医学の本ですね、ああいうものをメシヤ様はほぼ暗記されるくらいまで研究しておられたと、そういうことを言われてはいましたが、〝なるほどそうだなあ″という感じがいたします。
ですから、私たちもメシヤ様を神習って一歩でも近づかせていただいて、大勢の方々をお救いできるような、そういう人間を目指していきたいと思います。

メシヤ講座三重での話であります。
それから、人間の体の神秘性 小腸には膿を吸収して下痢で排出させる働きもある。という事を、メシヤ講座で学んでおります。
661行のところに行きますと、盲腸炎の時に腹膜炎を起こしてしまう事があると、

そういう時は、浄霊だけに頼っていますと、破裂して溜まった膿を腸が吸収して、そして、下痢になって出るのです。
ですから、小腸は栄養を吸収するだけではなくて腹膜に溜まった膿を逆に吸収して、そして、下痢で出すという働きもあるのです。このように、私たちの体というのは物凄く素晴らしいものなのです。

溜まった膿を腸が吸収して下痢になって出すという、下痢の仕組もですね、私達の想像していなかったような働きもしてくれているということで、私達の体はそういう働きをしているんですよという事を教えて頂いております。

それから、17ページに行くと、 防腐剤漬けの人間の体は腐らない という話がありました。
脳神経外科が手術をする時に、頭蓋骨のすぐ下にシャンプーが溜まってしまっていますので、開けて動かすと泡が出てくるそうです。これを吸引して取り除いてからメスを入れないといけないのでとても困るんだという話の紹介がございました。
それから羊水がシャンプー臭いというお話もありました。690行のところに、
『浄霊』をしても〝肉体が本来の力を発揮する″というところまではなり難い点が現代の食生活や住環境ではあります。
それでも、食べ物に気をつけて、住環境に気をつけて生活していますと『浄霊』がより効き易くなってきます。

という風に教えて頂いています。

このように、昭和27年当時と我々の生活環境が大きく変わっているということがありますが、『浄霊』をしていくと素晴らしいことが起きてきます。

ということです。

それで、 『文明の創造』で本筋を学び『浄霊』の素晴らしい奇蹟を体験させていただこう ということで、700行のところへ行くと、
『文明の創造』を一項目ずつ拝読しつつ、およそ半分位まで・・・この頃半分くらいまで勉強してきましたと。もう、今は一通りやったわけですからね、現在では。・・・これからの『御浄霊』は非常に楽しみなことになってくると思いますので、そうしたことを心に留めておいていただいて、今回の『肋膜炎と腹膜炎』という箇所を繰り返し繰り返し拝読していただきたいと思います。
という風に纏めて下さっております。
改めて、2回目こうやって学ばせて頂いているわけですので、こういう事を学ばせて頂いて、自分はどういう風に生活してきたかなという事をですね、また改めて振り返りつつ今後に生かしていただけたらと思います。 浜松でも同じような話でしたね、 肋膜炎と腹膜炎の原因 ということで。 712行のところに、
水が溜まっているのは尿が溜まっていくのだということ
腎臓をいかにほぐしていくか
そういうことが大事だということですね。

715行のところに、
腹膜も同じで水が溜まってくるのは腎臓が萎縮するために、余剰尿がそこに溜まってくるのだというふうに受け止めて、そういった場合には腎臓をよく浄霊させていただいてから、お腹を浄霊すれば良いというように理解できるのではと思います。

花粉症の話もあったよね。733行のところにいくと、
花粉症と言われる前から花粉症だったという話を○○さんがしてくれましたが、昔は風邪と一括りにしていたのですね。春風邪は鼻にくるから結構長引くと言われていたのです。これは花粉の影響で過剰反応して風邪の症状がでたのですが、今は研究が進んだために花粉症という名前ができたので、非常に過敏になってしまっているのです。

だから、名前をつけて過敏になっているということですよね。昔だったら今のようなコロナは風邪と一括りだった。花粉症という名前をつけたけど、これも風邪だったよね。鼻水が出てグズグズしているんだから。

現代人はこのように少し過敏症になってきているところがありますので、昔みたいに大括りで風邪なのだというふうに捉えておけば、もう少しゆったりと過ごすことができるわけです。

