2017年12月23日土曜日

『文明の創造』 科学篇

科学篇

 病気とは何ぞや

 愈々(いよいよ)之から病気に就(つい)ての一切を解説する順序となったが、抑々(そもそも)病気とは何かといふと、一言にしていえば体内にあってはならない汚物の排泄作用である。従って体内に汚物さへなければ血行は良く、無病息災で年中潑剌(はつらつ)たる元気を以(もっ)て活動が出来るのである。としたら一体汚物とは何であるかといふと、之こそ薬剤の古くなったもので、毒血又は膿化した不潔物である。では何故其(その)様な病気の原因となる処の薬剤を使用しはじめたかといふと、之には大いに理由があるから詳しくかいてみるが、抑々(そもそも)人類は未開時代は兎(と)も角(かく)、漸次(ぜんじ)人口が増へるに従って、食物が不足になって来た。そこで人間は食物を探し求め、手当り放題に採っては食った。勿論農作法も漁獲法も幼稚の事とて、山野、河川至る処で木の実、草の実、虫類、貝類、小魚等を漁(と)ったが、其(その)良否など見分ける術(すべ)もないので、矢鱈(やたら)に食欲を満たそうとしたので、毒物に中(あ)てられ、其(その)苦痛を名付けて病気と謂(い)ったのである。そこで何とかして其(その)苦痛を脱(のが)れやうとし、草根木皮を試みた処、偶々(たまたま)苦痛が軽くなるものもあるので、之を薬と称して有難がったのである。其(その)中での薬の発見者としての有名なのが、中国漢時代に現はれた盤古(ばんこ)氏で、別名神農(しんのう)といふ漢方薬の始祖人であるのは余りにも有名である。
 右の如くであるから、食物中毒の苦痛も勿論其(その)浄化の為であり、薬効とは其(その)毒物の排泄停止によって苦痛が緩和されるので、已(すで)に其(その)頃から浄化停止を以(もっ)て病を治す手段と思ったので、此(この)迷盲が二千有余年も続いて来たのであるから驚くの外(ほか)はない。そうして西洋に於ても草根木皮以外凡(あら)ゆる物から薬を採ったのは現在と雖(いえど)もそうである。従って薬で病気を治す考え方は、之程開けた今日でも原始時代の人智と些(いささ)かも変ってゐないのは不思議といっていい。
 偖(さ)て愈々(いよいよ)之から実際の病気に就(つい)て徹底的に解説してみるが、抑々(そもそも)人間として誰でも必ず罹(かか)る病としては感冒であらうから、之から解説するとしやう。先(ま)づ感冒に罹(かか)るや発熱が先駆となり、次で頭痛、咳嗽(せき)、喀痰(かくたん)、盗汗(ねあせ)、節々の痛み、懈(けだる)さ等、其(その)内の幾つかの症状は必ず出るが、此(この)原因は何かといふと、体内保有毒素に浄化作用が発(おこ)り、其(その)排除に伴ふ現象である。処が其(その)理を知らない医療は、それを停めやうとするので、之が大変な誤りである。今其(その)理由を詳しく説明してみると斯(こ)うである。即ち人間が体内に毒素があると、機能の活動を妨げるので、自然は或(ある)程度を越ゆる場合、其(その)排除作用を起すのである。排除作用とは固(かた)まった毒素を熱によって溶解し、喀痰(かくたん)、鼻汁、汗、尿、下痢等の排泄物にして体外へ出すのであるから、其(その)間の僅(わず)かの苦痛さへ我慢すれば、順調に浄化作用が行はれるから毒素は減り、それだけ健康は増すのである。処が医学は逆に解して、苦痛は体内機能を毀損(きそん)させる現象として悪い意味に解釈する結果、極力停めやうとするのであるから、全く恐るべき誤謬(ごびゅう)である。そうして元来浄化作用とは、活力旺盛であればある程起り易いのであるから、弱らせるに限るから、茲(ここ)に弱らせる方法として生れたのが医療である。勿論弱っただけは症状が減るから之も無理はないが、実際は無智以外の何物でもないのである。其(その)弱らせる方法として最も効果あるものが薬である。つまり薬と称する毒を使って弱らせるのである。人体の方は熱によって毒素を溶かし、液体にして排泄しやうとして神経を刺戟(しげき)する。それが痛み苦しみであるのを、何時(いつ)どう間違へたものか、それを悪化と解して溶けないやう元通りに固(かた)めやうとする。それが氷冷、湿布、解熱剤等であるから、実に驚くべき程の無智で、之では病気を治すのではなく、治さないやうにする事であり、一時の苦痛緩和を治る過程と思ひ誤ったのである。処が前記の如く苦痛緩和手段其(その)ものが病気を作る原因となるのであるから由々しき問題である。つまり天与の病気といふ健康増進の恩恵を逆解して阻止排撃手段に出る。其(その)方法が医学であるから、其(その)無智なる評する言葉はないのである。近来よく言はれる闘病といふ言葉も、右の意味から出たのであらう。
 右の如く感冒に罹(かか)るや、排泄されやうとする毒素を停(と)めると共に、薬毒をも追加するので、一時は固(かた)まって苦痛は解消するから、之で治ったと思ふが、之こそ飛(と)んでもない話で、却って最初出やうとした毒素を出ないやうにして後から追加するのであるから、其(その)結果として今度は前より強い浄化が起るのは当然である。其(その)証拠には一旦風邪を引いて一回で治り切りになる人は殆(ほと)んどあるまい。又陽気の変り目には大抵な人は風邪を引くし、風邪が持病のやうになる人も少なくないので、そういふ人が之を読んだら成程と肯(うなず)くであらう。此(この)様に人間にとって感冒程簡単な体内清潔作用はないのであるから、風邪程有難いものはないのである。処が昔から風邪は万病の基などといってゐるが、之程間違った話はない。何よりも近来の如く結核患者が増えるのも風邪を引かないやうにし、偶々(たまたま)引いても固(かた)めて毒素を出さないやうにする。従って結核予防は風邪引きを大いに奨励する事である。そうすれば結核問題など訳なく解決するのである。それを知らないから反対の方法を採るので、益々増へるのは当然である。
 そうして右の如く病原としての毒素固結であるが、此(この)原因は先天性と後天性と両方ある。先天性は勿論遺伝薬毒であり、後天性は生れた後入れた薬毒である。処が其(その)両毒は人間が神経を使ふ局部へ集中固結する。人間が最も神経を使ふ処としては、上半身特に頭脳を中心とした眼、耳、鼻、口等であるから、毒素は其処(そこ)を目掛けて集中せんとし、一旦頸部(けいぶ)附近に固結するのである。誰でも首の周り、肩の附近を探ればよく分る。其処(そこ)に固結のない人は殆(ほと)んどないといっていい。而(しか)も必ず微熱があるのは軽微な浄化が起ってゐるからで、頭痛、頭重、首肩の凝(こ)り、耳鳴、眼脂(めやに)、鼻汁、喀痰(かくたん)、歯槽膿漏等は其(その)為である。処が毒結が或(ある)程度を越ゆると自然浄化が発生するし、其(その)他運動によって体力が活潑(かっぱつ)となったり、気候の激変によって自然順応作用が起ったりする等の諸原因によって風邪を引くやうになる。よく肩が張ると風邪を引くといふのは之である。又咳嗽(せき)は液体化した毒結排除の為のポンプ作用であるが、之は首の附近とは限らない。各部の毒結もそうである。次に嚏(くしゃみ)であるが、之は恰度(ちょうど)鼻の裏側、延髄附近の毒素が液体となったのを出すポンプ作用であるから、此(この)理を知れば実際とよく合ふ事が分るのである。
 右の如く頭脳を中心とした上半身の強烈な浄化作用が感冒であるから、此(この)理屈さへ分れば、仮令(たとえ)感冒に罹(かか)っても安心して、自然に委せておけばいいので、体内は清浄となり、順調に割合早く治るのであるから、此(この)事を知っただけでも、其(その)幸福の大なる事は言ふ迄もない。

 病気と医学

 前述の如く、私は反文明の原因としての、戦争と病気の二大苦を挙げたが、其外(そのほか)に今一つの貧困がある。然(しか)し之は戦争と病気とが解決出来れば、自然に解決さるるものであるからかかないが、先(ま)づ戦争の原因から説いてみると、之は勿論精神的欠陥即ち心の病気にあるので、之も肉体の病気さへ解決出来れば、共に解決さるべきものである。
 右の如く病気も、戦争も、貧困も同一原因であるとしたら、真の健康人即ち霊肉共に完全な人間を作ればいいのである。然(しか)し斯(こ)う言えば至極簡単のやうであるが、実は之が容易でない事は誰も想像されるであらう。然(しか)し私から言えば、決して不可能ではない。何となれば必ず解決出来得るだけの方法を、神から啓示されてゐるからで、之が私の使命でもあり、其(その)一段階としての此(この)著である。
 従って先(ま)づ病気なるものからかいてみるが、病と言っても前述の通り、肉体と精神との両方であるが、現代人は普通病とさへ言えば、肉体のみのものと思ってゐる処に誤りがあるので、此(この)精神の不健康者こそ、戦争の原因となるのである。其(その)様な訳でどうしても人間が肉体と精神と共に本当にならない限り、真の文明世界は生れないのは言う迄もない。ではどうすればそれが実現され得るかといふと、それには勿論其(その)根本が解ると共に、可能の方法も発見せられなければならない。処が私はそれに関する根本義を発見し、而(しか)も絶対解決の方法迄も把握し得たので、茲(ここ)に詳細徹底的にかくのである。それに就(つい)ては先(ま)づ吾々が住んでゐる此(この)地上の実相から解いてみるが、元来此(この)地上の一切、今日迄の学問では物質のみの存在とされてをり、それ以外は無とされて来たのである。然(しか)し此(この)考え方たるや非常な誤りであって、無処(むどころ)ではない。人類にとって之程重要なるものはない程のものが、確実に存在してゐる事である。にも拘(かか)はらずそれが何故今日迄分ってゐなかったかといふと、全く唯物科学にのみ依存して来た結果であるからで、即ち唯物科学に於ての理論は、見へざるものは無と決めてゐた以上、之程進歩したと思はれる唯物科学でも把握出来得なかったのである。右の如く唯物科学で知り得ないものは、悉(ことごと)く否定の闇に葬って了(しま)った其(その)独断的観念こそ、学者の頭脳なるもののいとも頑(かたくな)な偏見さである。之に就(つい)ては多くをいふ必要はあるまい程、人類の幸福が文化の進歩に伴はない事実である。それを之から漸次(ぜんじ)説き進めてみよう。
 以上説いた如く精神と肉体共に完全なる人間を作るのが真の医学であるとしたら、現代医学は果して其(その)目的通り進んでゐるであらうかを茲(ここ)で検討する時、それは余りにも背反してゐる事実である。それ処ではない。寧(むし)ろ病気を作り、病人を増やしてゐると言っても過言ではない程の誤りを犯してゐる事で、それを之から詳しくかいてみるが、先(ま)づ医学なるものの今日迄の根本的考へ方である。といふのは医学は病気の原因が全然分ってゐないから、凡(す)べて反対に解釈してゐる。勿論唯物科学本位で進んで来たものとすれば致し方ないであらう。
 右の結果医学は病気の場合外部に表はれたる苦痛を緩和するのみに専念してゐる。従って医学の進歩とは一時的苦痛緩和法の進歩したものであって、其(その)方法として採られてゐるものが彼(か)の薬剤、機械、放射能等の物質の応用である。成程之によって病気の苦痛は緩和されるので、之で病が治るものと誤認し、緩和法を続行するのであるが、事実は苦痛緩和と病気の治る事とは、根本的に異ふのである。即ち前者は一時的で、後者は永久的であるからである。而(しか)も其(その)苦痛緩和の方法自体が病を作り、病を悪化させる結果なのであるから問題は大きいのである。
 何しろ唯物的医学であるから、人体も単なる物質と見るのみか、人間と人間以外の動物をも同一視するのである。それによって動物を研究資料として、病理の発見に努め、偶々(たまたま)何等かの成果を得るや、直(ただ)ちに人間に応用するのであるが、之が非常な誤りである。何となれば人間と動物とは形も本質も内容も全く異なってゐる事で、之に気が付かないのである。此(この)理によって人間の病気は、人間を対象として研究されなければならない事は余りにも明かであって、之以外人間を治す医学は確立される筈(はず)はないのである。そうして今一つ斯(こ)ういふ点も知らなければならない事は、動物には人間のやうな神経作用がないが、人間には大いにある。人間が神経作用の為に、どの位病気に影響するか分らない。例えば一度結核と宣告されるや、此(この)一言で患者の神経は大打撃を受け、目に見えて憔悴(しょうすい)する事実は、医家も一般人もよく知る処であらう。処が動物にはそういふ事が全然ないにみても肯(うなずか)れるであらう。
 以上によって見る時、現代医学の欠陥は、霊と体で構成されてゐる人間を、霊を無視して体のみを対象とする事と、人間と動物を同一に視てゐる点で、之が主なるものである事を知らねばならないのである。

 医学の解剖

 私は前項迄に、医学の誤謬(ごびゅう)を大体かいたつもりであるが、尚(なお)進んで之から鋭いメスを入れて、徹底的に解剖してみよう。と言っても別段医学を誹謗(ひぼう)する考へは毫末(ごうまつ)もない。只(ただ)誤りは誤りとして、ありのまま指摘するまでの事であるから、虚心坦懐になって読まれたいのである。それには先(ま)づ事実によって、説明してみる方が早かろう。先(ま)づ何よりも医師が患者から、病気の説明を求められた場合、断定的な答へはしない。甚だ曖昧模糊(あいまいもこ)御座(おざ)なり的である。例えば、患者に対する言葉であるが、何の病気に就(つい)ても言ひ切る事が出来ない。貴方の病気は治ると思ふ。治る訳である。医学上そういふ事になってゐる。此(この)療法が効果ありとされてゐる。此(この)療法以外方法はない。養生次第で治らない事はない。貴方の病は万人に一人しかないなどといふかと思へば、貴方は入院しなければいけない、と言はれるので患者は「入院すれば治りますか」と訊(き)くと、「それは請合へない」といふやうに、実に撞著的(どうちょてき)言葉である。又予想と実際と外(はず)れる事の、如何(いか)に多いかも医家は知ってゐるであらう。
 そうして、最初診察の場合、型の如く打診、聴診、呼吸計、体温計、レントゲン写真、血沈測定、注射反応、顕微鏡検査等々、機械的種々な方法を行うが、医学が真に科学的でありとすれば、それだけで病気は適確に判る筈(はず)である。処が両親や兄弟等の死因から、曽父母、曽々父母に迄及ぶのは勿論、本人に対しても、病歴、既応症等微に入り細に渉(わた)って質問するのである。之等も万全を期す上からに違ひないが、実をいふと余りにも科学性が乏しいと言へよう。処がそうまでしても予想通りに治らないのは、全く診断が適確でないか、又は治療法が間違ってゐるか、或(あるい)は両方かであらう。事実本当に治るものは恐らく百人中十人も難しいかも知れない。何となれば仮に治ったやうでも、それは一時的であって安心は出来ない。殆(ほと)んどは再発するか、又は他の病気となって現はれるかで、本当に根治するものは、果して幾人あるであらうか疑問と言えよう。此(この)事実は私が言う迄もない。医師諸君もよく知ってゐる筈(はず)である。此(この)例として主治医といふ言葉があるが、若(も)し本当に治るものなら、それで済んで了(しま)ふから主治医などの必要はなくなる訳である。
 右によっても判る如く、若(も)し病気が医学で本当に治るとしたら、段々病人は減り、医師の失業者が出来、病院は閑散となり、経営も困難となるので、売物が続出しなければならない筈(はず)であるのに、事実は凡(およ)そ反対である。何よりも結核だけにみても、療養所が足りない、ベッドが足りないと言って、年々悲鳴を上げてゐる現状である。政府が発表した結核に関する費額は、官民合せてザット一ケ年一千億に上るといふのであるから、実に驚くべき数字ではないか。之等によってみても、現代医学の何処(どこ)かに、一大欠陥がなくてはならない筈(はず)であるに拘(かか)はらず、それに気が付かないといふのは不思議である。といふのは全く唯物科学に捉はれ、他を顧みないからであらう。
 そうして、診断に就(つい)て其(その)科学性の有無をかいてみるが、之にも大いに疑点がある。例へば一人の患者を、数人の医師が診断を下す場合殆(ほと)んど区々(まちまち)である。といふのは茲(ここ)にも科学性が乏しいからだと言えよう。何となれば若(も)し一定の科学的規準がありとすれば、其(その)様な事はあり得る訳があるまい。若(も)し医学が果して効果あるものとすれば、何よりも医師の家族は一般人よりも病気が少なく、健康であり、医師自身も長寿を保たなければならない筈(はず)である。処が事実は一般人と同様処か、反(かえ)って不健康者が多いといふ話で、これは大抵の人は知ってゐるであらう。而(しか)も医師の家族である以上、手遅れなどありやう訳がないのみか、治療法も最善を尽す事は勿論であるからどう考へても割り切れない話だ。そればかりではない、医師の家族が病気の場合、その父であり、夫である医師が、直接診療すべきが常識であるに拘(かか)はらず、友人とか又は他の医師に診せるのはどうした事か。之も不思議である。本当から言えば、自分の家族としたら心配で、他人に委せる事など出来ない訳である。それに就(つい)てよく斯(こ)ういふ事も聞く。自分の家族となると、どうも迷ひが出て診断がつけ難いといふのである。としたら全く診断に科学性がないからで、つまり推定臆測が多分に手伝ふからであらう。
 私は以前、某博士の述懐談を聞いた事がある。それは仲々適確に病気は判るものではない。何よりも大病院で解剖の結果、診断と異う数は、一寸(ちょっと)口へは出せない程多いといった事や、治ると思って施した治療が、予期通りにゆかない処か、反(かえ)って悪化したり、果ては生命迄も危くなる事がよくあるので、斯(こ)ういふ場合どう説明したら、患者も其(その)家族も納得するかを考へ、夜も寝られない事さへ屢々(しばしば)あり、之が一番吾々の悩みであるといふので、私も成程と思った事がある。
 此(この)様に、医学が大いに進歩したと言ひ乍(なが)ら診断と結果が、実際と余りに喰違(くいちが)ふので、医師によっては、自分自身医療を余り信用せず精神的に治そうとする人もよくあり、老練の医師程そういう傾向がある。彼(か)の有名な故入沢達吉博士の辞世に『効かぬとは思へど之も義理なれば、人に服(の)ませし薬吾服(の)む』といふ歌は有名な話である。又私は時々昵懇(じっこん)の医博であるが、自身及び家族が罹病の場合、自分の手で治らないと私の処へよく来るが、直(じき)に治してやるので喜んでゐる。以前有名な某大学教授の医博であったが、自身の痼疾(こしつ)である神経痛も令嬢の肺患も、私が短期間で治してやった処、其(その)夫人は大いに感激して、医師を廃(や)め、本療法に転向させるべく極力勧めたが地位や名誉、経済上などの関係から決心がつき兼ね、今以(もっ)て其侭(そのまま)になってゐる人もある。今一つ斯(こ)(書籍では斬*)ういう面白い事があった、十数年前或(ある)大実業家の夫人で、顔面神経痳痺の為、二目と見られない醜い顔となったのを頼まれて往(い)った事がある。其(その)時私は何にも手当をしてはいけないと注意した処、家族の者が余り五月蝿(うるさ)いので、某大病院へ診察だけに行ったが其(その)際懇意である其(その)病院の医長である有名な某博士に面会した処、その医博曰(いわ)く〝その病気は二年も放っておけば自然に治るよ。だから電気なんかかけてはいけないよ。此処(ここ)の病院でも奨めやしないか〟と言はれたので『仰言る通り奨められましたが、私はお断りしました』と言うと、博士は『それはよかった』といふ話を聞いたので、私は世の中には偉い医師もあるものだと感心した事があった。その夫人は二ヶ月程で全快したのである。
 偖(さ)て、愈々(いよいよ)医学の誤謬(ごびゅう)に就(つい)て、解説に取りかからう。