次も一緒だね。

それから中毒症が起きて下痢をしても、今はノロウィルスではないかと言われ、非常に恐くなってくるわけです。

精神的な事の話で、皆、精神病というのはそういうことかもしれませんね。

それから、ご遺体は腐らない。映画のゾンビというのはそういう事を分かっていてやったんじゃないかということが出ていますね。
それからもう一つ、最後の審判は天変地異ではない という。774行のところですけども、

あの東日本大震災も1000年に一度来ているのです。ですから最後の審判ではありません。1000年に一度くる大震災なのです。そして富士山の噴火もおおよそ200年に1回は爆発しているのです。この爆発が、いくら灰が降ろうが何しようがこれも最後の審判ではないのです。
だから天変地異が、異変が起きたときに最後の審判だとみんな考えているのですが、それは安易な考え方であって、要は人間の物質思想が作り出すものが、それで末期を迎えるのが最後の審判の型です。

人間の物質思想が作り出したもの。今の型だよね、本当に。

参加者
物質思想・・。

三救責任者
薬とかね。
人間が精神的に恐れているもんね、今のコロナも。
震災というのは何回も起こってきていますからね。
それから801行のところ、

食べるものがあっても食べることができない時代、これが最後の審判の型ですので、いよいよ現代は最後の審判の中に突入していったということになります。
ですから、私たちの食生活、住環境は自分で努力、工夫していって、改善できるところは改善していかないと、我々はガンとかそういうことになっていく可能性が、昔とはずいぶん変わってきているのだというふうに受け止めて、よくよく注意しながら生活をしていただきたいと思います。

真症癌というのは霊的なのかも知れませんけども、疑似癌と言われている薬によって出来てくるもの、ほとんどがそれですよね、薬が原因というのが、今の現代では。メシヤ様の時代でもそういう事は言われていたんですから、今はもっとですよね、薬毒というのは。これは先祖からの・・という前に、やっぱり薬が原因というのが今の病気ではほとんどだということです。全く人間が作りだすもんね。
それで、今のコロナの状況というのも、全然病気じゃないものを病人にしているということですから、そういう精神的なところが大きいなという風に思います。
そういう風な感じでですね、今回のところは読んでいただければと思います。 

25ページから肋膜炎・腹膜炎に関する御教えをピックアップしてございますので、こういったところもこの機会に学んでいただければと思います。 

それで、次に話したかったのが、 虎の巻。

図6
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寅年なので。
御教えにね、「六韜三略(りくとうさんりゃく)」、これは前に話をしましたけど覚えています?

図7
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参加者
すみません、覚えていないです。

三救責任者
韜というのは、剣や弓などを入れる袋のことをいう。六つの袋ということね。
そこに虎韜巻(ことうのまき)というのが出てきます。六韜というのは本なんだけど、そこに虎韜巻。
六つというのは、文 武 龍 虎 豹 犬。この虎のところが、虎韜巻なんですね。それを略して虎の巻と言うんです。そういうところから来ているんですね。これは御教えではないからね。
六韜三略 というのがあって、そこから 虎の巻 というのがきていますよという話ね。
これには兵法の極意が書かれている。陣を張る法とか、包囲を脱する法などが書かれているんですよと。 虎の巻と言うんだそうです。

参加者
虎の巻の中がそうということなんですね。全部がそういうことが書かれているわけではなくて。

三救責任者
虎の巻がこういう事が書かれているから重要ですよという。

図8
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今度は御教えで、メシヤ様は御教えで 六韜三略 を捉えられていて、この六というのは何ぞやと・・この六韜 の とう というのは袋のことと違って、御教えでいくと 踏む という字を書くんです。六つを踏まえてということだよと。
六というのは今までも話があったように、月とか水とか、五六七(ミロク)でいくと真ん中です。六というのは夜の世界です。現在だという話ね。このメシヤ様の時代の夜の世界、まだ夜の世界だと捉えてメシヤ様が現われたわけですから。
それで、三略というのは三つの経綸のことを言うんだと。
だから、六踏三略という言葉の本当の意味はこうだよということで教えてくださってるわけです。 三つの経綸なんだと。五・六・七のミロク とか、 三・六・九のミロク とか、上・中・下、 経・緯・伊都能売。経緯結んで真ん中が伊都能売ですよと、そういう三つの経綸。これのことを言うんだと。これが重要ですよね。
寅年なのでこういう話になっていますけども。
観音様が持たれている巻物がありますよね、これのこと、六踏三略。だから、極意、神様の極意です。