 病気とは何ぞや

  寒冒
 愈々(いよいよ)之から病気に就(つい)ての解説であるが、現代医学の解釈は、人体を単なる物質と見做(みな)して、唯物療法を進歩させて来た医学は、どの点に最も欠陥があるかを、順を逐(お)うてかいてみるが、それに就(つい)ては先(ま)づ、実際の病気を取上げて説明してみるのが、最も判り易いからそういふ事にする。
 先(ま)づ、人間として、何人も経験しない者のない病としては寒冒であらう。処が寒冒の原因は医学では今以(もっ)て不明とされてをり、近来僅(わず)かに発見されたのが、ヴィールスによる空気伝染とか、アレルギー性によるとか言はれてゐる位で、吾等からみれば問題とするには足りない稚説(ちせつ)である。此(この)説も近き将来無意味とされる事は間違ひあるまい。
 抑々(そもそも)、人間は先天的に種々なる毒素を保有してゐる事は医学でも認めてゐる。例へば天然痘、痳疹(はしか*)、百日咳等は元より未知の毒素も色々あるであらう。処でそれら毒素は自然生理作用が発生し、外部へ排泄されやうとする、これを吾等の方では浄化作用と言ふ。そうして毒素は、最初一旦人体の各局部に集溜する。其(その)場合神経を使ふ処程多く集まる、人間が最も神経を使ふ処は、言ふまでもなく、上半身特に頭脳に近い程そうである。人間が目が醒(さ)めてゐる間手足は休む事はあっても、頭脳を始め、目、耳、鼻、口等は一瞬の休みもない。としたら毒素集溜の場合もそうであって、肩、頸(くび)、淋巴腺、延髄、耳下腺附近は固(もと)より、頭脳が主となってゐる。此(この)様に各部に集溜した毒素は、時日を経(へ)るに従って、漸次(ぜんじ)固結する。それが或(ある)限度に達するや、排除作用が発生する。ここに自然の恩恵を見るのである。何となれば固結の為、血行が悪くなり、肩や頸(くび)が凝(こ)り、頭痛、頭重、視力減退、耳の鈍聴、鼻詰まり、嗅覚の鈍化、歯槽膿漏、歯牙の劣弱、息切れ、手足の弛緩、腰痛、浮腫等々により、活動力が減殺されるからで、それが為人間本来の使命が行はれない事になる。それで造物主は病気といふ結構な、浄化作用を作られたのである。
 右の如く、毒素排除作用の苦痛が病気であるとしたら、病気こそ浄血作用であり、健康上最も必要なもので、神の恩恵中最大なものといふべきである。故(ゆえ)に若(も)し人類から、病気を取除いたとしたら、人間は漸次(ぜんじ)弱って、遂には滅亡に到るかも知れないのである。処が私は、病なき世界を造るといふのであるから矛盾するやうに思うであらうが、これは根本的に異ってゐる。といふのは人間が無毒になれば、浄化作用の必要がなくなるから、共に病気もなくなるのは判り切った話である。此(この)意味に於て私は、之から出来るだけ解り易く徹底的に説いてみよう。
 話は戻るが、固結毒素の排除作用を、私は浄化作用と名付けたが、先(ま)づ初め寒冒に罹(かか)るや発熱が先駆となる。自然は固結毒素の排除を容易ならしめんが為、熱で溶解させ液体化させる。此(この)液毒は速(すみや)かに肺に侵入するが、此(この)作用は実に神秘であって、例へば吾等が浄霊(之は療病法の名称)によって、固結毒素を溶解するや、間髪を入れず肺臓内に侵入する。其(その)場合筋肉でも骨でも透過して了(しま)ふのである。何より身体各局所にある固結毒素(以下毒結と称す)が、普通一、二個所位なら軽い症状で済むが、局所を増す毎(ごと)に重くなる、最初軽いと思った寒冒が漸次(ぜんじ)重くなるのは、その意味である。
 右の如く、液毒は迅速に肺臓内に侵入し、稀薄な場合は痰となって即時排泄されるが、濃度の場合は一時停滞し、咳といふポンプ作用を待って、間もなく気管を通じて外部へ排泄される。咳の後には必ず痰が出るにみても明かであり、嚏(くしゃみ)の後に鼻汁が出るのも同様の理である。又頭痛、咽喉(のど)の痛み、中耳炎、淋巴腺炎、手足の関節や、鼠蹊線(そけいせん)等の痛みは何(いず)れも其(その)部にあった毒結が溶解し、出口を求めやうとして動き始める。それが神経を刺戟(しげき)するからである。そうして液毒には濃い薄いが出来る。濃いのは喀痰(かくたん)、鼻汁、下痢等になるが、極く薄いのは水様(みずよう)となり、盗汗(ねあせ)や尿によって排泄される。此(この)様に浄化作用なるものは、最も自然に合理的に行はれるもので、造物主の神技に感嘆せざるを得ないのである。一体造物主即ち神は、人間を造っておきながら、病気などといふ人間を苦しめ、活動を阻害するやうなものを与へられる筈(はず)はなく、常に健康であらねばならないのに拘(かか)はらず、人間が誤った考へで毒素を作り、貯溜させるので、止むなく排除の必要が発(おこ)る。それが病気であるとすれば、寒冒の場合も何等の療法もせず、自然に放任しておけば完全に浄化が行はれるから順調に治り、健康は増すのである。此(この)理によって人間は出来るだけ風邪を引くやうにすべきで、そうすれば結核などといふ忌(いまわ)しい病は跡を絶つのである。
 処がどうした事か、何時(いつ)の頃からか不思議にも、右の清浄作用を逆解して了(しま)った、そこで発病するや極力浄化を停めやうとする。何しろ浄化の苦痛を悪化の苦痛と間違へたのだから堪らない。其(その)為熱を恐れて下げやうとする。解熱すれば毒結の溶解が停止されるから咳嗽(せき)を始め凡(あら)ゆる症状が軽減する。恰度(ちょうど)病気が治るやうに見えるのである。判り易く言えば、折角(せっかく)溶け始めた毒結を元通り固(かた)めやうとする。其(その)固(かた)め方法が医療なのである。氷冷、湿布、薬剤、注射等すべてはそれであって、全部固(かた)まると同時に症状が消失するので、之で治ったと思って喜ぶが、何ぞ知らん、実は折角(せっかく)掃除をしやうとする其(その)手を抑へつけるやうなもので、之は事実が証明してゐる。よく風邪が拗(こじ)れるといふが、之は人体の方は浄化しようとするとそれを止めやうとする為、つまり浄化と非浄化との摩擦となるから長引くのである。一旦風邪が治っても、暫(しばら)くすると必ず再発するのを見ても分るであらう。故(ゆえ)に結果から言えば、医療とは病気を治す方法ではなく、治さないで延期させる方法といふ事である。従而(したがって)本当に治るといふ事は、毒素を外部へ排泄させ、体内が清浄となって、病気の原因が皆無(かいむ)となる事である。だから真の医術とは浄化が発(おこ)った際、固結毒素をより速く溶解させ、より多く体外へ排泄させる事で、それ以外真の療法はないのである。
 右の理に対し一つの譬(たと)へをかいてみよう。即ち借金をしてゐる場合である。段々利息も溜り、期限が来て返済を迫られるので、一時に払ふのは辛いから、外から利子の金を借りて一時凌(しの)ぎをする。すると又期限が来たので又借金して一時逸れをするといふ工合で、元金の外(ほか)に利子も段々増へ、請求も厳しくなるが益々返金が出来なくなる。そこで貸主は承知せず、差押へ、又は破産の訴へをするが、返済が出来ないので破産する。つまり寒冒も之と同様で、最初の返済期が来た時、苦しくとも払って了(しま)えばそれで済むものを、辛いから借金を増しても一時逸れをする。それが薬を主とした医療である。従って引延ばす毎(ごと)に薬毒が殖え、遂に一時に請求をされる事となる、之が肺炎である。処が貸主も相手の支払能力を考慮し、緩慢(かんまん)な請求をする、之が結核と思えばいいのである。

 肺炎と結核

 寒冒と最も密接な関係ある病気としては、言う迄もなく肺炎と結核であらう。特に現在日本に於て、最も悩みとされてゐるものは之であるから、充分解説する必要があらう。抑々(そもそも)肺炎と結核といふ病気の初因は、勿論寒冒からである。といふのは前項に述べた如く、折角(せっかく)寒冒といふ浄化作用が発生するや、医療は極力停止させやうとして、種々の手段を行ふ。之も既に述べた通りであるが、其(その)中の最も不可であるのは、薬剤と氷冷である。元来薬剤とは如何(いか)なるものであるかといふと悉(ことごと)く毒物である。にも拘(かか)はらず何故毒物を薬剤として用ひるやうになったかといふと、今迄に説いた如く、浄化作用停止に最も効果があるからである。
 茲(ここ)で、浄化作用なるものの本質を説いてみるが、曩(さき)に述べた如く、体内の毒素を排除すべく、生れながらに保有してゐる自然良能力である。従って此(この)力の強弱によって、浄化力にも強弱が出来る。何よりも結核が青少年に多いといふ事は、浄化力が旺盛であるからで、壮年から老年に及ぶに随(したが)ひ、減少するのも其(その)理由であり、又各種の伝染病が、青少年や小児に多いのも同様の理である。そこで病気即ち浄化発生の場合、医学は浄化を極力止めやうとする、それには何よりも体力を弱らせる事である。其(その)唯一の方法として考へられたのが、毒物を体内に入れる事で、それによって体力が弱るから、浄化も弱り、病気症状も軽減するといふ訳である。
 又氷冷は何故不可かといふと、毒素を溶解すべき熱を冷すから浄化が弱り、元通り固(かた)まり、それだけ苦痛も減る事となる。勿論、湿布も同様であって、只(ただ)些(いささ)か異う点は、人体は不断に皮膚の毛細管からも呼吸してゐるのでそれを窒息させるから、其(その)部の浄化は停止し、症状は緩和されるのである。特に近来注射が流行するが、之も毒分の強い薬は、服(の)んでは中毒の危険があるから、皮膚から注入するのである。
 寒冒に罹(かか)った場合、右の如く薬毒や其(その)他の方法で、浄化停止を行ふ以上、保有毒素の幾分は減るが、大部分は残存し、再び固(かた)まって了(しま)ふと共に、新しい薬毒も追加されるので、寒冒に罹(かか)る毎(ごと)に毒素は累加し、或(ある)程度に達するや、一時に浄化活動が起る。それが彼(か)の肺炎で前項に説いた借金の理である。何よりも肺炎の特異性は、喀痰(かくたん)が肺臓内に多量に溜る事で、其(その)為喘音(ぜんおん)が甚だしいのである。喘音(ぜんおん)とは呼吸の度に肺胞が動くにつれての喀痰(かくたん)の響きである。又呼吸困難は喀痰(かくたん)多量の為、肺臓内の容積が縮小するから必要量の空気を吸ふには、頻繁(ひんぱん)に呼吸しなければならないからである。此(この)理によって肺炎の場合、何等の療法もせず、自然にしておけば痰は出るだけ出て順調に治るのである。処が医療は凡(あら)ゆる手段によって浄化を停止させやうとする。何よりも肺炎に対しては医療は特に強い薬を用ひる。それは毒が強いからで、浄化停止に強力だからである。そんな訳で強い浄化と強い浄化停止とで、猛烈な摩擦が生じ、非常な苦痛が伴ふ。其(その)為食欲減退、高熱による体力消耗等と相俟(あいま)って、衰弱死に到るのであるから、医学の誤謬(ごびゅう)たるや言うべき言葉を知らないのである。
 右の如く肺炎は強烈な浄化である事は体力が旺盛であるからで、体力の弱ってる人は浄化が緩慢(かんまん)に発(おこ)る、それが結核である。そうして医師が初めての患者を診断する場合、種々な方法の中、今日最も決定的とされてゐるものはレントゲン写真である。之は肺臓内の雲翳(うんえい)又は空洞が写るからで、之をみて結核と断定するが、医学は之は何が原因であるかを知らない。そこで其(その)原因をかいてみるが、寒冒の説明にもある通り、最初液体となった毒素が、一旦肺臓内に侵入停滞した時、極力浄化停止を行ふ結果、喀痰(かくたん)は排泄されず、肺臓内に残存して了(しま)ひ、日を経(へ)るに従って固結となる。それが雲翳(うんえい)であってみれば、之は全く人為的所産と言えよう。故(ゆえ)に最初の液体侵入の際は、肺臓は何等異状はないのである。そうして固痰の位置が比較的上部の場合は、肺炎カタル又は肺門淋巴腺といふのである。それと似たものに肺浸潤がある。之は軽微な肋膜炎又は肋骨附近に溜結せる毒素が浄化溶解し肺臓内に浸潤吐痰とならうとするので、此(この)場合も医療は固(かた)めやうとするから容易に治らないので、何(いず)れも放任しておけば、順調に治癒するのである。
 そうして一度結核と断定するや、寒冒と同様医療は極力浄化停止を行ふが、それに最も効果ありとされてゐるのが、近来熱心に推奨されてゐる彼(か)の安静法である。処が此(この)安静法が曲物(くせもの)である。何となれば仮(かり)に健康者が一ヶ月も安静にすれば、運動不足で食欲は減退し、体力は減り、外出しない為顔色は悪くなり、目に見えて衰弱し、一寸(ちょっと)動いても息切れをするやうになるので、言はんや病人に於てをやである。尚(なお)其(その)上薬毒を入れられ栄養と称して動物性蛋白を多く摂(と)らせるが、右は悉(ことごと)く衰弱を増させる方法であるから、結核患者ならずとも衰弱するに決ってゐる。
 此(この)様に衰弱法を行ふ結果、予期通り浄化力は極度に減退し、症状は減り遂に無熱となり咳も吐痰も無くなるので、之で恢復(かいふく)したと思って喜ぶが、何ぞ知らん実は浄化以前の状態に還元させたままで、而(しか)も反(かえ)って薬毒は増し、体力は弱り、消極的小康を得た迄で、真に治ったのではないから、何かの機会に触れるや、俄然悪化し重態に陥り、遂に死に至る事が往々ある。斯(こ)ういう経路は医家もよく経験する処であらう。故(ゆえ)に医学では決して治るとは言はない。固(かた)めるといふにみても明かである。又経過中に患者が偶々(たまたま)少し運動でもすると直(じき)に発熱する。すると医師は周章(あわ)てて戒めるが、之は運動によって鎭静してゐた浄化が頭を擡(もた)げるからで、本当はいいのである。よく長い間掛って漸(ようや)く治ったと曰(い)はれ、ヤレ安心と普通の生活を始めるや、間もなく再発元(もと)の木阿彌(もくあみ)となる事もよくあるが、之等も何年掛りで漸(ようや)く固(かた)めた毒素が、俄(にわ)かに溶け始めた為である。以上によって明かな如く、今日の医療が如何(いか)に誤ってゐるかで、忌憚(きたん)なく言へば医療が結核を増やしてゐると言っても過言ではなからう。
 茲(ここ)で、結核菌に就(つい)て大いに注意したい事がある。医学では結核菌は、伝染するとして恐れるが、それもない事はないが、大部分は自然発生である。前述の如く最初喀痰(かくたん)が肺臓内に侵入するや、医療は固(かた)めて出なくするので時日の経過につれて腐敗し、微生物が発生する。之が結核菌である。そうなった痰は悪臭があり、粘着力が強いものである。考へてもみるがいい。如何(いか)なる物質でも古くなれば腐敗する、腐敗すれば微(書籍では徴*)生物が湧くのは物質の原則である。ましてや体温といふ好条件も手伝ふからである。之によってみても最初の寒冒時、肺臓内に喀痰(かくたん)が滞溜した時、極力出して了(しま)えばそれで済んで了(しま)ふ。それを一生懸命出さないやうにして腐敗させ、菌迄湧かせ、菌の蚕食(さんしょく)によって空洞さへ作るのであるから、結果から言えば善意の加害的行為とも言へるであらう。此(この)理に目醒(ざ)めない限り、今後如何(いか)に多くの犠牲者が出るか測り知れないものがあらう。

 肺患と薬毒

 現在の結核療法に就(つい)て注意すべき事は、今最も有効とされてゐるものに気胸(ききょう*)療法がある。之は肺に空洞のある場合、肺胞を萎縮させて出来るだけ縮少させようとして肺の活動を鈍らせる。つまり肺の安静法で、その為空洞の原因である濃度の喀痰(かくたん)も固(かた)まると共に、空洞も縮少され、一時は小康を得るが、普通人の生活をするやうになると再浄化が起り、元(もと)の木阿彌(もくあみ)となるのが殆(ほと)んどである。としたら之も根本的療法でないのは勿論である。
 其(その)他、結核以外の肺患に対しても、簡単に説明してみるが、肺壞疽(はいえそ)とは肺臓と肺膜の中間に腫物が出来るので、放置しておけば腫(は)れるだけ腫(は)れて自然に穴が穿(あ)き、多量の血膿が痰となって出て全治するのである。之も浄化の一種であるが、医学は浄化停止をするので仲々治らない。遂に不結果に終るのである。又粟粒(ぞくりゅう)結核は肺胞にブツブツが出来るのだが之も皮膚の湿疹と同じやうなもので、一種の浄化であるから自然にしておけば、ブツブツから排膿されて全治する。又肺臓癌は肉食多量が原因で、肉中に含む一種の毒素によって血液が濁り、それが肺臓内に溜り、一旦硬度の腫物となるが、浄化作用によって逐次喀痰(かくたん)となって出る。然(しか)し此(この)病症は性質が執拗(しつよう)で長くかかるのは勿論である。原因は菜食不足の為であるから、菜食を多く摂(と)るだけで全治するのである。何よりも肉食多量の西洋人に多いにみても肯(うなず)かれるであらう。次に痳疹(はしか*)の際肺炎を併発する事がよくあるが之は何でもない。只(ただ)呼吸頻繁(ひんぱん)の為驚くが、之は痳疹が肺胞に表はれ肺の容積が減る為で、其侭(そのまま)にしておけば二、三日で必ず治るものである。
 次に、結核に関聯(かんれん)した病気に喉頭結核がある。之は結核の末期に発生するもので、特異性としては声が嗄(しゃが)れる事と、食事の際咽喉(のど)が痛み、嚥下(えんか)困難になる症状である。此(この)原因は痰が咽喉(のど)を通る際猛毒痰である為、気管や咽喉(のど)の粘膜を刺激し加答児(カタル)を起すからで、此(この)痰は最も古く、腐敗の度も強いのである。だから痰の出る間は仲々治らないから先(ま)づ見込はない。而(しか)も此(この)時は衰弱も酷(ひど)くなってゐるからでもあり、医師も喉頭結核と判るや、必ず匙(さじ)を抛(な)げるのである。次に腸結核であるが、此(この)症状は臍(へそ)を中心に腹部全体に渉(わた)って、無数の固結が出来る。勿論押すと痛いからよく判ると共に、必ず多少の熱がある。此(この)固結が熱で溶解され、下痢となって毎日のやうに出るが勿論此(この)固結は薬毒の固(かた)まったものであるから服薬を廃(や)めなければ治らないに決ってゐる。又下痢の為衰弱を増す病気だから、医師も恐れるのである。
 最後に、結核が他の病気に較(くら)べて、特に執拗(しつよう)で治らない原因をかいてみるが、一度結核となるや、何と言っても薬物が主となる以上最初から種々の薬物を体内に入れる。それが原因となって、経過が長引くので患者は焦って凡(あら)ゆる薬物を求めるといふ鼬鼠(いたち)ゴッコになり漸次(ぜんじ)体内に薬毒が溜り溜ってどうにもならなくなる。其(その)薬毒が肉体を蝕(むし)ばむ以上遂に不治となるのである。そうなると痰迄が薬の臭ひがする位であるから、全く恐ろしい錯誤と言えよう。従って三期結核は薬毒病と言ってもいい位で、斯(こ)ういう患者を私はよく治療したが、その目的は薬毒を除(と)るだけである。何よりも薬毒が減るに従って、漸次(ぜんじ)恢復(かいふく)するに見て明かである。但し此(この)薬物を除(と)る方法こそ私の発見した浄霊法である。

 結核と精神面

 結核に就(つい)て、割合関心を持たれてゐないものに精神面がある。処が事実之程重要なものはない。誰も知る如く一度結核の宣告を受けるや、如何(いか)なる者でも精神的に一大衝撃を受け、前途の希望を失ひ、世の中が真暗になって了(しま)ふ。言はば執行日を定めない死刑の宣告を受けたやうなものである、処が可笑(おか)しな事には、それを防ごうとする為か、近来結核は養生次第、手当次第で必ず治るといふ説を、当局も医師も旺(さか)んに宣伝しているが、之をまともに受取るものは殆(ほと)んどあるまい。何故なれば実際療養所などに入れられた者で、本当に治って退院する者は幾人もあるまいからである。然(しか)し偶(たま)には全治退院する者もないではないが、大部分は退院後再発して再び病院の御厄介になるか、自宅療法かで結局死んで了(しま)ふのである。だから何程治ると宣伝しても信じないのは当然であらう。
 其(その)様な訳で、結核と聞いただけで、忽(たちま)ち失望落胆、食欲は不振となり、元気は喪失する。何(いず)れは死ぬといふ予感がコビリついて離れないからで実に哀れなものである。私も十七、八歳の頃当時有名な入沢博士から結核と断定された事があるので、其(その)心境はよく判る。そういう次第で結核と宣告するのもよくないが、そうかと言って現在の結核療法では、安静や其(その)他の特殊療法の関係上知らさない訳にもゆかないといふ、ジレンマに陥るのである。そうして近来ツベルクリン注射や、レントゲン写真などによって、健康診断を行ふ事を万全の策としてゐるが、之は果して可(よ)いか悪いかは疑問である。私はやらない方がいいと思ふ。何故なれば現在何等の自覚症状がなく、健康と信じてゐた者が、一度潜伏結核があると聞かされるや、青天の霹靂(へきれき)の如き精神的ショックを受けると共に、それからの安静も手伝ひ、メキメキ衰弱し、数ケ月後には吃驚(びっくり)する程憔悴(しょうすい)して了(しま)ふ。以前剣道四段といふ筋骨隆々たる猛者(もさ)が、健康診断の結果潜伏結核があると言ひ渡され、而(しか)も安静と来たので、フウフウ言って臥床(がしょう)してゐる状(さま)は、馬鹿々々しくて見てゐられない程だ。何しろ少しも自覚症状がないので、凝乎(じっ)と寝てゐる辛さは察して呉(く)れといふのである。処が半年位経た頃は、頰(ほほ)はゲッソリ落ち、顔色蒼白、一見結核面となって了(しま)った。それから翌年死んだといふ事を聞いたが、之などは実に問題であらう。勿論健康診断など受けなかったら、まだまだピンピンしてゐたに違ひないと思って、私は心が暗くなったのである。
 右のやうな例は、今日随分多いであらう。処が之に就(つい)て面白いのは、医学の統計によれば、百人中九十人位は一度結核に罹(かか)って治った痕跡(こんせき)があるといふのである。此(この)事も解剖によって判ったといふ話で、医家は知ってゐる筈(はず)である。してみれば寧(むし)ろ健康診断など行はない方が、結核患者はどの位減るか判らないとさへ私は常に思ってゐる事である。併(しか)し医家は曰(い)うであらう。結核は伝染しない病気なら兎(と)に角(かく)、伝染病だから結核菌を有(も)ってゐる以上、甚だ危険だから、それを防ぐ為に早く発見しなければならないし、又早期発見が治療上効果があるからと言うであらうが、後者に就(つい)ては詳しく説いたから略すが、前者の伝染に就(つい)てかいてみるが、之が又大変な誤りで、結核菌は絶対感染しない事を保證(ほしょう)する。私が之を唱えると当局はよく目を光らせるが、之は結核の根本がまだ判ってゐないからである。以前斯(こ)ういう事があった。戦時中私は海軍省から頼まれて、飛行隊に結核患者が多いから、解決して貰ひたいと申込んで来たので、先(ま)づ部下を霞ケ浦の航空隊へ差遣(さしつかわ)した。そこで結核は感染しないと言った処、之を聞いた軍医はカンカンに怒って、そんなものを軍へ入れたら今に軍全体に結核が蔓延(まんえん)すると言って、忽(たちま)ち御払ひ箱になって了(しま)った事がある。
 私が斯(こ)ういう説を唱へるのは、絶対的確信があるからである。何よりも私の信者数十万中に結核感染者など、何年経っても一人も出ないといふ事実と、今一つは実験の為、以前私の家庭には結核患者の一人や二人は、いつも必ず宿泊させてゐた。其(その)頃私の子供男女合せて五、六歳から二十歳位迄六人居り、十数年続けてみたが、一人も感染する処か、今以(もっ)て六人共稀(まれ)に見る健康体である。勿論其(その)間結核患者と起居を共にし、消毒其(その)他の方法も全然行はず、普通人と同様に扱ったのである。今一つの例を挙げてみるが、数年前之は四十歳位の未亡人、夫の死後結核の為、親戚知人も感染を恐れて寄せつけないので、進退谷(きわま)ってゐのを知った私は、可哀想と思ひ引取って、今も私の家で働かせてゐるが、勿論一人の感染者がないばかりか、此(この)頃は殆(ほと)んど普通人同様の健康体になってよく働いてゐる。尤(もっと)も仮令(たとえ)感染しても簡単に治るから、私の家庭にゐる者は、何等結核などに関心を持たないのである。
 以上の如くであるから、吾々の方では結核は伝染しないものと安心してゐるので、此(この)点だけでも一般人に比べて、如何(いか)に幸福であるかが判るであらう。処が世の中では此(この)感染を恐れる為、到る処悲劇を生み、常に戦々(せんせん)兢々(きょうきょう)としてゐる。夫婦、親子、兄弟でも近寄って話も出来ず、食器も寝具も別扱ひで、除(の)け者同様である。然(しか)し医学を信ずるとしたら、そうするより外(ほか)致し方ないであらう。以前斯(こ)ういう面白い事があった。某農村の事であるが或(ある)農家に十六、七の娘がゐた。彼女は結核と宣告されたので、一軒の離れ家を作って貰ひ、一人ボッチで住んでゐたが、其(その)離家は往来に面してゐる為、其(その)前を通る村人等は、口を覆ふて駈足(かけあし)で通るといふ話を、私は本人から直接聞いて大笑ひした事がある。成程空気伝染と曰(い)はれれば、それも無理はないが、実に悲喜劇である。だから私の部下や信者は数十万あるから其(その)中の一万でも二万でも纒(まと)めて、一度に試験してみたら面白いと思うのである。
 右に就(つい)て尚(なお)詳しく説明してみるが、先(ま)づ家庭内に結核患者がある場合、他の者はいつ感染するか判らないという心配が、コビリついて離れない。だから偶々(たまたま)風邪など引くと、さては愈々(いよいよ)自分にもうつったんじゃないかと思ふし、又常に風邪を引かないやうにと用心に用心をするが、運悪く一寸(ちょっと)風邪でも引くと、慌てて医者に走り、薬に頼るといふ訳で、精神的恐怖感に加えて薬毒や浄化停止によって、結核を作る事になるといふ訳で、今以(もっ)て伝染説が持続されてゐるのである。今一つは霊的原因であるが、之は親子兄弟等の近親者や、親しい友人、男女関係者などある場合、右の死者の霊が憑依(ひょうい)して其(その)通りの症状を呈する事がある。之が恰度(ちょうど)感染したやうにみえるのである。憑霊(ひょうれい)問題に就(つい)ては後に詳説するから、それを充分読めばよく判る筈(はず)である。又近来小学児童に集団結核が出たといって屢々(しばしば)報ぜられるが、此(この)場合教師を検診すると、一人や二人の開放性結核患者が必ずゐる。すると此(この)患者が感染の元であるといって大騒ぎをするが、之なども実をいえば、現在何処(どこ)の学校の教師でも、厳密に検診すれば、二人や三人の結核患者のない学校は先(ま)づあるまい。それらをよく考へ合してみる時、感染説といふものが、如何(いか)に確実性の乏しい事を知るであらう。

 自然を尊重せよ

 医学特に結核患者に対しては、安静を最も重要とされてゐるが、之は前にも述べた如く大変な間違ひである。ではどうするのが一番いいかといふと、何よりも自然である。自然とは自分の身体を拘束する事なく、無理のないやう気侭(きまま)にする事である。例へば熱があって大儀な時は、寝ろといふ命令を身体がすると思ひ、寝ればいいのである。又寝たくない起きたいと思うのは、起きてゐてもいいと命令されたと思ひ、起きればいいのである。歩きたければ歩き、駈出(かけだ)したければ駈出(かけだ)し、大きな声で唄ひたければ唄ひ、仕事がしたければするといふやうに、何でも心の命ずるままにするのが本当である。気が向かない心に満たない事は止(よ)す事である。要するにどこ迄も自然である。之が結核に限らず、如何(いか)なる病に対しても同じ事がいえる。
 食物も同様で、食べたいものを食べたい時に食べたいだけ食う。之が最もいいのである。薬は勿論不可(いけ)ないが、食物としても薬だからとか、滋養になるとかいって、欲しくないものを我慢して食ったり、欲しいものを我慢して食はなかったりするのも間違ってゐる。人体に必要なものは食べたい意欲が起ると共に食べたくないものは食べるなといふ訳である。そうして結核に特に悪いのは動物性蛋白である。少しは差支(さしつか)へないが、成可(なるべく)野菜を多く摂(と)る方がよい。処が今日の医学は、栄養は魚鳥獣肉に多いとして奨めるが、之が大変な誤りで、一時は元気が出たやうに思ふが、続けると必ず衰弱を増す事になる。本来栄養とは植物性に多くある。考えてもみるがいい。動物性のもののみを食ってゐれば、敗血症などが起って必ず病気になり、生命に関はる事さへもある。それに反し菜食はいくらしても健康にこそなれ、病気には決して罹(かか)らないばかりか、長寿者となるに見ても明かである。之に就(つい)て私の体験をかいてみるが、私は若い頃結核で死の宣告を受けた時、それ迄動物性食餌(しょくじ)を多量に摂(と)ってゐたのを、或(ある)動機で其(その)非を覚り、菜食にしてみた処、それからメキメキ恢復(かいふく)に向ったので、医学の間違ってゐる事を知り薬も廃(や)めて了(しま)ひ、三ヶ月間絶対菜食を続けた処、それで病気はスッカリ治り、病気以前よりも健康体となったのである。其(その)後他の病気はしたが結核のケの字もなく、六十八歳の今日に到るも矍鑠(かくしゃく)として壮者を凌(しの)ぐものがある。もし其(その)時それに気が付かなかったとしたら、無論彼世(あのよ)へ旅立ってゐたに違ひないと、今でも思う度にゾッとするのである。
 今一つは、喀血(かっけつ)の場合である。之こそ菜食が最もいい。以前斯(こ)ういう患者があった。肉食をすると其(その)翌日必ず喀血(かっけつ)するが、菜食をするとすぐ止まるといふ、実にハッキリしてゐた。之でみても菜食のよい事は間違ひないのである。
 今一つは、医師は疲労と睡眠不足を不可として戒めるが、之も間違ってゐる。それは原理を知らないからで、疲労とは勿論運動の為で、運動をすれば足や腰を活動させるから、其(その)部にある毒素に浄化作用が起り、微熱が発生する。微熱は疲労感を催す、それが疲れである。併(しか)しそれだけ毒素が減るのだから結構な訳である。何よりも運動を旺(さか)んに行ひ常に疲労を繰返へす人は健康であるにみても判るであらう。だから草臥(くたび)れた際足や腰の辺を触ってみれば必ず微(書籍では徴*)熱があるにみて、それだけ毒が溶ける訳である。
 又睡眠不足は、結核には何等影響はない、寧(むし)ろいい位である。之は事実によってみればよく判る。何よりも睡眠不足の階級をみるがいい。旅館の従業員や、花柳界の人達には、結核が最も少ないと医学でも言はれてゐる。
 之に就(つい)ても説明してみるが、睡眠不足だと起きてゐる時間が長くなるから、活動の時が多くなり、浄化が余計起るからそれだけ疲れる。処が逆解的医学である以上、睡眠不足を不可とするのである。今一つ斯(こ)ういう事でも判る。それは普通朝は熱が低く、午後三時か四時頃になると熱が出てくる。之も右の理と同様で、仮令(たとえ)寝てゐても神経を使ふから浄化が起るのである。

 結核と特効薬

 結核の薬位、次々と出るものはあるまい。近年になってセファランチン、ペニシリン、ストレプトマイシン等々、之等は今随分もてはやされてゐる。恰度(ちょうど)何かの流行のやうである。此(この)様にそれからそれへと新薬が出るといふ事は、勿論前に出たものより効き目がより高いからであらうが、曩(さき)に詳述した如く、薬の効き目とは毒の効目であるから、毒が強い程よく効く訳で、浄化停止の力もそれだけ強いから、症状が軽減するといふ訳で、特効薬として売出されるのである。然(しか)し何(いず)れは其(その)薬毒の浄化作用が起るから、毒の強い程浄化も強く来るといふ次第で、結果は一の苦痛を免(のが)れやうとする其(その)方法が、二の苦痛の種を蒔(ま)くといふ事である。それが薬学の進歩と思ふのであるから、問題は実に大きいと言はねばならない。従って有体(ありてい)に言えば、医学の誤りが病人を増し、薬剤業者を繁昌させ、新聞屋に多額の広告料を奉納するといふ訳で、それ以外の何物でもない事を知るであらう。憐れむべきは現代文化民族である。私が此(この)重大事を発見し得たといふ事は愈々(いよいよ)時期到来、暗黒界に一条の光明が射し初(そ)めたのである。勿論地上天国出現の間近い事の示唆でなくて何であらう。

 栄養

 私は前項迄に、薬剤の恐るべきものである事を詳説したから、最早(もはや)判ったであらうが、茲(ここ)に見逃す事の出来ないのは、栄養に関する一大誤謬(ごびゅう)である。先(ま)づ結核の項に動物性蛋白の不可である事を述べたが、之ばかりではない、全般に渉(わた)って甚しい錯誤に陥ってゐるのが、近代栄養学である。
 其(その)最も甚しい点は、栄養学は食物のみを対象としてゐて、肝腎な人体の機能の方を閑却されてゐる事である。例へばビタミンにしろABCなどと種類まで分けて、栄養の不足を補はうとしてゐるが、之こそ実に馬鹿々々しい話である。それは前述の如く体内機能が有してゐる本然の性能を無視してゐるからである。というのは其(その)機能なるものを全然認めてゐないのである。即ち機能の働きとは人体を養うに足るだけのビタミンでも、含水炭素でも、蛋白でも、アミノ酸でも、グリコーゲンでも、脂肪でも、如何(いか)なる栄養でも、其(その)活動によって充分生産されるのである。勿論全然ビタミンのない食物からでも、栄養機能といふ魔法使ひの力によって、必要なだけは必ず造り出されるのである。
 此(この)理によって、人体は栄養を摂(と)る程衰弱するという逆結果となる。即ちビタミンを摂(と)る程ビタミンは不足する事になる。之は不思議でも何でもない。それは栄養を体内に入れるほど栄養生産機能は活動の余地がなくなるから自然退化する。之は言う迄もなく栄養の大部分は完成したものであるからで、本来人間の生活力とは、機能の活動によって生れる其(その)過程なのであって、特に消化機能の活動こそ生活力の主体であるといってもいい。言はば生活力即機能の活動である。此(この)理によって未完成な食物を完成にすべき機能の労作過程こそ生活力の発生源である。何よりも空腹になると弱るといふのは、食物を処理すべき労作が終ったからであり、早速食物を摂(と)るや、身体が確(しっ)かりするのにみて明かである。而(しか)も人体凡(すべ)ての機能は、相互関係にある以上、根本の消化機能が弱れば他の機能も弱るのは当然である。
 そうして人間に運動が健康上必要である事は言ふ迄もないが、それは外部的に新陳代謝を旺盛にするのが主で、内部的には相当好影響はあるが、それは補助的である。どうしても消化機能自体の活動を強化する事こそ、健康増進の根本条件である。故(ゆえ)に消化のいいもの程機能が弱るから、普通一般の食物が恰度(ちょうど)いいのである。処が医学は消化の良いものを可とするが、之は如何(いか)に間違ってゐるかが分るであらう。而(しか)も其(その)上よく噛(か)む事を奨励するが、之も右と同様胃を弱らせるから勿論不可である。此(この)例として彼(か)の胃下垂であるが、之は胃が弛緩する病気で、全く人間が造ったものである。といふのは消化のいい物をよく噛(か)んで食ひ、消化薬を常用するとすれば、胃は益々弱り、弛緩するに決ってゐる。何と愚かな話ではないか。之に就(つい)て私の経験をかいてみるが、今から三十数年前、アメリカで当時流行したフレッチャーズム喫食(きっしょく)法といふのがあった。之は出来るだけよく噛(か)めといふ健康法で、私は実行してみた処、初めは一寸(ちょっと)よかったが、約一ヶ月位続けると段々弱り、力がなくなって来たので、之は不可(いか)んと普通の食べ方に還元した処、元通り快復したのである。
 以上によってみても判る如く、栄養学は殆(ほと)んど逆であるから、健康に好い筈(はず)がないのである。又他の例として斯(こ)ういう事もある。乳の足りない母親に向って牛乳を奨めるが、之も可笑(おか)しな話である。人間は子を産めば育つだけの乳は必ず出るに決ってゐる。足りないといふ事は、何処(どこ)かに間違った点があるからで、其(その)点を発見し是正すればいいのである。処が医学ではそれに気が付かないか、気が付いてもどうする事も出来ないのか、右のやうにする。之では呑んだ牛乳は口から乳首迄筒抜けになるやうに思ってゐるとしか思へない。実に馬鹿々々しいにも程がある。従って牛乳を呑むと反(かえ)って乳の出が悪くなる。何となれば外部から乳を供給する以上、乳生産の機能は退化するからである。そればかりではない。病人が栄養として動物の生血(いきち)を呑む事があるが、之も呆れたものである。成程一時は多少の効果はあるかも知れないが、実は体内の血液生産機能を弱らせ、却(かえ)って貧血する事になる。考えても見るがいい。人間は白い米やパンを食ひ、青い菜や黄色い豆を食って赤い血が出来るのである。としたら何と素晴しい生産技術者ではなからうか。血液の一粍(ミリ)だもない物を食っても、血液が出来るとしたら、血液を呑んだら一体どういう事にならうか、言う迄もなく逆に血液は出来ない事にならう。そこに気が付かない栄養学の蒙昧(もうまい)は、何と評していいか言葉はあるまい。彼(か)の牛といふ獣でさへ、藁(わら)を食って結構な牛乳が出来るではないか、況(いわ)んや人間に於(おい)てをやである。之等によってみても、栄養学の誤謬(ごびゅう)発生の原因は、全く自然を無視し、学理のみに偏した処に原因があるのである。
 そうして人間になくてならない栄養は、植物に多く含まれてゐる。何よりも菜食者は例外なく健康で長生きである。彼(か)の粗食主義の禅僧などには長寿者が最も多い事実や、先頃九十四歳で物故した、英国のバーナード・ショウ翁の如きは、有名な菜食主義者であった。以前斯(こ)ういふ事があった。或(ある)時私は東北線の汽車に乗った処、隣りにゐた五十幾歳位の、顔色のいい健康そうな田舎紳士風の人がゐた。彼は時々洋服のポケットから青松葉を出しては、美味(うま)そうにムシャムシャ食ってゐる。私は変った人と思ひ訊(たず)ねた処、彼は誇らし気に、自分は十数年前から青松葉を常食にしてゐて、外(ほか)には何にも食はない。以前は弱かったが、松葉がいい事を知り、それを食ひ始めた処、最初は随分不味(まず)かったが、段々美味(おい)しくなるにつれて、素晴しい健康となったと言ひ、此(この)通りだと釦(ボタン)を外(はず)し、腕を捲くって見せた事があった。又最近の新聞に、茶殼ばかりを食って健康である一青年の事が出てゐた。之は本人の直話(じきわ)であるから間違ひはない。以前私は日本アルプスの槍ケ嶽へ登山した折の事、案内人夫の弁当を見て驚いた。それは飯ばかりで菜がない。訊(き)いてみると非常に美味(うま)いといふ、私が缶詰をやらうとしたら、彼は断ってどうしても受けなかった。それでゐて十貫以上の荷物を背負っては、十里位の山道を毎日登り下りするのであるから驚くべきである。之は古い話だが、彼(か)の幕末(中期 書籍にない*)の有名な儒者、荻生徂来(テキストでは「徠」*)(おぎゅうそらい)は豆腐屋の二階に厄介になり、二年間豆腐殼ばかり食って、勉強したといふ事が或(ある)本に出てゐた。又私は曩(さき)に述べた如く、結核を治すべく、三ヶ月間絶対菜食で、鰹節さへ使はず、薬も廃(や)めて了(しま)った処、それで完全に治ったのである。此(この)様な訳で私は九十歳過ぎたら、大いに若返り法を行はうと思ってゐる。それはどうするのかといふと、菜食を主とした出来るだけの粗食にする事である。粗食は何故いいかといふと、栄養が乏しい為、消化機能は栄養を造るべく大いに活動しなければならないから、それが為消化機能は活潑(かっぱつ)となり、若返る訳である。とすれば健康で長生きするのは当然であらう。又満州の苦力(クーリー)の健康は世界一とされて西洋の学者で研究してゐる人もあると聞いてゐる。処が苦力(クーリー)の食物と来たら大変だ。何しろ大型な高梁(こうりゃん*)パンを一食に一個、一日三個といふのであるから、栄養学から見たら何といふであらうか。之等の例によっても判るが如く、今日の栄養学で唱へる色々混ぜるのをよいとするのは、大いに間違ってをり、出来るだけ単食がいいのである。何故なれば栄養生産機能の活動は、同一のものを持続すればする程、其(その)力が強化されるからで、恰度(ちょうど)人間が一つ仕事をすれば、熟練するのと同様の理である。それから誰しも意外に思う事がある。それは菜食をすると実に温かい。成程肉食は一時は温かいが、或(ある)時間を過ぎると、反(かえ)って寒くなるものである。これで判った事だが、欧米にストーブが発達したのは、全く肉食の為寒気に耐へないからであらう。之に反し昔の日本人は肉食でない為、寒気に耐へ易かったので、住居なども余り防寒に意を用ひてゐなかったのである。又服装にしても足軽や下郎が、寒中でも毛脛(けずね)を出して平気でゐたり、女なども晒(さらし)の腰巻一、二枚位で、足袋(たび)もあまり履かなかったやうだ。それに引換へ今の女のやうに毛糸の腰巻何枚も重ねて、尚(なお)冷へると言うやうな事など考へ合はすと、成程と思はれるであらう。
 今一つ茲(ここ)に注意しなければならない重要事は、近来農村人に栄養が足りないとして、魚鳥獣肉を奨励してゐるが、之も間違ってゐるといふのは前述の如く、菜食による栄養は根本的に耐久力が増すから、労働の場合持続性があって疲れない。だから昔から日本の農民は男女共朝早くから暗くなる迄労働する。もし農民が動物性のものを多く食ったら、労働力は減殺されるのである。何よりも米国の農業は機械化が発達したといふのは、体力が続かないから頭脳で補はうとしたのが原因であらう。故(ゆえ)に日本の農民も、動物性食餌(しょくじ)を多く摂(と)るとすれば、機械力が伴はなければならない理屈で、此(この)点深く考究の要があらう。
 右によってみても判る如く、身体のみを養うとしたら菜食に限るが、そうもゆかない事情がある。というのは成程農村人ならそれでいいが、都会人は肉体よりも頭脳労働の方が勝ってゐるから、それに相応する栄養が必要となる。即ち日本人としては魚鳥を第一とし、獣肉を第二にする事である。其(その)訳は日本は周囲海といふにみてもそれが自然である。元来魚鳥肉は頭脳の栄養をよくし、元気と智慧が出る効果がある、又獣肉は競争意識を旺(さか)んにし、果ては闘争意識に迄発展するのは、白人文明がよく物語ってゐる。白色民族が競争意識の為今日の如く文化の発達を見たが、闘争意識の為戦争が絶へないにみて、文明国と言はれ乍(なが)ら、東洋とは比較にならない程、戦争が多いにみても明かである。
 以上、長々と述べて来たが、要約すれば斯(こ)ういう事になる。人間は食物に関しては栄養などを余り考へないで、只(ただ)食ひたいものを食うという自然がいいのである。其(その)場合植物性と動物性を都会人は半々位がよく、農村人と病人は植物性七、八割、動物性二、三割が最も適してゐる。食餌(しょくじ)を右のやうにし、薬を服(の)まないとしたら、人間は決して病気などに罹(かか)る筈(はず)はないのである。故(ゆえ)に衛生や、健康法が実際と喰違(くいちが)ってゐる以上、反(かえ)って余計な手数をかけて悪い結果を生んでゐるのであるから、哀れなるものよ汝の名は文化人と曰(い)ひたい位である。
 今一つ栄養学中最も間違ってゐる一事は彼(か)の栄養注射である。元来人間は口から食物を嚥下(えんか)し、それぞれの消化器能によって、栄養素が作られるやうに出来てゐるのに、之をどう間違へたものか、皮膚から注射によって、体内へ入れやうとする。恐らく之程馬鹿々々しい話はあるまい。何となれば其(その)様な間違った事をすると、消化器能は不要となるから、退化するに決ってゐる。即ち栄養吸収機能が転移する事になるからである。先(ま)づ一、二回位なら大した影響はないが、之を続けるに於ては非常な悪影響を及ぼすのは事実がよく証明してゐる。