図9
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観音様の御手に持たれている巻物であって、それは仏滅後にミロクの世を御造りになる大経綸の深い仕組みが書かれているんだと。ミロクの神様の御神事です。御神業のプログラムなんです。そういうことが、御教えにあります。

図10
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観音様が持たれているのが 六踏三略。これはミロクの神様の御神事で、御神業のプログラムですと。
だから、今で言う、主神様直接の御啓示である『文明の創造』じゃないですかと。
これは僕がそういう風に繋げたんですけど。すごい本を出したよということ。
これは 六踏三略の巻 『栄光』119号、昭和26年8月29日発行 に書かれています。ちょっと読みますと、

その文字はミロクの神様の御神示をかかれたものであって、これこそ私が現在実行しつつある、多種多様の神業のプログラムで、私が見真実になった時、すでに明(あか)されたものである。

ここでは、義経が盗ろうとしたとか、そういう話も出ています。
義経は観音様の化身であったよということで・・もともと鬼一法眼という人が居てという話。

これを宗教的にみると、仲々神秘が潜んでいるので、それを今かいてみるが、私がいつもいう通り、義経は観音様の化身であったのである。以前私のかいた中に、艮(うしとら)の金神(こんじん)、国常立尊(くにとこたちのみこと)という神様が神代の時御隠退せられ、霊界においては閻魔大王となり、現界においては観世音菩薩と化現され、慈悲を垂れ給い、一切衆生を救われたのである、そういう訳で牛若丸の虎蔵とはすなわち艮で金神様の御名を秘されたものである、そうして鬼一法眼は伊邪那岐(いざなぎの)尊の御役をされたのである、鬼は岐であり、一は神の意味であるからである。

ということが出て来ます。忍び込んで盗らせようとしたわけです。そういう物語があります。
歌舞伎でそういうのをやっていたら観に行くと面白いかも知れないね。

参加者
うん。

三救責任者
寅年の特徴ということで、これは御教えでありませんけども、

中国伝来の十二支はもともと植物が循環する様子を表わしており、その年の特徴につながると言われています。 寅は十二支の三番目で、子年に新しい命が種の中で芽生えはじめ、丑年には種の中で育つがまだ伸びることができない。寅年は春が来て根や茎が生じて成長する時期、草木が伸び始める状態だとされています。
寅という文字には「真っすぐに伸ばす、引っ張る」という意味があり、家の中で矢を両手で真っすぐに伸ばす様子を表しています。家を表わすうかんむり「宀」に、「矢」、ひきとめるという意味の「臾」を足して「寅」という文字ができました。
これは御教えではないです。ネットから。

参加者
(メシヤ様の後に巻物を持たれている観音様が写っている写真を見せて頂きつつ)
この観音様が巻物を持ってみえる。

参加者
はぁ・・。(じっくり見せて頂く)

参加者
描かれた観音様の中にも持ってみえる観音様が。

三救責任者
昨日御歌のおみくじを引いたので、話の内容を変えたんですよ。変える前の話をします。

図11
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初日の出。お正月なので、初日の出を見ましたかという話の中で、日本人というのはクリスマスでキリストの誕生日を祝ったりしますけども、お正月には神社参拝とか、初日の出。初日の出というのは、自然。太陽を拝むのね。自然崇拝ですね。あと、木を拝んだりしますよね、木とか巨木。
この木ということで、日本一の巨木はどこか知ってる?

図12
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蒲生(がもう)の大楠 と言うんです。
「蒲生のクス」は、昭和63年度に環境庁の巨樹・巨木林調査によって、日本一の巨樹である事が証明されたそうです。それを調べるとちょっと面白い事がありました。
伝説でね、これは和気清麻呂(わけのきよまろ)が鹿児島へ流罪になってそこに来た時に、持っていた杖で大地を刺したところ、それが根付いて大きく成長したものが「蒲生のクス」だと言われているそうです。
これは伝説ですね。元々あったらしいですけど。
それで、今出たのは、「和気清磨呂」ね。

図13
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丸を振ったところを読んでもらえる?