 人間と病気

 近代医学に於ては、病原の殆(ほと)んどは細菌とされてゐる。従って細菌の伝染さへ防げば、病に罹(かか)らないとする建前になってゐるが、只(ただ)それだけでは甚だ浅薄であって、どうしても細菌といふものの実体が、明確に判らなければならないのである。といふのは仮令(たとえ)黴菌(ばいきん)と雖(いえど)も、何等かの理由によって、何処(どこ)からか発生されたものである以上、其(その)根本迄突止め、把握しなければ意味をなさない訳である。としたら現在程度の学問では、それが不可能であるから、真の医学の成立などは思ひもよらないのである。いくら微小な細菌と雖(いえど)も、突如として偶然に発生したものでは勿論ない。此(この)原理は後に詳しくかくが、其(その)黴菌(ばいきん)が病原となり、其(その)感染によって人間が苦しむとしたら、一体黴菌(ばいきん)なる物は何が為、何の必要あって、此(この)世界に存在するものであるかを考ふべきである。何となれば森羅万象一切は、悉(ことごと)く人間に必要なもののみであって、不必要なものは一つもないから、若(も)し不必要となれば自然淘汰(とうた)されて了(しま)ふのは歴史に見ても明かである。只(ただ)其(その)時代に必要である間生存してゐるだけに過ぎないので人類学上からみても、幾多の実例のある事で、彼(か)の古代に於けるマンモスや恐龍や、名も知れぬ怪獣などの存在してゐた事も、よくそれを物語ってゐる。としたら黴菌(ばいきん)と雖(いえど)も実在する限り、何等かの役目を有(も)ってゐるに違ひないが、今日迄の学問では其処(そこ)迄分らなかった為、無暗(むやみ)に恐れてゐたのである。右によってみる時、造物主即ち神が人間を苦しめ、其(その)生命迄も脅かすやうな病原菌を作ったといふ訳は、実は重大な意味が含まれてゐるのであるに拘(かか)はらず、今迄の人間は此(この)点に何等疑問を起さず、全然無関心に過して来た処に問題がある。それといふのも学問が其処(そこ)迄進歩してゐなかったからで、此(この)意味からいっても、私は此(この)著によって現代文化人に自覚を与へ、頭脳を高く引上げなければならないと思うのである。
 茲(ここ)で、今一つの重要事をかかねばならないが、抑々(そもそも)主神は何故宇宙及び人間を作られたかといふ事であって、恐らく之以上重要な根本的問題はあるまいと共に、此(この)事程誰もが知りたいと希ふ事柄も又あるまい。而(しか)も現在に到る迄之に就(つい)て何人も異論なく、首肯(しゅこう)すべき程の説明を与へた者はなかったのであるから、それを茲(ここ)に説いてみるが、本来主神の御目的とは何であるかといふと、それは人間世界をして真善美完(まった)き理想世界を造り之を無限に向上発達せしめるにあるので、之こそ永遠不滅の真理である。従って今日迄の人智では、到底想像すら出来得ない程の輝しい未来を有(も)ってゐるのであるとしたら、人間は此(この)前途の光明を胸に抱きつつ楽しんで天職使命に尽すべきである。そういう訳で主神の御目的を遂行すべき役目として造られたのが人間である以上、人間は右の使命を真底から自覚すると共に、生命のあらん限り、其(その)線から離れる事なく働くべきである。それには何といっても先(ま)づ健康が第一であるべきに拘(かか)はらず、現実は果してどうであらうか。誰も知る如く人間は実に病に犯され易く健康を損(そこな)ふ場合が余りに多い事実である。それが為神は不断に健康を保持されるべく、人体に対し健康擁護の自然作用を与へられてゐるのである。では其(その)作用とは一体何であるかと言うと、之が意外にも病気と曰(い)ふものなのであるから何人も驚くであらう。それに就(つい)て充分説明してみるが、先(ま)づ人間が人間としての役目を果さんとする場合、どうしても全身に汚穢(おえ)が溜る。之に就(つい)ても後に詳しく説くが、兎(と)も角(かく)汚穢(おえ)とは霊にあっては曇りであり、肉体にあっては濁血である。処が人体に汚穢(おえ)が溜り、或(ある)限度を越へるや、人間活動に支障を及ぼす事になるので、之が除かれるべく前述の如く、自然作用即ち浄化作用が起るのである。処が此(この)浄化作用の過程が苦痛となる為、此(この)苦痛を病気として、悪い意味に解釈したのが現在迄の考え方であった。そこで人間一度病気に犯されるや、健康を損(そこ)ねるものと逆に考へるから、生命の危険をも予想し憂慮(ゆうりょ)するのである。其(その)為曩(さき)に説いた如く、其(その)苦痛を消滅或(あるい)は軽減させやうとして、種々の工夫を凝(こ)らして出来たものが、現在の如き医療であるから、如何(いか)に誤ってゐたかが判るであらう。
 以上によって考へても分る如く、病気なるものは、実に人間の健康を保持せんが為の、神の最大なる恩恵である事が判るであらう。従って此(この)真理を基本として構成された医学こそ、真の医学と言うべきである。

 無機質界

 茲(ここ)で、愈々(いよいよ)細菌発生の原理と其(その)順序をかいてみるが、抑々(そもそも)細菌といふ有機物は、現在最も進歩した原子顕微鏡でも、六万倍迄しか見へないとされてをり、之が現在迄の限度ではあるが、無論極点ではない。何(いず)れの日か顕微鏡の発達は、超微生物迄をも捕捉出来るやうになる事は予想されるが、問題は只(ただ)其(その)時期である。先(ま)づ現在の程度から推(お)しても、ずっと先の事と見ねばなるまい。
 そうして科学の現在であるが、唯物的に見れば最早(もはや)其(その)極点に迄達してをり、次の世界である処の無機質界の一歩手前迄来てゐて、大きな壁に突き当ってゐるといふ状態にあるといふ事だ。従って其(その)壁を突き破って了(しま)えばいいのであるが、実はそれが容易ではない。処が仮令(たとえ)壁を突き破り得ても其(その)先が問題である。といふのは其(その)先こそ唯物科学では到底捕捉する事の出来ない、言はば無に等しい世界であるからである。
 それに就(つい)ては、彼(か)の湯川博士の中間子論であるが、勿論同博士は、理論物理学専攻の学者であるから、最初理論によって中間子の存在を発表した処、偶々(たまたま)他の学者が宇宙線を写真に撮影しやうとした際、中間子である幾つかの素粒子が乾板(かんぱん)に印影されたので、茲(ここ)に博士の理論は、実験的に確認された訳である。つまり実験物理学によって裏付されたので、ノーベル賞獲得となったので、之は普(あまね)く知られてゐる通りである。処が私の唱へる説も理論神霊学であると共に、此(この)応用によって素晴しい治病の効果を挙げてゐるのであるから、実験神霊学としての立派な裏付も完成してゐるのである。としたら科学的に言っても如何(いか)に大なる発見であるかが分るであらう。
 之を一層判り易く言えば、唯物科学の到達し得た処の極致点が、現在の原子科学であるとしたら、其(その)次の存在である処の世界、即ち私の唱へる無機質界が明かにされたのであるから、科学上からいっても、実に劃期(かっき)的一大進歩と言えよう。そうして此(この)世界こそ曩(さき)に述べた如く、科学と神霊との繋りの存在であって、今茲(ここ)に説く処の此(この)文は、つまり科学界と神霊界との中間にある空白を充塡(じゅうてん)した訳である。実に此(この)空白こそ今日迄科学者も、哲学者も、宗教家も知らんとして知り得なかった処の、神秘的謎の世界であったのである。勿論以前から智識人の誰もが心の奥深く内在してゐた処の、真理探究の的(まと)そのものが、愈々(いよいよ)茲(ここ)に暴かれたのであって、長い間の理想の夢が実現されたのである。然(しか)し文化の進歩は、何時(いつ)の日かは此(この)神秘境に迄到達されなければならない事は、誰も予想してゐたに違ひないが、多くの人達は無論科学の進歩によるとしか想ってゐなかった事も肯(うなず)けるが、意外にも其(その)予想は裏切られ、私といふ宗教家によって発見されたのである。けれ共(ども)単に捉へただけでは何等の意味もなさないが、要はそれを活用し、普(あまね)く人類の福祉に役立たせてこそ、初めて大なる意義を生ずるのであるが、此(この)事も期待に外(はず)れず、病患の九十パーセント以上は完全に治癒されると共に、人間寿齢の延長までも可能となったのである。
 以上の如く、此(この)大発見によって、人類に与へる恩恵は、到底言葉や文字で表はす事は出来得まい。従って此(この)事が世界人類に普(あまね)く知れ渡った暁、現代文明は一大転換を捲き起し、人類史上空前の一新紀元を劃(かく)する事とならう。茲(ここ)に到っては最早(もはや)科学も宗教もない、否、科学でもあり、宗教でもあり、未(いま)だ人類の経験にも、想像にも無かった処の、真の文明時代出現となるのであらう事は、断言して憚(はばか)らないのである。偖(さ)て愈々(いよいよ)無機質界と物質界との関係に移るとしよう。

 霊主体従

 前項に説いた如き、無機質界と人間の病気との関係であるが、無機質界とは吾々の唱へる霊界であって、此(この)霊界と人間との関係はどういふ事になってゐるかといふと、抑々(そもそも)人間とは体と霊との二原素の密接合致によって成立ってゐるものであって、勿論体とは眼に見ゆる物質で誰にも判るが、霊とは眼に映らないものである以上、長い間分らなかったのである。処が確実に存在してゐる一種のエーテルの如きものである。としたら方法によっては、把握出来ない筈(はず)はないのである。といふのは人間の肉体が空気中にあると同様の意味で、人間の霊と雖(いえど)も霊界中にあるからである。霊界とは曩(さき)にもかいた如く、空気とは比較にならない程の稀薄な透明体であって、今日迄無とされてゐたのも無理はなかったのである。然(しか)し此(この)世界こそ無処ではなく、寧(むし)ろ万有の本源であって、絶対無限の力を蔵(かく)してをるもので、一切は此(この)力によって生成し化育されてゐるのである。そうして霊界の本質は太陽の精と月の精と土の精との融合一致、想像を絶する程の、霊妙不可思議な世界である。処が茲(ここ)で問題であるのは、人間が各々其(その)役目を果す上には肉体に垢が溜る如く、霊には曇りが溜積するのである。従って之に対し自然浄化作用なるものが発生し浄められる。之も恰度(ちょうど)人体に溜った垢が、入浴によって清められるやうなものである。処が右は独り人間ばかりではなく、天地間一切のものがそうである。例へば此(この)地上霊界に汚穢(おえ)が溜るや、自然作用によって一定の個所に集中され、低気圧といふ浄化活動が発(おこ)って清掃される。暴風も出水も洪水も又雷火も人的火災もそれである。と同様人間にも浄化作用が発生する。今其(その)理由を詳しくかいてみよう。
 右の如く、人霊に溜った汚穢(おえ)は一種の曇りであって、此(この)曇りとは本来透明体であるべき人霊に、不透明体の部分が出来るそれである。然(しか)し乍(なが)ら此(この)曇りの原因には二種類ある。一は霊自体に発生するものと、二は逆に体から霊に移写されるものとである。先(ま)づ前者から説いてみるが、元来人霊の内容は経(たて)に言えば求心的三段階に、緯(よこ)に言えば求心的三重層になってゐる。つまり【三重丸】*の形と思えばいい。勿論丸の中心が魂であって、魂とは人間が此(この)世に生れる場合、自然法則によって、男性から女性の腹へ宿らせる。本来魂なるものは極微のポチであって、勿論各々の個性を有(も)ってをり生命のある限り人間に対して絶対支配権を有(も)ってゐる事は、誰でも知ってゐる通りであるが、其(その)魂を擁護的に包んでゐるものが心であり、心を包んでゐるものが霊であって、霊は全身的に充実してゐるから、人体と同様の形である。此(この)様に霊体は一致してゐる以上、魂の如何(いかん)は其侭(そのまま)心を通じて霊に反映すると共に、霊のそれも心を通じて魂に反映するのである。斯(か)くの如く魂と心と霊とは大中小、小中大の相互関係で、言はば三位一体である。処が如何(いか)なる人間と雖(いえど)も、生きてゐる間善も行へば悪も行ふので、その際善よりも悪が多ければ多いだけが罪穢(ざいえ)となって魂を曇らすので、其(その)曇りが心を曇らせ、次で霊を曇らすのである。そうして、其(その)曇りが溜って一定量を越ゆるや自然に浄化作用が発生し、曇りの溶解排除が行はれる。然(しか)しそうなる迄の過程として曇りは漸次(ぜんじ)一ケ所又は数ケ所に分散し、濃度化すと共に容積も縮小され固結される。面白い事には其(その)罪によって固結場所が異(ちが*)ふ、例へば目の罪は目に、頭の罪は頭に、胸の罪は胸にといふやうに相応するものである。
 次に後者を解いてみるが、之は前者と反対で、体から霊に映るのであるが、其(その)場合最初血液の方に濁りが生ずる。即ち濁血である。すると霊にも其(その)通りに映って曇りとなるが、之も前者と同様局所的に分散濃度化するのである。元来人体なるものは霊の物質化したものが血液であり、反対に血液の霊化が霊であるから、つまり霊と体は同様といってもよいが、只(ただ)霊体の法則上霊の方が主になってをり、体の方が従となってゐるのである。処が何(いず)れにせよ右の原因によって、毒素は絶へず人体に溜り固結となるので、其(その)固結が浄化作用によって溶解され、液体となって身体各所から排除されやうとする。其(その)為の苦痛が病気なのである。
 右に述べた如く、体に発生する濁血とは何であるかといふに、之こそ実に意外千万にも医療の王座を占(し)めてゐる処の彼(か)の薬剤であるのである。といふのは本来薬といふものは此(この)世の中には一つもない。現在薬とされてゐるものは悉(ことごと)く毒であって、其(その)毒を体内に入れるとしたら、それによって濁血が作られるのは当然である。何よりも事実がよく証明してゐる。それは病気が医療を受け乍(なが)ら長引いたり悪化したり、余病が発(おこ)るといふ事は、薬毒によって病気が作られるからである。
 従って薬毒で出来た濁血が、霊へ映って曇りとなり、之が病原となるとしたら、現代医学の治病方法自体が病気を作る意味でしかない事にならう、右の如く万有の法則は霊が主で体が従である。としたら病気は霊の曇りさへ解消すれば濁血は浄血と化し、全治するのは言う迄もない。それで我治病法は此(この)原理の応用であるから、浄霊と曰(い)って霊を浄める事を目的とするものである以上、病気は根本的に治る訳である。処が医学に於ては霊を無視し体のみを対象として進歩して来たのであるから、結局一時的治病法でしかない訳である。事実医療が根治的でない事は、偶々(たまたま)手術等によって全治したやうにみへるが成程元の病気は発(おこ)らないとしても、他の病気が起るか又は再発するのは必ずと言ひたい程である。例へば盲腸炎の如きも患部を剔出(てきしゅつ)するので、盲腸炎は起り得ないが、盲腸に近接してゐる腹膜炎や腎臓病が起り易くなる。之は全く霊の方の曇りは依然として残ってゐるからで、而(しか)も薬毒も加はる為濁血は増へて、新たな曇りと合併し位置を変へて病原となるのである。
 そうして濁血の変化であるが、濁血が不断の浄化によって一層濃度化するや、血粒に変化が起り、漸次(ぜんじ)白色化する、之が膿である。よく血膿と言って膿と血液とが混合してゐるのは、之は変化の中途であって、尚(なお)進むと全部膿化する、よく結核患者の喀痰(かくたん)が血液の混ってゐるものと、そうでないものとがあるのは右によるのである。又医学に於ける赤血球に対する白血球の食菌作用といふのもそれである。

 薬毒の害

 前項に説いた如く、人間の罪が魂の穢れとなり、それが心を介して霊の曇りとなり、それの浄化が病気であるとしたら、其(その)曇りを解消する以外、病を治す方法のあり得ない事は余りにも明かである。処が西洋に於てはヒポクラテス、東洋に於ては彼(か)の神農(しんのう)氏が、病人に薬剤又は薬草を服(の)ますと、一時的苦痛が緩和されるので、之を可として医術の始祖となったのであるから、此(この)時から既に誤謬(ごびゅう)は発生した訳である。成程薬を用ひれば、一時的苦痛が減るので、之こそ病を治すべき方法と、単純に考へたもので、其(その)時代の人智の程度としては、無理もなかったのである。それが現在迄続けて来たのであるから、今迄の人間の迷蒙さは不思議としか思へないのである。
 処が、私が生れた事によって、此(この)人類の不幸の源泉たる病気が解決される事となったので、全く有難い時が来た訳である。従って之によって文明は百八十度の転換となり、理想世界実現となるのは勿論であらう。
 右の如く、人類は古い時代から薬剤を体内に入れつつ、今日に到ったのであるから、現代人悉(ことごと)くは薬剤中毒に罹(かか)ってゐる。曩(さき)にも述べた如く、薬剤なるものは有毒物である以上、体内に残存して病原となるに拘(かか)はらず、医学は薬毒は自然消滅するやうに思ってゐるが、之が大変な誤りで、実は薬毒は生命の在(あ)らん限り消滅しないのが原則である。之に就(つい)て私の体験をかいてみよう。私は今から三十六年以前、入歯をする為歯を抜き、其(その)穴へ消毒薬を詰めた処、歯痛を起し始めたので、それを治すべく又薬を用いた処、漸次(ぜんじ)痛みは増すばかりなので、次から次へ有名な歯科医に罹(かか)ったが、どうしても治らず、遂に二進(にっち)も三進(さっち)もゆかなくなって了(しま)った。何しろそれ迄に四本の歯を抜いた位であるから、如何(いか)に酷(ひど)かったかが判るであらう。それでも治らず、而(しか)も薬毒は頭脳迄も犯して来たので私は結局発狂か自殺かの運命にまで押詰められて了(しま)ったのである。然(しか)るに天未(いま)だ吾を捨てざるか、或(ある)動機によって薬の為である事が判り、それから歯科医を廃(や)めた処、漸次(ぜんじ)治って今日に到ったのであるが、驚いた事には今以(もっ)て少しではあるが痛みが残ってをり、毎日のやうに自分で浄霊をしてゐる。之によってみても薬毒は数十年掛っても消滅しない事がよく判るであらう。
 右によっても分る如く、薬剤は決して消へない事である。ではどういう訳かといふと、本来造物主は人間を造ると共に、人間が生きてゆけるだけの食料や其(その)他一切のものを造られてをり其(その)為に土壌や海川に其(その)力を附与され、植物鉱物等は元より、空気日月星晨悉(ことごと)くがそうである。そうして単に食物といっても一定の条件がある。条件といふのは食ふべきものと、食うべからざるものとが別けられてある。従って其(その)必要から人間には味覚を与へ、食物には味を含ませてある。又食物の種類も色々あり、悉(ことごと)く人間の健康や環境に適合するやう造られてゐる。例へば塩分が必要な時には塩辛い物が食ひたくなり、甘味が必要な時は甘味が食べたくなり、水分の必要な場合は咽喉(のど)が渇くといふやうに、自然は必要によって意欲が起るやうに造られてゐる。それと共に消化器能も一定の条件に適(かな)ふやうに出来てゐる。即ち食うべきものは悉(ことごと)く消化されるが、食ふべからざるものは、処理されないで残存する。此(この)理によって薬剤は異物であるから、消化処理されないので、之が古くなると毒素に変化して了(しま)ふ。その毒素の排除作用が病気であるから、病原はとりも直さず薬剤といふ事になる。喀痰(かくたん)、鼻汁、汗、膿、毒血などは悉(ことごと)く薬毒の変化したものであるから、世に薬剤程恐るべきものはないのである。
 之を知らなかった人類は、病気を治そうとして病気を作って来た訳である。何と重大誤謬(ごびゅう)を犯して来た事に気がつくであらう。実に世に之程な愚な話はあるまい。としたら此(この)一事だけを人類に知らせるとしたら、如何(いか)に大なる救ひであるかは、今更贅言(ぜいげん)を要しないであらう。何よりも此(この)私の説を信じて、専門家諸君は病気と対照してみるがいい。一点の誤りない事を知るであらう。
 右によってみても判る如く、長い間人類は病気に対する誤った解釈が因(もと)となり、病気の解決処か、逆に病気を作り病気の種類を増やしつつ今日に到ったのである。然(しか)も此(この)誤謬(ごびゅう)が貧乏と戦争の原因ともなってゐるのであるから、何よりも此(この)蒙(もう)を啓(ひら)かなければ真の文明は生れる筈(はず)はないのである。従って現在の人間は薬毒のない原始時代の人間に比べれば、その健康の劣弱さは比較にはならない程で、無薬時代の人間の寿齢が、百歳以上が普通であった事など、種々の記録や文献等にみても余りに明かである。私は彼(か)の武内宿禰(たけのうちすくね)の寿齢参百六歳といふ有名な話は、本当とは思ってゐなかったが、先年武内家の家系を見た処、之は確実である事が判った。武内家の祖先の中、最長寿者は三百四十九歳で、次は三百二十何歳、次は三百十何歳、武内宿禰(たけのうちすくね)は確か四番目であったと記憶してゐる。此(この)時代は今から二千年以前から千六、七百年前位にかけてであるから、まだ漢薬の渡来以前であった事は間違ひない。又神武天皇から千数百年迄は、天皇の寿齢は殆んど百歳以上であった事は記録に明かである。
 近来、米国及び日本人の寿齢が、些(いささ)か延びたといって喜んでゐるが、此(この)原因は医学の進歩の為ではなく、他に原因があり、之は後にかく事にするが、要するに一切の病原は薬毒である事が判ればいいのである。病気の為の痛み、痒(かゆ)み、発熱、不快感等凡(す)べての苦痛は、悉(ことごと)く薬毒が原因である事は、私の多数の経験によるも絶対誤りはない。勿論遺伝黴(ばい)毒も、癩病(らいびょう)、天然痘、痳疹、百日咳等の先天的保有毒素も悉(ことごと)く薬毒である。何よりも現代人で全然無病の人は、恐らく十人に一人もないであらう。どの人をみても何かしらの病気を持ってゐる。数人の家族で病人のない家は、珍しいとされており、一人や二人は一年の内に入院する者のない家庭は殆(ほと)んどあるまいと共に、一年中一滴の薬を服(の)まない人も稀(まれ)であらう。此(この)様に現代人は弱体となってゐるから、病気を恐れる事甚だしく、此(この)為に要する費用、不安、努力の為に及ぼす影響も、蓋(けだ)し甚大なものがあらう。
 従而(したがって)、此(この)世界から薬剤悉(ことごと)くを海へ投げ捨てたとしたら、其(その)時を期とし病気は漸減(ぜんげん)し、何十年後には、病なき世界の実現は断言し得るのである。
 次に、之から主なる病気に就(つい)て解説してみるが、人体の基本的機能としては、何といっても心臓、肺臓、胃の腑の三つであるから、これから先にかいてみよう。

 心臓

 人体の機能中、最も重要であるのは、心臓であって、機能中の王者と言うべきものである。従って心臓機能の本体が根本的に判らない限り、真の病理は確立する筈(はず)はないのである。医学に於ても他の臓器は手術が出来ても心臓は出来ないにみても肯(うなずか)れるのである。処が此(この)様に肝腎な心臓機能が、医学では適確に判ってゐない事である。只(ただ)僅(わず)かに肺臓から酸素が送られ、浄血作用を行ふ機関位にしか思ってゐないやうで、殆(ほと)んどとるに足らない考え方である。では心臓機能の真の働きとは何であるかを詳しくかいてみよう。
 抑々(そもそも)此(この)機能は、霊界と最も密接な関係のある点である。といふのは左の如き事を前以(もっ)て知らねばならない。といふのは地球の構成原素である。それは曩(さき)に説いた如く三段階になってゐる。即ち一、霊界 二、空気界 三、現象界であって、之を一言にして言えば、一は火素が本質であり、二は水素が本質であり、三は土素が本質である。勿論一は日の精、二は月の精、三は土の精であって、此(この)三原素の力によって、一切は生成化育されてゐる以上、人間と雖(いえど)も其(その)三原素の力によって、生命を保持されてゐるのは勿論である。
 そこで、三原素を吸収すべき主要機能としては心臓、肺臓、胃の腑である。即ち心臓は霊界から火素を吸収し、肺臓は空気界から水素を吸収し、胃の腑は物質界から、土素を吸収するのである。だから此(この)理を基本として、人体の構成を見ればよく判る。然(しか)るに今迄は肺臓は空気を吸ひ、胃は食物を吸収する事だけしか判ってゐなかった。従って心臓が火素を吸収するなどは、全然判ってゐなかったのである。では何故そうであったかといふと、それには理由がある。即ち空気も、食物も科学で測定が出来るからであるが、ひとり心臓機能のみはそれが不可能であった。といふのは霊界は無とされてゐた以上、機械的には把握不可能であったからで、之も無理はないのである。早く言えば三原素の中、二原素だけ判ったが、一原素だけが判らなかった訳である。処が此(この)一原素こそ、実は二原素以上重要なものであってみれば、之が判らない以上、完全な医学は生れない訳である。故(ゆえ)に今迄の学理は、言はば不具的であった事は言ふ迄もない。以上の如く最重要な火素を吸収すべき機関が心臓であって、水素を吸収するのが肺で、土素を吸収するのが胃であって、それによって人間は生きてゐるのである。
 処が病気であるが、病気とは再三説いた如く、毒素の排泄作用であるから、固結毒素を溶解する場合、熱が必要となる。其(その)熱を心臓が吸収する役目であるから、平常よりも余分に火素を要するので、心臓はそれだけ活動を旺(さか)んにしなければならない。発熱の際鼓動が頻繁(ひんぱん)なのはそれが為であって、其(その)際の悪寒(おかん)は体温を心臓に補給する為不足となるからで、又呼吸頻繁(ひんぱん)なのは、心臓の活動を助ける為、肺臓は水分を余分に供給しなければならないが、それには熱は水分を加へる程力を増すからである。又発熱の際食欲不振なのは、消化に要する熱量を、心臓へ奪はれるからである。此(この)様にして毒結の溶解が終れば、熱の必要はなくなるから解熱するのである。之で心臓の実体は摑めたであらう。

 胃病

 茲(ここ)で肺臓の解説をするのが順序であるが、之は最初に充分かいたから略して、胃に移る事にしたのである。病気の原因が殆(ほと)んど薬毒である事は、今迄説いた通りであるが、特に胃に関した病気程それが顕著であって、悉(ことごと)く薬で作られるといってもいいのである。それを今詳しくかいてみるが、誰しも偶々(たまたま)食べすぎとか、食靠(しょくもた)れとか、胸焼がする事がよくある。すると放っておけば治るものを、何でも薬さへ服(の)めばいいと思ひ、早速胃の薬を服(の)んで了(しま)ふ。然(しか)し一時はよくなるから、それで済んだと思ってゐると、何ぞ知らん此(この)一服の薬が、将来命取りの因(もと)となる事さへあるのだから問題である。つまり一服の薬が病の種を蒔(ま)く訳である。といふのは暫(しばら)く経つと、再び胃の具合が必ず悪くなるもので、そこで又薬を服(の)むといふ具合に、いつしかそれが癖になって了(しま)ふ。此(この)点痳薬中毒と同様であって、終(つ)ひには薬がなくてはおられない事になるが、斯(こ)うなるともう駄目だ。立派な胃薬中毒患者である。そこで医者に診て貰ふと先(ま)づ胃弱、消化不良、胃(い)加答児(カタル)、胃酸過多症などと診断され、斯(こ)ういふものを食ってはいけないとか、此(この)薬を服(の)まなければいけない。斯(こ)ういふ養生をしなさいなどと言はれるので、其(その)通り実行するが一時は一寸(ちょっと)よいようでも、決して治りはしないばかりか、寧(むし)ろ悪化の傾向さへ辿(たど)る事になる。痛み、嘔気、胸焼、食欲減退など種々の症状が次々発(おこ)るので、仕方がないから薬を服(の)む、と一時よくなるので、薬で治るものと思ひ込み、益々薬が離せなくなる。処が初め効いた薬が段々効かなくなるもので、それからそれへと種々な薬を変へるが、変へた時だけは一寸(ちょっと)良いので、それに頼ってゐると又駄目になって了(しま)ふといふ訳で、言はば胃薬中毒患者になるのである。そんな事をしてゐる内、遂々(とうとう)口から血を吐くやうになる。サァー大変と医師に診て貰ふと、之は立派な胃潰瘍で、充分養生しないと取返しのつかない事になりますよ、先(ま)づ固形物を食べないで、絶対流動食にして安静にする事等々、万事重症患者扱ひにされて了(しま)ふ。
 右は、最初からのありふれた経路をかいたのであるが、実は斯(こ)ういふ人は今日尠(すくな)くないのである。そこで初めからの事をよく考へてみると、初め胃の具合が悪かった時、放ってをけば直(じき)に治って了(しま)ったものを、何しろ医学迷信に陥ってゐる現代人は、薬を服(の)まないと治らない、放っておくと段々悪くなると心配し、一刻も早く医師に罹(かか)ったり、売薬などを用ひたりする。そんな訳で全く薬によって重症胃病を作り上げて了(しま)ふ訳である。何と恐るべくして又愚な話ではないか。処がそれは斯(こ)うである。大体胃の薬というものは、勿論消化促進剤であり、消化剤は必ず重曹が土台となってゐる。衆知の如く重曹は物を柔かくする力があるので、煮物などによく使はれるが其(その)理屈で常住消化薬を服(の)むとすると、食物ばかりではない、胃壁をも段々柔かにして了(しま)ふ。そうなった時偶々(たまたま)固形物などを食ふと、ブヨブヨになった胃壁の粘膜に触れるから疵(きず)がつく、其(その)疵(きず)から血液が漏れるのである。吐血の際鮮血色は新しい血で、破れた局所が大きい程多量に流出するのである。処が人により珈琲(コーヒー)色の液体や、それに黒い粒が見える事もあるが、之は古くなって変色した血で、粒とは血の固(かたま)りである。又よく大便に黒い血の固(かたま)りが交る事があるが、之は古い血で疵(きず)口から出た血液が胃底に溜り、固(かた)まったものが溶けて出たものである。然(しか)し此(この)珈琲(コーヒー)色の古血を吐く場合、非常に量の多いもので、一度に一升から二升位、毎日のやうに吐く患者さへあるが斯(こ)うなっても吾々の方では割合治りいいものとしてゐる。然(しか)し此(この)病気は医学の方では仲々治り難いとされてゐるが、全く原因が薬であってみれば、お医者としたら具合が悪いに違ひない。何しろ薬を廃(や)めなければ治らない病気であるからで、従って此(この)病気は薬を廃(や)めて気長にすれば、必ずと言ひたい程治るもので、其(その)方法は最初血液を少しでも見る内は流動食にし、見えなくなるに従ひ、漸次(ぜんじ)普通食にすればいいのである。次に他の胃に関した病をかいてみよう。
 最も多くあるのは胃アトニー(胃酸過多症)といふ症状で、之は文字通り酸の多い病であるが、酸とは勿論薬の変化したものであるから、薬を廃(や)めれば順調に治るのである。次は胃痛で、此(この)酷(ひど)いのが胃痙攣(いけいれん)である。之は激しい痛みで堪へられない程である。医療はモヒ性薬剤を用ひるが、之は一時的痳痺によって、苦痛を抑へるだけであるから、日ならずして又発(おこ)る。という訳で癖になり易いもので、此(この)病の原因も勿論薬毒であるが、其(その)経路をかいてみよう。
 先(ま)づ、薬を服(の)むと一旦胃に入るや、曩(さき)に述べた如く、薬は処理されないので、胃に停滞する。人間は仰臥(ぎょうが)するから薬は胃を滲透(しんとう)して下降し背部に固(かた)まる。それが浄化によって溶け胃に還元するが、其(その)時は最早(もはや)毒素に変化してゐるから、胃はそれを外部へ排泄しやうとする。其(その)刺戟(しげき)が激痛であるから、胃痙攣(いけいれん)の起った場合、何にもしないで一度我慢して、痛いのを通り越して了(しま)えば下痢となって毒素は出て了(しま)ふので根本的に治るが、毒素が出切る迄には何回も発(おこ)るが、之は致し方ない。然(しか)し其(その)次発(おこ)った時は、必ず前より軽く済み、次は又軽くなり遂に全治するのである。
 次に胃癌であるが、之には擬似と真症とあるが、実際上擬似の方がズット多いものである。そうして真症の胃癌は霊的であり、宗教的になるから、茲(ここ)では擬似胃癌のみに就(つい)て説明するが、勿論之は薬毒が原因で、前述の如く一旦背部に固結し、胃に還元した際、医療は排泄を止める結果再固結する。之は普通の固結よりも悪性である。何故なれば毒素に変化したものが、再び固(かた)まるからで、之が即ち癌である。然(しか)し之は薬の性質にもよるので、どの薬もそうであるとは言へない。之も放任しておいても長くは掛るが、必ず治るものである。

 主なる病気(一)

 私は、人体の重要なる三大機能の大体をかいたが、之から主なる病気に就(つい)て解説してみよう。

  腎臓病と其(その)他の病
 腎臓は体内機能中、三大機能に次いでの重要なる役目をしてゐるもので、之は医学でも唱える如く、一旦腎臓へ集溜されたる液中から、貴重なるホルモンを抽出すると共に、廃物液体である尿は膀胱へ送られるのである。処が厄介な事には、腎臓が完全に活動されるとしたら右の通りであるが、実際上幼児から少年、青年、壮年と年を重ねるに従って、漸次(ぜんじ)働きが鈍るのが通例で其(その)原因は腎臓が萎縮するからである。では何故萎縮するかといふと、腎臓が前述の如く、必要なものと不必要なものとが分けられる場合、右の二者以外の異物が混る場合がある。此(この)異物こそ言う迄もなく薬毒であって、之がどう処理されるかといふと、ホルモンにも尿にもならないので、腎臓の表皮を滲透(しんとう)して、背部腎臓面に浸出し僅(わず)かづつ溜るのである。それが固結し腎臓を圧迫するから、腎臓は漸次(ぜんじ)萎縮し、ホルモン産出は減少する(不感症は此(この)原因が多い)と共に尿の処理も鈍化し、其(その)幾分は之も外部へ浸出するから、薬毒に追加され、両毒合併して毒結は愈々(いよいよ)増大する以上、脊柱の両側に溜り上向延長しつつ、遂に肩や頸(くび)の辺迄及ぶのである。肩や首が凝(こ)るのは之であって、面白い事には此(この)両毒結を判別する事が出来る。即ち患部を押せば薬毒の方は固(かた)くて痛み、頑固性であるが、尿毒の方は稍々(やや)柔軟で殆(ほと)んど痛みがない。そうして毒素は遂に頭脳内に迄進入するので、其(その)結果浄化が発(おこ)るそれが頭重、頭痛は勿論、脳膜炎、日本脳炎、脳脊髄膜炎、脳溢血等、凡(す)べての脳疾患である。此(この)頭脳内の毒素の有無を知るのは甚だ簡単で、頭脳に手を触れてみれば直(す)ぐ判る。即ち少しでも温味(あたたかみ)があれば毒素のある證拠(しょうこ)で、温い程毒素が多い訳だが、現代人で無熱の人は恐らく一人もあるまい。
 そして前頭部に固結した毒素の、急激強烈な浄化が脳膜炎であり、此(この)病気が児童に多いのは、浄化力が旺盛であるからである。即ち此(この)病気は高熱と共に、前頭部の激痛と目が開けられないのが特異性で、之は眩(まぶ)しいのと眩暈(めまい)との為である。然(しか)し之も放置しておけば、毒結は溶解し涙、鼻汁等になって排泄され、完全に治るのである。而(しか)も予後病気以前よりも頭脳明晰(めいせき)となり、児童などは学業の成績も優良となるので、これは医師も一般人も意外に思ふのである。処が医療は、氷冷等で固(かた)める為、一旦無熱となり、治ったやうでもその固結が機能の活動を阻害し、痴呆症や、その他種々の不具的症状を表はすのである。
 其(その)他として、彼(か)の日本脳炎であるが、之は統計によるも五歳から十歳位迄が、最も多いとされてゐる。之によっても判る如く、夏日炎天下に帽子も被(かぶ)らないで遊ぶ場合、脳は強烈な日光の直射を受けるから、其(その)刺戟(しげき)によって背部、肩等にある毒素が頭脳に向って集中を開始する。その際一旦延髄附近に集溜するので、其(その)部に手を触るれば棒状の固結を見るが、それが高熱によって溶解、後頭内に侵入するや、非常に睡(ねむ)くなるのである。処が医療は氷冷で固(かた)めるから、予後脳膜炎と等しく、種々な不具的症状を残すのである。然(しか)し此(この)病気も放置しておけば、後脳内に入った毒素は、頭脳を通過して目及び鼻口から、血膿となって旺(さか)んに排泄され、出るだけ出ればそれで完全に治って了(しま)ふのである。先(ま)づ全治迄一週間とみればいい。而(しか)も予後脳膜炎と同様、児童などは非常に学校の成績が良くなるのみならず、初めから生命の危険などは絶対ないに拘(かか)はらず、死ぬといふのは全く氷冷等の、誤れる逆療法を行ふからである。そうして日本脳炎は夏期罹病するに対し、冬期に発(おこ)るのが脳脊髄膜炎である。之は日本脳炎と同様、延髄附近に毒素が棒状に固結するが、之は夏と異い日光に晒(さ)らされてゐないから、中途で止まるといふ訳である。此(この)病気の特異性は右の如き棒状の為、首は前後に動かず、恰度(ちょうど)丸太棒(まるたんぼう)のやうな形でよく判るのであるが、此(この)経過も日本脳炎と同様であるから略す事とする。
 次に脳疾患の外(ほか)の種々の症状を詳しくかいてみよう。
 前述の如く萎縮腎の為、頭部に向って進行する毒素は、延髄附近にも固結するので、眼球に送血する血管が圧迫され、眼は貧血を発(おこ)す事になる。つまり眼の栄養不足で、其(その)為視力が弱り、遠方迄見得る力が足りない。之が近視眼の原因である。何よりも右の固結を溶解するに従って、近視眼は全治するに見て明かである。乱視も同様の原因であるが、只(ただ)乱視の方は、浄化の為人により固結状態が絶へず動揺し、血管を不規則に圧迫する為、視力も動揺するからである。又底翳(そこひ)は眼底に毒素が溜結し、視神経を遮断するから見へないのである。白内障、緑内障は、眼球そのものに毒素が固結するので、之も放置しておけば自然に溶解し全治するが、医療は点眼薬や眼球注射等を行ふから、此(この)薬毒の為毒素は固(かた)まって了(しま)ひ、治るべき眼病も治らない結果になるのである。そうして凡(すべ)ての眼病は、頭脳に集溜した毒素が、出口を求めて眼球から排泄されやうとし、一旦眼球に集中し、再び溶けて膿、目脂(めやに)、涙等となって出るのであるから、放任しておけば長くはかかるが、必ず治るものである。又トラホームは頭脳の毒素が眼瞼(まぶた)の裏の粘膜から排泄されやうとし、発疹となって排膿されるので、之も自然に簡単に治るものである。
 次に鼻に関する病であるが、鼻茸(はなたけ)、肥厚性鼻炎、鼻加答児(カタル)等は、何(いず)れも頭脳の毒素が一旦鼻の両側、鼻の奥、鼻口等に集溜し、排泄されるのであるから、之も自然に治癒すべきを、医学は種々の逆法を施す結果、治らない事になるのである。又中耳炎は耳下腺及び淋巴腺附近の毒結が高熱により溶解穿骨(せんこつ)し、一旦中耳に入り、鼓膜を破って排泄されるそれらの痛みであるから、之等も二、三日そのままにしておけば、順調に治癒されるのである。
 次に扁桃腺炎であるが、之も淋巴腺附近の毒素が、日を重ねるに従ひ、扁桃腺に固結し高熱によって溶解、粘膜を破って排泄されるといふ極く簡単な浄化作用で結構なものであるが、医学はルゴール等の塗布薬を用ひ、浄化を妨害するので拗(こじ)れると共に、遂に膨大し手術の止むなきに至るのである。故(ゆえ)に読者諸君は試みに、今度扁桃腺の発(おこ)った場合、何もせず放っておいてみられたい。すると短時日で順調によく治って了(しま)ふばかりか、発(おこ)る毎(ごと)に段々軽くなり、遂に全治するのである。之は私が慢性扁桃腺炎を治した経験と、多数の人に教へた結果、例外なく根治したにみても確実である。
 茲(ここ)で面白い事がある。それは多い病気とは言へないが、割合厄介なものに歯槽膿漏があるが、之も淋巴腺附近の毒素が、歯茎を目掛けて集溜し、血膿となって排泄されやうとする一種の浄化であるから、私は斯(こ)んな汚ないものはないといふのである。それは元々尿の古くなったものが、口中から出る訳だからである。之を治すのは訳はない。歯茎を固いブラシで摩擦すれば、血膿が出るだけ出て、それで治って了(しま)ふものである。
 右によっても分る如く、最初に述べた寒冒の原因である肩から上に固結する毒素は、凡(すべ)て腎臓が元である事は明かである。としたら寒冒も結核も肺炎も殆(ほと)んどの病気は腎臓萎縮が原因である事が判ったであらう。処がそればかりではない。肋膜炎も、腹膜炎も関節リョウマチも神経痛も婦人病も勿論そうであり、カリヱスも、肝臓病も、黄疸も、糖尿病も、胆嚢(たんのう)、腎臓、膀胱内の結石も、喘息も、中風も、小児痳痺も、精神病もそうである。としたら実に腎臓萎縮を起さないやうにする事こそ、健康の第一条件である。以上の病気は順次説く事にするから、それを読めば尚(なお)よく判るであらう。
 此(この)理によって、腎臓を完全に働かせる事が肝腎で、それには腎臓萎縮の原因である固結を、溶解除去すると共に、作らないやうにする事である。処が現在の如何(いか)なる療法によっても不可能であるが、独り本教浄霊によれば可能であるから、此(この)一事によっても、病なき世界は期待して誤りないのである。