参加者
わっ! 「わすまろ」!

三救責任者
先生の名前が入っていますよね。

参加者一同
(笑)

参加者
すごい!

三救責任者
宇佐神宮にお像があるんですよ。行った時に、「先生にそっくり!」って言ってたんです。大分前だね。
今回、「和氣清麻呂」って書いた時に、「あれ、先生の名前が入ってるな」と思ったの。和氣清磨呂って、言ってる時には分からなかったけど、書いて。
前回、今までは天皇に取って代わろうとした人物はいないって話しましたね。 実はいたんです。

参加者
そうなんですか。(笑)

三救責任者
未遂。天皇になろうとした坊主がいたんです。道鏡という。

図14

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図15

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図16
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宇佐神宮の御神託 というのが出て来ますけども。
769年に・・また太宰府が出てくるのが面白いね・・
中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげのあそまろ)という人がいたんですけども・・「道鏡を皇位に就かせれば天下太平になる」と宇佐神宮の御神託があったと天皇へ奏上したんですね。
女帝・称徳天皇が道鏡を寵愛していたんです。
寵愛というのは、特別に大切にし愛することね。だから、上のものから下のものへのことです。権力のあるものから権力ないものに対して。
龍という字が入ってる。龍をかこうって書くんだなって、これは私が思ったことですけども。 
こういう御神託が出たと、これは嘘なんだけども、確かめに行かなくてはいけないと。それで、称徳天皇に仕えていた女性の弟に行かせた。その弟が和氣清磨呂。

図17
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宣命(せんみょう)と言って、天皇の命令を、読み上げようとした時に、聞くことを神様は拒んだ。天皇の命令を漢字だけの和文体で記した文書を宣命というんだけど、聞くのを拒んだと。その時に国を揺るがすことなので御神託を頂きたいということで、このままだと道鏡がなってしまうので、和気清麻呂がお願いして、現れて下さったのが三丈(9メートル)もある大神様。
応神天皇とかは、宇佐神宮に祀られているのはね、そういう神様ですから。要は、メシヤ様でもあり、応神天皇でもあり、大きいということは国常立尊様かもしれないし。大きな神様が出現されたと。
そうして、言われたのが、「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人(道鏡)は宜しく早く掃い除くべし」ということが出たわけです。

図18
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皇位は皇族が継ぐ者で無道である人の道鏡は早く追い払いなさい、という御神託が出たと。
道鏡は和氣清磨呂に京都から宇佐神宮に行く時に「いい返事を待っている」と、忖度せよということを言って送り出すわけです。だけど、こんな事が出た。それをきちんと伝えたそうです。

図19
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道鏡は怒って、和気清麻呂を別部穢麻呂(わけべ の きたなまろ)と改名させて大隅国へ流罪とした。道鏡死後、復権して豊前守(福岡)になった。名前には言霊が宿るということがずっとあったわけですね。だから、名前を変えさせたわけです。

図20
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そういう正しい事をしたのに、清麻呂は正しい事をして権力者から追われたという話です。汚名を着せられたという。

参加者
また、汚名を着せられてって・・。

三救責任者
そういう話と繋がったよということで。
この大楠のあるところの話で、歌が詠まれています。

図21
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天より下りて
大地に目覚め
雨を喰み
陽を抱き
伸びゆくものの
深まりゆくものの
かくも悠然と
岐立する
大樹の鼓動。
悠久の
時空を超えて。

大きな木を神として・・、どこへ行っても大きい木がありますよねという話です。
何か繋がるなと思って。
これは、鹿児島ですよね。

図22
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縄文ということで、先生が三内丸山ということでやったけども、縄文時代は長いんですね。一万二千年前からです。三千年、九千年前の話が出て来ますけども、人間の世界だったわけです。だから、今で言う、神格を得た人間が相当いたんです、神様としてね。神様というのは、地上で神格を得た人間のこと、というのが分かるかなと。