 主なる病気(二)

  肋膜炎と腹膜炎
 肋膜炎は、医学でも言はれる如く、肺を包んでゐる膜と膜との間に水が溜るので、之が湿性肋膜炎と言ひ、膿が溜るのを化膿性肋膜炎と言ひ、何も溜らないのに膜と膜との間に間隙(かんげき)を生じ、触れ合って痛むのを乾性肋膜炎と言ふのである。湿性の原因は、勿論胸を強打したり、器械体操の如き手を挙げて、力を入れる等が原因となって発(おこ)るのであるが、何の原因もなく偶然発(おこ)る事もある。此(この)病気である膜と膜との間隙(かんげき)に溜る水とは勿論尿であって、医療は穿孔(せんこう)して水を除(と)るが、此(この)方法は割合奏効する事もある。然(しか)し之も癖になり、慢性となり易いが、そうなると水が膿化し化膿性肋膜炎に転化する。又初めから膿の溜るのもあるが、何(いず)れにせよ慢性になり易く、大抵は穿口(せんこう)して其(その)穴から毎日排膿させるのである。然(しか)し斯(こ)うなると仲々治り難(にく)く、重症となり殆(ほと)んどは死は免(まぬが)れないが、此(この)化膿性は薬毒多有者が多い事は勿論である。
 湿性は最初高熱と胸の痛みで、深い呼吸をする程余計痛むが、反(かえ)って水が多く溜ると無痛となるもので、之は膜の触れ合ひがなくなるからである。又尿の出も悪くなるのは勿論で、此(この)病気の特異性は、眠い事と盗汗(ねあせ)であるが、此(この)盗汗(ねあせ)は非常によいので、之は溜った水が皮膚を透して出るのであるから、放任しておけば出るだけ出て治るものである。之を知らない医学は盗汗(ねあせ)を悪いとして停めようとするから治らなくなるので、如何(いか)に誤ってゐるかが判るであらう。又化膿性は膿が肺に浸潤して痰となって出るのであるから、之も自然にしておけばいいのである。乾性肋膜炎は滅多にない病気で医診は肋間神経痛をよく間違へるやうであるが、之も簡単に治るものである。よく肋膜炎から肺結核になる人も多いが、之は肋膜の水や膿が肺へ浸潤し、安静其(その)他の誤った手当の為、肺の中で固(かた)まって了(しま)ふ其(その)為であるから、最初から何等手当もせず放任してをけば結核にはならないのである。
 次に腹膜炎(別名腹水病)は、肋膜と同様腹膜と今一つの膜との間に水が溜って、頗(すこぶ)る膨大になるものである。処が医療は穿孔(せんこう)排水方法を採るが、之が非常に悪く、排水すると一旦はよくなるが、必ず再び水が溜る。すると又除(と)る、又溜るといふやうに癖になるが、困った事には溜る期間が段々短縮され、量も其(その)度毎(ごと)に増へて行くので、何回にも及ぶと益々膨大、臨月の腹よりも大きくなるもので、斯(こ)うなると先(ま)づ助かる見込はないのである。此(この)原因は萎縮腎であるから、萎縮腎を治さない限り全治しないのは勿論である。
 又化膿性腹膜は、薬毒が膿となって臍(へそ)を中心に、其(その)周囲に溜結するのであるから、腹水の如き膨満はなく、反(かえ)って普通より腹部は低い位である。之は押すと固い処が所々にあって、圧痛があるからよく分る。然(しか)し慢性は軽微の痛みと下痢であって、非常に長くかかり、治るのに数年掛かる者さへある。処が医療は薬で治そうとして服薬をさせるから、実は毒素を追加する事になるので、治るものでも治らない事になって了(しま)ふ。そうして恐ろしいのは彼(か)の急性腹膜炎である。此(この)病気は急激に高熱と共に激痛が伴ひ、殆(ほと)んど我慢が出来ない程で、患者は海老の如く身を縮めて唸(うな)るばかりである。医療は切開手術を行ふが、之は成績が甚だ悪く、近頃は余り行はないやうである。之も本療法によれば一週間乃至(ないし)二週間以内で完全に治癒するのである。之は旺盛な浄化であるから青年期に多いのは勿論である。
 そうして此(この)化膿性腹膜といふ病気は、人により重い軽いはあるが、全然ない人は先(ま)づないといってよからう。茲(ここ)で注意すべきは、よく禅や腹式呼吸、其(その)他の意味で腹に力を入れる人は、そこに毒素が溜結し、腹膜炎が発(おこ)り易いから注意すべきである。

 喘息

 喘息に関しては、医学では全然判ってゐないのである。といふのは医学に於ける喘息の説明は、殆(ほと)んど問題になってゐないからである。ヤレ、アレルギー疾患だとか、迷走神経の緊張だとか、神経過敏性とか、そうかと思へば食物とか、土地とか、中には部屋の構造、壁の色まで関係があるといふのだから、寧(むし)ろ滑稽(こっけい)でさへある。従って成可(なるべ)く詳しく説明してみよう。
 医学でもいふ如く、喘息は大体二種ある。気管支性と心臓性(近来此方(こちら)はアレルギー性ともいふ)とである。先(ま)づ心臓性からかいてみるが、之は最初横隔膜の外部に、薬毒が固結するのである。それに浄化が発(おこ)るや微熱によって溶解、液体状となり、肺へ浸潤して喀痰(かくたん)となって出ようとするが、此(この)場合横隔膜部は肺臓から距離があるので、液体の方から浸潤する事が出来ない為と、肋間に毒結のある場合浄化によって液体となったが、人により肺膜の厚い場合容易に浸潤し難いので、肺の方から最大限に拡がり吸引しようとする。そのやうに大体右の二つの原因であるといふ訳は、肺は其(その)様な猛烈な運動の為、肝腎な空気を吸ふ力が減殺されて、窒息状態となるのである。何よりも其(その)際肺に侵入した毒液が、咳と共に痰になって出ると、発作は一時楽になるといふ事や、又肺炎に罹(かか)ると一時快(よ)くなると言はれるが、之は高熱の為固結が溶解され、痰になって出るからである。右の理が間違ってゐない事は、何よりも先(ま)づ心臓性喘息患者の、横隔膜部を指で探れば、必ず固結を見る事である。
 次に、気管支性喘息であるが、之は肋骨附近に固結してゐる毒結が、浄化によって少しづつ溶けるので、それをヤハリ肺の方から吸引しようとして肺臓は猛烈なポンプ作用を起す、それが咳であるから、之によって痰が排泄され、一時快(よ)くなるのである。然(しか)し痰の量が多く出れば出る程、短期間に治るのであるが、それを知らない医学は、極力固(かた)め療法を行ふので、少しづつしか痰が出ないばかりか、薬毒も追加されるのと相俟(あいま)って、治り難(にく)くなり、慢性となるのであるから、丸で笊(ざる)へ水を汲んでゐるやうなもので、人により何十年も苦しんで治らない者はそういふ訳である。之を考へたなら患者も医師も、実に気の毒の一語に尽きるが、何とか分らしたいと常に思ってゐるのである。

 肝臓、胆嚢(たんのう)、膀胱の結石

 医診でよく言はれる肝臓病といふのは、実は誤りで、肝臓そのものには異状がないので、只(ただ)肝臓の外部に薬毒が固結してをるのを間違へたものである。然(しか)し勿論其(その)毒結が肝臓を圧迫してゐるので、苦痛であるのみか、之が黄疸の原因ともなるから、始末が悪いのである。勿論右の如く毒結によって、肝臓を圧迫する以上、肝臓の裏にある胆嚢(たんのう)も圧迫されるから、胆嚢(たんのう)の中にある胆汁が滲出(しんしゅつ)し全身に廻る。それが黄疸である。処が黄疸は皮膚の変色ばかりの病ではなく、胃の活動をも阻害させる。といふのは胆汁は胃の消化を助ける為、絶へず輸胆管を通じて、胃に送流してゐるに拘(かか)はらず、右によって胆汁の供給が減るからである。故(ゆえ)に此(この)病気を本当に治すには、原因である肝臓外部の毒結を溶解し、排泄させるより外(ほか)に方法はないが、医療ではそれが不可能であるから、一時的緩和法によって、小康を得るより手段はないのである。
 茲(ここ)で、結石に就(つ)いてかいてみるが、最も多いのは胆嚢(たんのう)結石であって、之は胆嚢(たんのう)の中へ石が出来るので、その石が胆汁と共に胃に向って流入せんとする際、輸胆管通過が困難なのでそれが堪へられない激痛となるのである。従って医師も特に治療困難な病気としてゐる。近来細い針金様の機械を作り、咽喉(のど)から胃を通じて、捕捉し出すといふ事を聞いてゐるが余り効果はないやうである。処が石の小さい場合、通過下降し、腎臓にまで流入するので、腎臓内の尿素が附着し、段々大きくなってゆき、茲(ここ)に腎臓結石となるのである。そうして困る事には、結石は腎臓活動の為、腎臓壁に触れて疵(きず)が出来る。そこへ尿が泌みるから痛みと共に出血するので、之を医診は腎臓結核といふのである。而(しか)も結石は漸次(ぜんじ)育ってゆき、余り大きくなると致命的となり、医療は手術によって片一方の病腎を剔出(てきしゅつ)するのであるが、其(その)時分は非常に固い石となってをり、之を細工をして指環(ゆびわ)やカフスボタン等に作られた物を見た事があるが、頗(すこぶ)る光沢があって宝石に見紛(みまが)ふばかりである。又小さい内膀胱に流入し、腎臓に於けると同様育ってゆく、之が膀胱結石である。処が最も困る事には、其(その)石が膀胱の入口へ痞(つか)へる事がある。それをうまく通過しても、今度は尿道口に痞(つか)へる。両方共尿の排泄を止めるから、尿は漸次(ぜんじ)下腹部に溜り腫(は)れるので、医師はブーヂを挿入するが、之も尿道口だけの閉塞(へいそく)なら奏効するが、膀胱口の方は仲々困難なので、遂に生命に関はる事となるのである。
 茲(ここ)で、最初の胆嚢(たんのう)結石の原因をかいてみるが、之は曩(さき)に述べた如く、腎臓から滲出(しんしゅつ)する薬毒が、漸次(ぜんじ)上部に移行する際、胆嚢(たんのう)の裏面から胆嚢(たんのう)内へ滲透(しんとう)するので、其(その)毒素と胆汁と化合して石となるのである。従而(したがって)、之を治すには根本である背面腎臓部の毒結を溶解し、腎臓を活潑(かっぱつ)にさせ、余剰尿を作らないやうにする事で、それより外(ほか)に方法はないのである。従って本浄霊法によれば、割合簡単に石は分解され、砂の如くなって、尿と共に排泄されるので、短期間に全治するのである。

 神経痛とリョウマチス

 単に神経痛といっても色々あるが、それは勿論場所によるのである。然(しか)し普通は手や足や肋間等でリョウマチスを併発する場合も多く、要するに此(この)病気は、外部的神経が痛むだけで、内臓は何ともないのである。只(ただ)特種のものとしては骨髄炎の痛みで、之は薬毒が骨に固着しそれの浄化である。又肋間神経痛といふものも此(この)名称は少々的外(まとはず)れである。といふのは医学でいふ肋間神経痛は、本当は肋骨神経痛である。何故なれば原因は肋骨に薬毒が固着し、それが浄化によって溶け始め、痰となって肺に侵入しやうとする場合、神経を刺戟(しげき)し痛むのである。此(この)病気は激しく発(おこ)る場合非常に痛み、呼吸すら困難になる事がある。然(しか)し之は又非常に治りいいものである。
 又神経痛の中には、淋病が原因で発(おこ)る事もある。之は大抵腕の関節に多いが、割合順調に治るものである。そうして一般の神経痛は注射等の薬毒が原因で、痛みを我慢して自然にしておけば必ず治るものであるが、そうすれば毒素は漸次(ぜんじ)一ケ所に集溜し、紅く腫(は)れて自然に穴が開き、そこから排膿して治るものである。茲(ここ)で医学でも気が付かないものに、パピナール注射の中毒がある。全身的に皮膚が痛む症状で、之も自然にして置けば簡単に治るのであるが、医学は反(かえ)って種々の注射などするから反(かえ)って治り難(にく)くなるのである。
 次はリョウマチスであるが、之は人も知る如く、手、足、指等の関節が赤く腫(は)れ上り、非常に痛むもので、原因は勿論薬毒が関節へ集溜し、腫物となって排泄されようとする。その痛みで患者は堪へ難く、悲鳴を挙げる位である。処が医療は患部を絶対動かぬやう固(かた)める手段を採るので、固(かた)まって了(しま)えば痛みはなくなるが、その代り関節は動かなく、棒のやうになって了(しま)ひ一種の不具者となり、一生涯跛行(はこう)となるのであるから、恐ろしい病気の一種である。此(この)点などにみても、医学は病気を治すのではなく、苦痛だけを治して不具者にする訳である。処が我浄霊法によれば、いとも簡単に短時日で全治させ得るのであるが、困る事には氷冷、塗布薬、注射等をした者はそれだけ長くかかるので、ツマリ散々金を費(つか)った揚句不具者とされるのだから、厄介な世の中である。従って最初から何等手当もせず浄霊法のみ施せば、一週間以内に完全に治るのである。

 上半身の病気と中風

 上半身の病気に就(つい)ては大体かいたが、未(ま)だ書き残したものがあるから、之からかいてみるが、先(ま)づ今日最も恐れられてゐる病気としては中風であらうから、それを最初に説く事とする。
 今日、若い者は結核、老人は中風といふやうに、相場が決ってゐるが、全くその通りで、誰しも老年になるに従って、最も関心を持つものは中風であらう。中風は勿論脳溢血からであるが、此(この)病も医学では全然判ってゐないばかりか、判ってもどうする事も出来ないのであるから厄介である。先(ま)づ脳溢血からかいてみるが、脳溢血の原因は、頸(くび)の固結であって、特に左右何(いず)れかの延髄部に長年月を経て毒血が固(かた)まるのである。従って脳溢血の素質を知るのは雑作もない。右の部を指で探れば固結の有無が判る。それは右か左かどちらかが、必ず大きく隆起してをり、押すと軽い痛みがある。処がそこに一度浄化作用が発(おこ)るや、固結は溶解され、血管を破って頭脳内に溢血するのである。溢血するや忽(たちま)ち脳を通過して、反対側の方へ流下し、手及び足の先にまで下降し、速(すみや)かに固(かた)まって了(しま)ひ、半身不随即ち手も足もブラブラとなって了(しま)うのである。重いのは腕も手も引っ張られるやうになり、内側へ肱(ひじ)は曲り、指迄曲ったままで容易に動かなくなる。そうして拇指(ぼし)が一番強く曲り、四本の指で拇指(ぼし)を押へる形になる。処が面白い事には、足の方は反対に曲らないで、伸びたまま足首などダラリとなって了(しま)う。それだけならいいが、重症になると舌が吊って、呂律(ろれつ)が廻らなくなり、頭もボンヤリして痴呆症同様となり、目までドロンとして、悪い方の側の眼力は弱化し、見へなくなる者さへあるといふのが主なる症状で、全く生ける屍となるのである。
 処で、医学の最も誤ってゐる点は発病するや何よりも急いで頭脳を氷冷するが、之が最も悪いのである。医学では之によって、溢血の原因である血管を、速く収縮させやうとするのであるが、之が大変な間違ひで、本来溢血は毒血が出るだけ出れば忽(たちま)ち止血するもので、そうなるには数分間位である。従って止血させる必要などないばかりか、反(かえ)って氷冷の為、溢血後まだ残留してゐる頭脳内の毒血を、より固(かた)めて了(しま)う事になるから、頭脳内機能の活動は停止される以上、より痴呆症的になるのである。それを知らない医療は、氷冷を何日も続けるのであるから、其(その)結果はどうなるかといふと、頭脳を冷し過ぎる為、凍結状態となって了(しま)うのである。考へても見るがいい。人体中最も重要な機能を氷結させるとしたら生きてゐる事は到底出来ないに決ってゐる。此(この)為生命を失ふ者の数は実に多いのである。全く角(つの)を矯(た)めて牛を殺すの類(たぐ)ひで、之こそ病気の為の死ではなく、病気を治す為の死であるので、何と恐るべき迷蒙ではなからうか。之は私の長い間の多数の経験によっても明かな事実であって、脳溢血だけで死ぬ者は滅多にないのである。
 茲(ここ)で脳溢血に附随する種々な点をかいてみるが、医学ではよく転(ころ)ぶと脳溢血が起り易いとされてゐるが、之は逆であって、脳溢血が発(おこ)るから転ぶのである。つまり転(ころ)ぶのが先ではなく、脳溢血が先なのである。よく転(ころ)んだり、梯子段(はしごだん)から落ちたりするのは溢血の為の眩暈(めまい)である。そうして最初の脳溢血が幸ひにも、一時小康を得て歩けるやうになっても、医師は転(ころ)ぶのを非常に警戒するのは、右の理を知らないからである。又医学に於ては頭重や一部の痳痺、眼底出血、耳鳴等があると溢血の前徴として予防法を行ふが、右の症状は医学のいふ通りであるが、其(その)予防法は滑稽(こっけい)である。それは身体を弱らせやうとし、減食、運動制限等を行はせるが、之は弱らして浄化を発(おこ)さないやうにする手段である。又再発を予防する手段も同様であるが、之等も発病を少し延ばすだけで、何(いず)れは必ず発病もするし再発も免(まぬが)れないのである。又近来瀉血(しゃけつ)療法といって、発病直後にそれを行ふのを可としてゐるが、之も見当違ひで、最早(もはや)溢血の毒血はそれぞれの局所に固(かた)まってゐるのであるから、瀉血(しゃけつ)は何等関係ない処から出血させるので、其(その)為貧血して、大抵は数分後死ぬので、此(この)例は近頃よく聞くのである。
 今一つ注意したい事は、高血圧が脳溢血の原因とよく言はれるが、之も甚だしい錯誤で間接には多少の関係はあるが、直接には全然ないのである。その訳を実地に就(つい)てかいてみるが、以前私が扱った患者に、六十歳位で、当時講談社の筆耕書を三十年も続けてゐたといふ人があった。此(この)人の言うのは、自分は六年前血圧を計った処、何と三百あったので、医者も自分も驚いたが、血圧計の極点が三百であるから、実はもっとあるのかも知れないと思った位である。その為医師から充分安静にせよと言はれたが、自分は勤めをやめると飯が食へないし、自覚症状もないから、毎日此(この)通り休まず勤めてゐるが、別に変った事はない、といふので私も驚いたが、よく見ると左右特に右側が酷(ひど)く、腭(あご)の下に鶏卵大に盛上ってゐるゴリゴリがあったので、ハハァー之だなと思った。といふのは此(この)筋は腕へ繋がってゐるので、血圧計に表はれた訳であるが、本当の脳溢血の原因である固結は、最初にかいた如く、延髄部の毒血であるから右は見当違ひである。処が中風といっても、斯(こ)ういふ別な症状もあるから知っておくべきである。それは左右何(いず)れかの頸部(けいぶ)淋巴腺に固結がある場合、之が浄化によって溶解するや、頭脳の方とは反対に其(その)側の下方へ流下し、中風と同様の症状となるのであるが、之は脳には関係のない事と、割合軽症な為、医師も首を捻(ひね)るが、之も医療では治らないと共に、逆療法を行ふ結果、反(かえ)って悪化し、先(ま)づ癈人(はいじん)か死かは免(まぬが)れない事になる。此(この)症状を吾々の方では逆中風と言ってゐる。

 脳貧血其(その)他

 次に脳貧血をかいてみるが、之は脳溢血と反対であって、脳溢血は毒血が頭脳に入り、脳の血液が増へるに反し、之は脳の血液が減少の為発(おこ)る病気である。では何故減少するかといふと、人体は絶へず頭脳に向って、送血されてゐるので、之が一定量なら何事もないが、其(その)量が減ると頭脳機能の活動が鈍る。それが脳貧血である。
 右の如く量が減るといふ事は、頭脳へ送血する血管が、頸(くび)の周りにある毒結の圧迫によるからで、此(この)固結を溶解しなければ治らないのは勿論である。処が医学ではそれが不可能の為、一時的姑息手段をとるより致し方ないのである。斯様(かよう)な訳で脳貧血の症状は頭痛、頭重、圧迫感、眩暈(めまい)等で、嘔吐感を伴ふ場合もあり、本当に嘔吐する事もある。中には汽車、電車、自動車の音を聴いただけでも、眩暈(めまい)や嘔吐感を催す者もある。然(しか)し之は医学でもいふ如く、割に軽い病気で心配はないが、其(その)割に苦痛が酷(ひど)いものであるから、初めの内は相当神経を悩ますものである。
 此(この)病気を知るのは最も簡単である。発病するや目を瞑(つむ)り、額に油汗をかき、嘔吐感を催す等で、其(その)際掌(てのひら)を額に当てて見ると、普通より冷いのでよく判るのである。そうして浄霊の場合、首の周囲を探ってみると、必ず固結があるから、そこを溶かせば間もなく快復する。又発病するや枕無しで仰臥(ぎょうが)すると、頭へ血が流れるから多少の効果はある。今日最も多いとされてゐる神経衰弱も、脳貧血が原因である事は言ふ迄もない。

  睡眠不足
 睡眠不足とよく言はれるが、之は結果であって、睡眠困難といふのが本当であらう。然(しか)し之も病気とは言へないが、病気の原因になる事が大いにあるから、仲々馬鹿にはならないものである。此(この)原因は全く一種の脳貧血であって、延髄部に固結が出来、それが血管を圧迫し、脳貧血を起させ、睡眠不能となるのであるが、此(この)固結は右側の方が多く、左側は少ないもので、之を溶かす事によって百発百中必ず治るのである。
 処が此(この)原因である脳貧血は、前頭部に限るので、何故それが睡眠困難の原因になるかといふと、其(その)部に霊が馮依(ひょうい)する為であって、之に就(つい)ては最後の霊の項目に譲る事とする。然(しか)し此(この)病気の恐ろしい事は、往々精神病の原因になるので、急速に治す必要がある。医学では勿論原因すら不明であるが、何よりも精神病の初めは、必ず睡眠不足が長く続くのである。従って睡眠が普通になると、治り始めるにみても分るのである。

  耳鳴
 之も多い症状であるが、医学ではどうする事も出来ない。併(しか)し別段命に関はる程の病気ではないから、大抵放って置くが割合辛いものである。此(この)原因もやはり延髄部の固結で、之が不断の微弱な浄化によって、溶ける其(その)音が耳に響くのであるから、之も其(その)部の固結を溶解すれば液体となって、毒素は嚏(くしゃみ)によるか又は自然に鼻汁となって出て快(よ)くなるのである。稀(まれ)には耳下腺附近に固結が出来、其(その)浄化の為もある。

  其(その)他のもの
 之は少ない病気だが、心臓が元で脳に影響する症状がある。それは心臓弁膜症などある人が、一寸(ちょっと)した事で動悸と共に眩暈(めまい)が発(おこ)るので、之は何が為かといふと、心臓の周囲即ち胸部、横腹、肩胛骨下部等に固結のある場合、それに浄化微熱が発(おこ)るので、心臓が昂奮(こうふん)し、頭脳に反射するからである。
 次は歯に関する病気であるが、之は歯に付ける薬毒が滲透(しんとう)して、頭に上る場合、中耳炎の際の薬毒、扁桃腺や淋巴腺手術による消毒薬、眼病の際の点眼、注射、手術の消毒薬等が、頭脳迄も犯すので、右何(いず)れも慢性的頭脳の病原となるのであるが、其(その)他に斯(こ)ういふ事もある。それは背部や胸部等に出来た腫物を手術した為、其(その)時の消毒薬が頭脳に迄滲透(しんとう)し固(かた)まるので、その手術が局部の前部、背部の関係で、前頭部又は後頭部の悩みとなるのである。要するに上半身に於ける手術の際の消毒薬が、頭脳の病原になる事が分ればいいのである。

  扁桃腺炎
 世間よく扁桃腺炎を根治する目的で、扁桃腺を除去する事が、常識のやうになってゐるが、最近の学説によれば、扁桃腺は貴重なもので、除去しない方が可(よ)いとされて来たといふ事である。全く除去した結果は他に悪影響を及ぼす事が分ったからで、実に喜ばしい限りで、私が長年唱へて来た説が、漸(ようや)く認められるやうになったもので、満足に堪へないのである。
 そこで扁桃腺といふ機能の意味から扁桃腺炎の原因に就(つ)いてかいてみるが、人間は誰しも上半身の毒素は、頸部(けいぶ)淋巴腺に最も集中し易いので、そこに毒素の溜結が出来るので、大なり小なり此(この)溜結のない人は殆(ほと)んどないといってよかろう。すると此(この)溜結毒素は出口を求めやうとし、少しづつ溶解し、一旦固(かた)まる処が扁桃腺であるから、或(ある)程度固(かた)まるや、高熱が出て溶解し、自然に穴が穿(あ)いて、毒素は排除されるのであるから、扁桃腺なるものは実に上半身毒素の掃け口とも云(い)っていいもので、若(も)し扁桃腺がなくなったとしたら、毒素は止むなく他の部に溜結する事となる。之が脳神経衰弱や中耳炎、歯痛、鼻の病気等の原因となるのであるから、結局小の虫を殺して、大の虫を助けるといふ結果になる。何よりも扁桃腺除去後数年間は風邪など引かないので効果あったやうに思はれるが、何ぞ知らん年月が経つに従って色々な病気が発(おこ)るのである。処が、其(その)原因が分らない為、仕方なしいい加減な病原を付けるのである。

 口中の病など

 茲(ここ)で口中の病に関してかいてみると、先(ま)づ歯であるが、歯の強弱の原因は、全く全身の健康と正比例してゐるものであって、近代人の歯の弱いといふ事は、健康が弱ってゐるからである。勿論其(その)原因は体内に溜ってゐる薬毒の為ではあるが、其(その)他として入歯の際の消毒や、虫歯を治す為の薬毒の害も軽視出来ないものがある。それは虫歯の穴へセメンなど詰めて貰ふ場合、消毒が肝腎といって、消毒薬を使ふが、之が恐るべき逆効果となるのである。といふのは消毒薬は時日が経つと、必ず腐敗して黴(ばい)菌が湧く、それに自然浄化が発(おこ)って外部へ排泄されやうとするので、軽いのは歯茎から出ようとするだけで大した事はないが、大抵は重いから非常に痛む。之は歯根の骨に小さい穴が穿(あ)く痛みであって、穴が穿(あ)いて膿が出始めれば、ずっと楽になる事は誰しも覚へがあらう。従って私などは歯医者でセメンを詰めて貰ふ場合、必ず薬を使はせないやうにする。そうするといつ迄経っても痛む事など決してない。よくセメンなど詰めた歯が痛んだ時、それを除(と)って貰ふとスーッと快(よ)くなるのに見て明かである。此(この)場合歯医者は消毒不完全の為と思ふが、之も医学迷信に陥ってゐるからである。
 従って歯磨なども薬剤の入らないもの程可(よ)い訳で、私などは近頃歯磨も塩も何にも使はず、只(ただ)指の腹でコスルだけである。だから歯を丈夫にしたいと思うなら、全身を健康にする事で、それには薬剤と縁を切ればいいのである。然(しか)しそうはいっても、現在歯の弱い人、虫歯のある人、老齢者などは急の間に合はないから、そういふ人は精々入歯をして美しくすべきである。
 次に口内粘膜にブツブツが出来て、ものが泌みたり、喉が痛んだり、舌におできが出来たりする人があるが、之は悉(みな)服(の)み薬、又は含嗽(うがい)薬が粘膜へ滲透(しんとう)し、古くなって毒素となり、排除されやうとする為であるから、放って置けば必ず治るのである。舌癌なども殆(ほと)んどそれであって何にもせず放ってをけば、十中八、九は治るものである。処が医師は癌らしいものであっても、職業柄治る治らないは別として、薬を用ひるより外(ほか)に方法がないとして、先(ま)づ薬物療法を行ふが、之によって反(かえ)って悪化させ、本当の癌になる事が多いのである。従って此(この)事を是非知らしたいと思って茲(ここ)にかいたのである。処が稀(まれ)ではあるが、何としても治らないのがある。即ち之が真症舌癌である。併(しか)し、之は霊的であって、原因は其(その)人が悪質な嘘を吐いたり、舌の先で人を傷つけたりする罪の報ひであるから、そこに気がつき悔(くい)改め、正しい宗教に入らなくては絶対治らないのである。
 茲(ここ)で、凡(およ)そ馬鹿々々しいのは、咳を緩和させようとして、吸入を行ふ事で、之は何の効果もないのである。考えてもみるがいい、咳は息道から出るものであるから、吸入薬の殆(ほと)んどは食道の方へいって了(しま)ふから見当違ひである。然(しか)し最初に述べた如く、咳は痰を出すポンプ作用であるから、出る程可(よ)いので、止めるのは如何(いか)に間違ってゐるかが判るであらう。そうして今一つの馬鹿々々しい事は含嗽(うがい)薬で、之も口内を消毒する目的だが実は逆である。元来人間の唾液程殺菌作用のあるものはない。何よりも黴(ばい)菌よりもズット大きな或(ある)種の虫は、唾液をかければ弱ったり死んだりするのでも分るであらう。だから実をいふと含嗽(うがい)をしてゐる間だけは、口内の殺菌力は薄弱である訳である。此(この)事は眼も同様で、よく目を洗ふ人があるが実に滑稽(こっけい)であって、目には涙といふ素晴しい消毒液があり、瞼の裏の粘膜は柔かく理想的のものであってみれば、硼酸水(ほうさんすい)や布巾(ふきん)などで洗ふなどは最も間違ってゐる。
 茲(ここ)で誰も気がつかないものに、顔面皮膚の悩みがある。之は顔が逆上(のぼ)せたり、軽い痛みや、痒(かゆ)み、引張られるやうな感じがする婦人がよくあるが、之は薬剤入の化粧品を無暗(むやみ)に使ふからで、其(その)薬剤が不知(しらず)不識(しらず)の内に滲透(しんとう)して毒素化し、顔面の毛細管から滲出(しんしゅつ)しやうとする為で、大いに注意すべきである。

下半身の病気と痔疾

 上半身の病気をかいたから、之から下半身の病気に移るが、先(ま)づ一番多い病気としては痔疾であらう。此(この)病の原因は甚だ簡単である。つまり全身各局部に溜結してゐる毒素が少し宛(ずつ)溶解して、最も都合のいい肛門から出ようとするので、言はば肛門は糞尿以外の汚物の排除口も兼ねてゐるといふ訳で、神は巧(うま)く作られたものである。
 そうして痔疾の中で最も多いものは脱肛といって贅肉のやうなものがはみ出る症状であるが、之も最初の内は訳なく押込ませられるが、時日の経つに従って段々大きくなり、押込め難(にく)くなる。そうなると非常に気持が悪いので、色々な手段を尽しても治らないので、煩悶(はんもん)懊悩(おうのう)してゐる人が、世の中には割合多いやうである。特に婦人が出産の折などイキミの為、脱肛になる人も実に多いが、之などは場所が場所だけに人には言へず秘してゐるので、猶更(なおさら)辛いであらう。元来痔疾の原因であるが此(この)病気は先天性薬毒及び尿毒と、後天性薬毒との二種又は三種の混合毒素が下降して、肛門の周囲に一旦集結する。之が脱肛の原因であって、脱肛にも痛むのと痛まないのとがあるが、痛むのは後天性薬毒がある為である。此(この)病気は日本人に特に多いとされてゐるが、之は全く便所の構造が悪いからであらう。今一つは便所で読書をする人がよくあるが、之が悪い。読みかけるとつい時間が長くなるからで、痔のある人は此(この)点自省すべきである。私も若い頃随分痔で苦しんだものだが、此(この)点に気が付き、必ず五分間以内と決め、仮(たと)へ中途であっても便所から出るやうにした処、それから自然に快方に向ったのである。
 次は痔核といって、肛門の淵に疣(いぼ)が出来るものがあるが、之にも内痔核と外痔核とあり、前者は太ってゐる為、後者は痩せてゐる為である。之も放任しておけば、毒が溜るだけ溜って、段々大きくなり、遂に破裂して排毒され治って了(しま)ふのである。又痔出血もよくあるが、之は毒血が肛門から出やうとし、一部に亀裂が生じ、常に排血するので、気持が悪く心配するものだが、本当は結構なのである。何となれば浄化の為の毒血排泄であるから、健康上非常にいいのである。何よりも出血後頭脳の悪い人や、首、肩の凝(こ)る人などは、必ず軽快になるものである。従って脳溢血予防にも大いに役立つのである。
 次に痔の病の中(うち)一番問題なのは痔瘻(じろう)であらう。之は強烈な薬毒が、最初肛門の一部に固結するが、非常に痛むので、医師に診て貰ふと、必ず切開手術を行ふので一時快(よ)くなるが、例外なく其(その)お隣りが又腫(は)れる。復(また)切る、復(また)腫(は)れるといふ訳で、遂に蜂の巣のやうになって了(しま)ひ、耐へきれない程の痛みとなる。之は手術の度に新しい薬が滲透(しんとう)するからで、つまり痛みの原料を増やすのだから堪らない。従って最初から何にもせず放っておけば、自然に排膿して、必ず治るものである。又痔瘻(じろう)を治すと肺病になり易いとよく云(い)はれるが、之は手術が奏効して、排膿が止まると毒素の出所がなくなるので、肺を目掛けて出ようとするからである。
 又駆梅療法の一種で昔から推奨されてゐるものに、水銀を臀部へ注射する方法があるが、之は数十年経ってから痔瘻(じろう)と同様の症状を呈する事がある。非常に固い隋円形の尖起状のものが出来、耐へられない程の激痛がある。之も放っておけば二、三週間で全治するが、手術をすると慢性痔瘻(じろう)になり易いのである。今一つ始末の悪いのは、肛門搔痒(そうよう)症であるが、原因は勿論天然痘毒素及び薬毒であるが、之は放っておくも数十年かかる位で、浄霊でも数年は掛かるのである。