図23
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それで、鹿児島ということで、何故鹿児島かなと思って、三内丸山というのと、鹿児島は上野原、遺跡がね。
三内丸山は五千九百年前から四千二百年前に定住生活が始まっている。
上野原は霧島東部で、九千五百年から七千五百年以前に儀式とか定住とか村とか言われるものがあったらしいです、遺跡でいくと。
面白いなと思ったのは、上野原は川内(せんだい)という地名がありますよね、「川」を「だい」って読むんだなと。「三内」は「さんない」って読むけども「だい」、平らなところ、台形みたいなところの山とかありますよね、ああいうところにあるのが、こう読むのかなという感じ。神様の居られるところとか、そういったところというのは、こんもりとした山のところは、そういった儀式を行うところかなと。
「川」「三」は、経の三と緯の三だなと思いました。
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日本最古級縄文土器で調べると、大平(おおだい)山元遺跡、これも平と書いてだいと読むんですね。一万五千年前、紀元前一万三千年前、これは青森県東津軽郡。
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何が言いたいかと言うと、移動していた生活から定住になりました、定住になることによって村というのが形成されてきて生活の拠点になってくる。生活自体が宗教ですよという話がありました。岸本英夫先生の話を先生が分かりやすく話して下さっている中でありましたけども、生活=宗教ですよと。この頃からですよと。住居、墓、まつり、この時代の環状列石(ストーンサークル)とか、作られていたり、祈りの場だった。古い時代から交易があって、ヒスイとかアスファルトとか黒曜石、それで、豊かな精神世界が形成されていた。争いを好まないという時代が日本では昔からあった。そういう世界で比べても、精神世界の発達していたのは日本であったというのが良く分かるなと。縄文時代というのはものすごく長く地上天国的なところが続いていた時代であったということが分るかと思います。
だから、自然を祈る、昔から祈っていたわけで、昔から精神的なもので神ということはあったわけで、自然を祈る、木を祈る、石を祈る、それの究極的な一番最初というのは太陽を祈る。そういう行為を御神体というものがない時代の祈りのあり方。太陽を素晴らしいと思って、「あぁ、何か力を頂けるんだ」「光を」ということで、手を合わせる、初日の出ということからいくと、それは宗教的なものでもあるよね。宗教=生活でもあるという風に思ったんです。祈りのあり方。だから、まるにチョンを意識してと言ってもなかなか意識しにくいということで、精神的というか、まるにチョンを祈り易くというか、そういう形が御神体として出されたけども、そういう意味合いで一体になっているという意味であって。これはだから、人間の作った被造物には神様はかからないということだけれども、その入り口という、その祈りの対象という意味で考えれば、精神的なもので考えれば、まるにチョンをイメージしてと考えればいいですよね。
私達は何に拝んでいるのかという話の中でね。もっと広がりを持って、そういうところへ参拝出来ること自体が幸せなんだと、幸福なんだと、こういうことをより多くの人に伝えていけたらなということを思わせて頂きました。

参加者
毎月娘と月次祭前に参拝させて頂いていますが、今回はうっかりしていて昨日気付いて、慌ててラインさせて頂いたんですが、お返事を頂くまで待ってる間に、参拝させて頂けることは許されて叶う事かなと、参拝させて頂けること自体が有難い事なんだと思わせて頂いていていたんです。

三救責任者
○○ちゃんに上手く話をしてあげてください。

参加者
これですね。(おみくじで引いた御歌)

三救責任者
難しく話をしなくてもいいんだよ。何を伝えたいかだけどね。無理に引っ張ってこなくてもいいし。(笑)
生活していること自体が本当に宗教なので、宗教という捉え方が、組織運営をしているところが思いっきり堅苦しくしてしまっているんじゃないかと思うんですよ。縄文時代の昔から祈りというのはあったわけで、その頃は戦いも無く生活していたわけで、他の国と比べても誇らしい文化、縄文文化というのがあったということを、それを想起させるというか、目指すためのそういう教えでもないのかなと思いました。

では、終わらせて頂きます。

司会
以上をもちまして、新年祭を終わらせて頂きます。

参加者一同

ありがとうございました。