 婦人病

 一口に婦人病といっても、種類の多いのは衆知の如くであるが、何といっても子宮病が主であらう。子宮の役目としては、月経と姙娠の二つであるが、月経に就(つい)ての病気といえば、先(ま)づ月経痛と月経不順であるが、前者は月経時、一日乃至(ないし)数日に渉(わた)って、多少の痛みがある。之は何が原因かといふと、経血が喇叭(らっぱ)管を通ろうとする際、喇叭(らっぱ)管の入口が狭いので、拡がらうとする其(その)痛みである。何故喇叭(らっぱ)管口が狭いかといふと、下腹部の其(その)辺に毒結があり、圧迫してゐるからで、之を溶解排除させれば容易に治るのである。勿論医学ではどうにもならないので、長年苦しんでゐる女性もよくあり、実に可哀想といふの外(ほか)はない。
 又月経不順と一口に言うが、之には遅れ勝ちと不規則なのと、経血の多い少ないとがあるが、此(この)原因の殆(ほと)んどは貧血及び濁血の為であって、真の健康にさえなれば必ず順調になるのである。茲(ここ)で是非知っておかねばならない事は、結核患者の月経異常である。之は月経が普通にある間は、病気は軽い証拠で、決して心配はないが、病気が進むに従ひ貧血し漸次(ぜんじ)量が減って遅れ勝ちとなり、末期に至ると例外なく無月経となるのであるから、婦人患者の結核の軽重を知るには、月経によるのが最も正確である。序(ついで)に今一つの関連した事であるが、病気が重くなり、月経が減る頃は陰毛迄も脱け、最後には無毛となる者さへある。
 次は姙娠であるが、之は婦人にとっては病気ではなく、寧(むし)ろ健康な証拠であるが、近頃は姙娠するや婦人の多くは、喜ぶよりも反(かえ)って恐れたり心配したりするが、之も一面無理はない、何故なれば姙娠中色々な故障や病気が起り易いからで、大抵の人は悪阻(つわり)の苦しみは勿論、結核、バセドー氏病等のある人は、医師は危険であるとして、人工流産させたり、又人によっては出産となるや、難産の場合さへあるので、本当に安心の出来る人など先(ま)づないといってもよからう。之に就(つい)て考へなければならない事は、右のやうな種々の障害は実は変則であって、恐らく昔の婦人はそういふ事は余りなかったやうで、記録等にも見当らないのである。としたら医学の進歩とは逆効果で、理屈に合はない話だが、之が即ち医学の盲点である。逆効果とは全く薬剤の為であって薬剤多用者程成績が悪いのである。而(しか)も自分ばかりではなく、早産、死産の外(ほか)、生れた赤ん坊に迄影響するので、近年多い弱体嬰児や発育不良がそれである。そうして本当から言えば婦人が姙娠し、子を産むといふ事は、婦人に与へられた立派な役目であるから順調に経過し、無事に出産するのが当然であり、故障など発(おこ)る筈(はず)がないのに、起るといふのはそこに何等か間違った点があるからで、其(その)間違った点に気が付き改めればいいので、今それ等に就(つい)て詳しくかいてみよう。
 姙娠の場合、最も悩みとされてゐるのは悪阻(つわり)であらう。此(この)症状は今更説明の要のない程誰も知ってゐるが、重いのになると生命迄も危くなるので、仲々馬鹿にならないものである。此(この)原因も医学では判ってゐないが、之は至極簡単な理由である。即ち子宮が膨張する場合邪魔してゐるものがある。それは臍部(さいぶ)から胃にかけての毒素の溜結で、それが膨張の為、其(その)排除作用が発(おこ)る。之が悪阻(つわり)であって、何よりも頻繁(ひんぱん)な嘔吐によってそれが排除されるのである。此(この)毒素は然毒(ねんどく)と薬毒とであって、出るだけ出て了(しま)えば完全に治るが、医学では原因も判らず、判っても出す方法がないから、気休め程度の手段か、堕胎させる以外方法はないのである。
 其(その)他よくあるものに姙娠腎がある。勿論症状は浮腫(むくみ)であるが、之は医学でもいふ通り、腎臓障害即ち腎臓萎縮である。此(この)原因も曩(さき)にかいた如く、平常から腎臓背部に毒結があり其(その)圧迫がある処へ、姙娠の為前方からも圧迫されるので、腎臓は言はば挾(はさ)み打ちとなって萎縮し、全部の尿が処理されず、溢れて浮腫(むくみ)となるのであるから、背部の毒結を浄霊溶解すれば、腎臓の負担が軽くなり、治るのは当然である。処が医学ではどうする事も出来ないので、重症の場合親の生命には代へられぬとして人工流産させるが、折角(せっかく)出来た大切な赤子を犠牲にするのだから、実に気の毒な話である。而(しか)も此(この)時は大抵八、九ヶ月頃であるから、猶更(なおさら)親は悲歎(ひたん)に暮れるのである。
 茲(ここ)で姙娠に就(つい)ての医学の考へ方に就(つい)てかいてみるが、前述の如く結核やバセドー氏病等の病気ある婦人に対し、危険として流産させるのは大いに間違ってゐる。何となれば姙娠するといふ事は、其(その)人の健康状態が無事に出産出来るだけの体力があるからで、言はば母になる資格が具(そなわ)ってゐる訳である。そうでなければ、決して姙娠する筈(はず)はない。之等も医学の考へ方が唯物一方に偏してゐるからで、人間本来の神性を無視し、動物と同一視する誤りである。之は理屈ではない。私は今迄右の理由によって、姙娠した婦人に、どんな持病があっても差支(さしつか)へないと、只(ただ)浄霊だけで悉(ことごと)く無事に出産させ、一人の過ちさへなかったのである。此(この)事だけでも、医学の考へ方を、大いに変へなければならないと思ふのである。
 次に婦人病の個々に就(つい)てかいてみるが、何といっても子宮の病が王座を占めてゐる。先(ま)づ子宮内膜炎であるが、之は子宮の内壁に加答児(カタル)が出来る。つまり毒素が下降して、子宮内壁から排除されやうとする湿疹のやうなものであり、今一つは下降毒素が内壁の粘膜を刺戟(しげき)し、加答児(カタル)を発(おこ)させるので、どちらも気長に放っておけば必ず治るのである。処が滑稽(こっけい)なのは、此(この)際よく搔爬(そうは)をするが、之は何にもならない。といふのはホンの一時的の効果で、毒素のある間は後から後から汚すからである。之に就(つい)て私はいつもいふ事は、子宮搔爬(そうは)は歯糞を除(と)るやうなもので、物を食へば直(じ)きに汚れると同様で、それも歯を磨く位の簡単な事ならいいが、婦人として最も羞恥の場所を指で触れさせるのであるから、断然廃(や)めた方がいいと思ふ。又子宮実質炎といふのは、子宮の周囲に毒素溜結し、それに浄化が起って、微熱、軽痛、不快感等で、これも放っておいても治るが、浄霊すれば、短期間で全治するのである。
 よく不姙娠の場合、子宮後屈とか前屈とかいって手術を勧めるが、成程之は子宮の位置が不良となり、子宮口が外(はず)れるので、姙娠不能となるのは、医学でいふ通りである。では前後屈の原因は何かといふと、毒素溜結が子宮の前か後からか圧迫する為で、医学は手術によって其(その)毒素を除(と)り、一時は正常な位置に復すが、日を経るに従ひ再び毒素が溜結、元通りになるので、一時的効果としたら、大袈裟(おおげさ)な手術迄するのは、ツマラヌ話である。今一つ考へて貰ひたい事は、よく医学の診断で、後屈の為姙娠不能と云(い)はれた者が、手術もせず其侭(そのまま)にしておいて、姙娠した例もよく聞くのである。以前私は大学病院でそういはれた婦人が、其(その)後三人の子を生んだといふ事を本人から聞いたのであるが、之なども医学の研究がまだ不充分であるからで、多くの人に迷惑をかける以上、充分確信を得る迄は、言はない方が良心的だと思うのである。
 次は子宮癌であるが、真症は滅多にないもので、普通医師から子宮癌の診断を受けた者でも、殆(ほと)んど癌ではなく、子宮外部に溜った濁血の塊りである。そうして医学では更年期以後出血がある場合は、先(ま)づ癌の疑ひを起せと言はれるそうだが、私の経験上此(この)説は誤りである。何故なればその年頃癌と診断された患者を、今迄幾人も浄霊したが、間もなく大量の出血があり、癌とされてゐた手に触(ふ)るる程の塊りも消散して了(しま)ふからである。之によってみても子宮癌と診断された患者は、殆(ほと)んど経血の古い塊りと思へば、先(ま)づ間違ひはあるまい。之等も医学が今一層進歩したら必ず分る時が来るに違ひない。
 次に子宮筋腫であるが、之は其(その)名の如く子宮を牽引してゐる両側の筋が、腫(は)れるといふよりも、其(その)一部に固結が出来るので、其(その)浄化による苦痛であって、医療は手術によって除去するが、幸ひそれで治る場合もあるにはあるが、多くは其(その)附近に再発し勝(がち)である。此(この)病気も浄霊によれば根治されるが、相当日数を要するものである。
 次に卵巣の病気であるが、之は殆(ほと)んど卵巣膿腫と卵巣水腫とであって、症状もよく似てゐる。只(ただ)固い柔かいがあり、人により軽重の差も甚だしい。従って悪性か又は医療の結果によっては頗(すこぶ)る膨大となり、臨月よりも大きくなる場合がある。医療では手術によって割合容易に除去され得るが、之で卵巣だけの病気は治るが、他に影響を及ぼすから厄介である。最も始末の悪いのは性格が一変する事で、一つなら左程でもないが、二つとも除去されると、殆(ほと)んど男性化して了(しま)ふと共に、一生涯不姙となるのは言ふ迄もない。此外(このほか)目に障害を起す事もあり、盲目同様になる者さへある。又何となく身体全体が弱り、人生観迄変って、陰欝(いんうつ)になったり自棄的となったりする、現在医学では手術より方法がないから止むを得ないが、之も浄霊によれば完全に治るのである。原因は薬毒と萎縮腎による余剰尿が溜るので前者は膿腫となり、後者は水腫となるので、何(いず)れも腎臓の活動を促進させれば治るのである。
 茲(ここ)で婦人病に就(つい)て、根本原因をかいてみるが、元々婦人病の一切は、体内に保有してゐる毒素が、漸次(ぜんじ)下降する為であって、下腹部に溜れば子宮、卵巣、喇叭(らっぱ)管、膀胱等の障害となり、尚(なお)下降すれば痔疾、並に一般陰部の病原となるので、之等は後にかく不感症の原因中に詳説するから、茲(ここ)では婦人によくある白帯下(こしけ)に就(つい)てのみかいてみるが、元来婦人の白帯下(こしけ)は非常に多いもので、随分悩んでゐる人もあるが、実は之は非常に可(よ)いのである。といふのは諸々の毒素が液体となって排泄されるからで、出るだけ出れば下腹部全体は、非常に快(よ)くなるものである。それを知らない医師も一般人も心配して停めようとするが、之が最も悪く、反(かえ)って病気を保存させるやうなものであるから、注意すべきである。
 次に近来大分喧(やかま)しく云(い)はれてゐるものに彼(か)の不感症があるが、之は医学でも全然判ってゐないし、婦人にとっては之程将来の運命に関はる重要なものはないから、成可(なるべく)詳しくかいてみよう。人も知る通り折角(せっかく)結婚しても、何より肝腎な夫からの愛情を受入れ難(にく)いので、どうしても夫婦円満にゆかず破綻を生じ易いのである。そうでなければ夫は外に愛人を作ったり、又不姙になったりするので、結局不幸な運命になる婦人が案外多いやうである。としたら何としても全治させなければならないが、困った事には之を人に相談する訳にもゆかずといって医療では全然治せないから、満足な家庭も作り得ず、独身者より外(ほか)道はない事になり、独り悶々の日を送ってゐる女性も少なくないやうで、実に同情に堪へないのである。処が浄霊によれば必ず治るのであるから、女性にとって之程大きな福音(ふくいん)はあるまい。では先(ま)づ其(その)原因其(その)他に就(つい)てかいてみるが、一番の原因は言う迄もなく萎縮腎であって、腎臓は医学でもいふ如く、ホルモンの製造元であるから、腎臓が萎縮すれば活動が鈍り、ホルモンが不足となる。それは曩(さき)にかいた如く、腎臓背部にある固結の為であるから、それを溶かせば治るのである。又今一つの原因は、陰部を中心に周囲全体に絶えず下降する毒素が溜る事である。其(その)為下腹部に溜れば、前述の如く子宮はじめ、種々の障害となり、尚(なお)下降すれば痔疾、膣痙攣(ちつけいれん)、搔痒(そうよう)症、粘膜の加答児(カタル)、尿道障害、全面的湿疹や糜爛(びらん)、痛み、臭気、不快感等に苦しむのである。特に摂護腺(せつごせん)部に腫(は)れや固結が出来たり、左右何(いず)れかの大小陰唇部に毒結が出来、それが鼠蹊(そけい)部に迄及んで、足の運動を妨げられたりする。特に摂護腺(せつごせん)部の故障は大いに悪いが、之等すべての診断は、自分自身で押してみればよく判る。必ず痛み又は塊りがある。といっても場所が場所だけに、浄霊も自分か又は夫に行(や)って貰えば、それで結構治ってゆくのである。但し相当長引くから、そのつもりで気長に根気よくやれば段々快(よ)くなってゆき、希望も湧くと共に、必ず全治するものである。以上の如くであるから、此(この)事を知ったなら、如何(いか)に天下の女性は喜ぶであらうか、之程素晴しい救いはないであらう。

 小児病

 単に小児病といっても、其(その)種類の多い事はよく知られてゐるが、小児病は突如として発病するものが多く、而(しか)も物心のない赤ん坊の如きは只(ただ)泣くばかりで、何が何だかサッパリ判らないので、母親として只(ただ)困るばかりである。先(ま)づそれからかいてみるが、生れたての嬰児に多いのは、消化不良といふ青便や泡便が出る病だが、之は消化不良といふより、母親の毒素が乳に混って出るので、つまり親の毒が子を通して浄化される訳だから、実に結構なのである。従而(したがって)、放っておけば出るだけ出て必ず治るものであるが、それを知らない医療は乳児脚気(かっけ)などと称し薬毒を使ふから、反(かえ)って弱ったり、発育不良となったりする。之が将来虚弱児童や腺病質の因(もと)となり、年頃になると結核になり易いので、近来結核の増へるのも、右のやうな誤りが大いに原因してゐるのである。
 又生後間もなく、種痘をしたり、何々の予防注射とか、栄養の為とかいって注射をするが、之が又頗(すこぶ)る悪い。何しろまだ体力が出来てゐないから、注射などは無理である。此(この)為多くは発育不良の原因となり、よく誕生すぎても首がグラグラしたり、歩行が遅れたり、智能も低かったりするのはみな之が為で、医家に対し此(この)点一層の研究を望むのである。又斯(こ)ういふのも偶にはある。それは生後一、二ケ月経った頃吐血する幼児で、医診は胃潰瘍などといふが、之は滑稽(こっけい)である。何となれば胃潰瘍は消化薬連続服用の結果であり、此方(こちら)の原因は出産前後、母親の古血を呑んだのを吐くのであるから、其(その)後食欲も増す事である。
 それから少し大きくなってから、発(おこ)り易いものとしては百日咳、ヂフテリヤ、脳膜炎、痳疹、日本脳炎、猩紅熱(しょうこうねつ)、疫痢(えきり)、小児痳痺等であらう。それに就(つい)て之からかいてみるが、先(ま)づ百日咳であるが、此(この)原因はヤハリ出産前母の悪露(おろ)を呑んだ為で、それが一旦吸収され保有してゐたものが、時を経て浄化によって出るので、何よりも此(この)病に限って、猛烈な咳と共に、必ず泡を吐くのである。そうして百日咳の特徴は、咳する場合必ず息を引く音がするからよく分る。つまり右の泡を出し切る迄に百日位かかるから、その名がある訳だが、浄霊によれば発病後間がなければ三週間位かかり、最盛期なら一週間位で全治するのである。急所は胸が第一、背中が第二、胃部が第三と見ればいい、即ち其(その)辺に泡が固(かた)まってゐるのである。此(この)病はよく肺炎を起し易いが之は咳を止めようとするからで、溶けた泡が一旦肺に入り、咳によって出るのが順序であるのに、其(その)咳を止めるから泡が出ず肺の中へ溜り固(かた)まるので、溶かす為の高熱が出る。それが肺炎であるから、言はば百日咳だけで済むものを、誤った方法が肺炎といふ病を追加する訳である。
 次にヂフテリヤであるが、之は喉に加答児(カタル)が出来、その部が腫(は)れて呼吸困難になり、遂に窒息するといふ恐ろしい病気である。医学は臨床注射や予防注射をするが、之は一時的浄化停止で、相当効果はあるにはあるが、此(この)注射薬は猛毒とみえて、悪性の病気が起り易く、而(しか)も非常に治り悪いので、生命に及ぼす場合さへよくある。処が吾々の方では此(この)病気は特に治り易く、浄霊するや早いのは十分、遅いのでも三、四十分位で全治するので、実に奇蹟的である。而(しか)も薬毒などの副作用がないから安心である。ヂフテリヤの原因に就(つい)ては霊的が多いから後に譲る事とする。
 次は脳膜炎であるが、此(この)症状は発病するや前頭部に火のやうな高熱が出ると共に、割れるやうな激痛で、眩(まぶ)しいのと眩暈(めまい)で、患者は目を開けられないので、之だけで脳膜炎とすぐ判るのである。此(この)原因は毒の多い子供が、物心がつくに従って、頭脳を使ふから、頭脳に毒素が集注する。それが前頭部であって、学校へ行くやうになると猶更(なおさら)そうなるから、事実、其(その)頃起り易いのである。処が茲(ここ)に見逃し得ない問題がある。といふのは熱を下げやうとして極力氷冷するから、折角(せっかく)溶けかかった毒素を固(かた)めて了(しま)ふので、頭の機能の活動は阻止され、治っても白痴や片輪になるので、特に恐れられるのである。処が浄霊によれば毒素が溶けて、目や鼻から血膿になって沢山出て了(しま)ふから、頭の中の掃除が出来、反(かえ)って頭脳はよくなり、例外なく子供の学校成績も優良となるのである。従ってそこに気が付きせめて氷冷だけでも廃(や)めたら、如何(いか)に助かるであらうかといつも思ふのである。
 痳疹は衆知の如く、生れてから罹(かか)らない人は一人もあるまい程一般的の病気であるが、此(この)原因は親から受継いだ毒血の排除であるから、実に有難いもので、寧(むし)ろ病気とは言へない位である。それを知らないから、無暗(むやみ)に恐れ当局なども予防に懸命であるが、全く馬鹿々々しい努力である。故(ゆえ)に痳疹は何等の手当もせず、放って置けば順調に治るものである。それを余計な事をして、反(かえ)って治らなくしたり、生命迄危くするのである。只(ただ)此(この)病気に限って慎むべきは、発病時外出などして、風に当てない事である。といふのは痳疹の毒が皮膚から出ようとするのを止めるからで、昔から言はれてゐる風に当てるな、蒲団被って寝てをれとは至言である。といふのは発疹を妨げられ毒が残るからで、再発や他の病原となるので注意すべきである。
 そうして痳疹は人も知る如く肺炎が最も発(おこ)り易いが、之は氷冷など間違った手当をする為で発疹は外部に出ず、内部を冒す事となり、肺胞全体に発疹する為で、肺の量が減るから、頻繁(ひんぱん)な呼吸となるが、其(その)割に痰が少ないのはそういふ訳である。此(この)肺炎も何等心配せず、放っておけば二、三日で必ず治るものである。又痳疹が治っても、よく中耳炎や目が悪くなる事があるが之は毒の出損った分が、耳や眼から出ようとして、一旦其(その)部へ固(かた)まり、高熱で溶けるのだから、放っておけば日数はかかっても必ず治るものである。
 次は日本脳炎であるが、此(この)原因も簡単である。子供が夏日炎天下に晒(さら)されるので、頭脳は日光の刺戟(しげき)を受けて、背中一面にある毒素が、後頭部目掛けて集中する。其(その)過程として一旦延髄部に集結し、高熱で溶け液体毒素となり、後頭部内に侵入する。その為眠くなるのであって、其(その)他の症状も多少はあるが、右の液毒は脳膜炎と同様、目と鼻から血膿となって出て治るのである。何よりも発病するや、忽(たちま)ち延髄部に棒の如き塊りが出来る。之はいくら溶かしても、後から後から集注してくるから、浄霊の場合根気よく二、三十分置き位に、何回でも浄霊するのである。すると峠をすぎるや、目や鼻から血膿が出始める。それが治る第一歩で、驚く程多量な血膿が出て治って了(しま)ふ、先(ま)づ数日間と見たらよからう。之でみても此(この)病気は何等心配は要らないのである。処が医学は原因も判らず、毒を出す方法もないから、無暗(むやみ)に伝染を恐れる。之も脳膜炎と同様、氷冷が最も悪く、其(その)為長引いたり、命に関はったり、治っても不具になるのである。近来医学では蚊の媒介としてゐるが、之は怪しいものである。然(しか)し吾々の方では簡単に治るのだから、そんな事はどちらでもいい訳である。
 猩紅熱(しょうこうねつ)もヤハリ簡単な病気で、原因は先天性保有毒血が、皮膚から出ようとするもので、一時患部の皮膚は真ッ赤になって、細かい発疹が出る。重いのは全身に迄及ぶが、大抵は局部的か半身位である。之も放っておけば治るが、医療は氷冷や色々の手当をするので、長引いたり危険になったりするのである。此(この)病気は治りかけた時、毛細管から滲出(しんしゅつ)する毒が、乾いて細かい瘡蓋(かさぶた)になり、之が伝染の危険多しとして非常に恐れるが、浄霊によれば二、三日乃至(ないし)一週間位で全治するのだから問題ではない。
 疫痢(えきり)は割合多い病気で、且(かつ)死亡率も高いから、最も恐れられてゐるが、此(この)症状は最初から頻繁(ひんぱん)な欠伸(あくび)が特色で、全然食欲もなく、グッタリして元気がなく、眠りたがる等で、それらの症状があれば疫痢(えきり)と見ていい。此(この)原因は上半身にある殆(ほと)んどの毒素が、浄化によって胃へ集まり、それが脳に反映し、脳症が起り易いので、医師は恐れるのである。然(しか)し浄霊によれば実に簡単に治り、一日か二日かで全治する。
 小児痳痺も、近頃は仲々増えたやうで、当局が最近法定伝染病の中へ入れた位である。然(しか)し此(この)病気は日本よりアメリカの方が多いやうで、之も人の知る処である。此(この)病原は霊的と体的とあるが、霊的の方は滅多になく、世間一般小児痳痺といふのは体的の方で、言はば擬似であり、必ず治るものである。症状は足が満足に歩けないとか、片手が利かないとか、腰が動かない等であるが、就中(なかんずく)足の悪いのが一番多いやうである。此(この)原因は遺伝薬毒と、生後入れた薬毒の為で、どちらにしろ其(その)毒が、足の一部に凝結するので、足を突いたり、動かしたりすると痛むのである。特に足の裏が多いが、此(この)診断は訳はない。足や手全体を順々に押してみれば、必ず痛い所があるから、其処(そこ)を浄霊すればズンズン治ってゆく。処が医療では一粍(ミリ)の毒も除(と)る事が出来ないから、苦し紛れに色々な手当をするが、先(ま)づ気休め程度で、本当に治るものは一人もないといふ訳で、世界的恐るべきものとされてゐるのである。
 そうして霊的の方は真症で、仲々深い意味があるから、之は後の霊的事項中に詳記する。以上の如く小児に関した病気は大体かいたつもりであるが、追加として二、三の心得おくべき点をかいてみよう。
 先(ま)づ子が生れるや、淋毒を予防する為として、眼に水銀注射をしたり、昔からよくマクニンなどを服(の)ますが、之も異物であるから止した方がよい。乳も成可(なるべく)親の乳を呑ませるやうにし、母親の乳だけで不足する場合は牛乳やミルクを呑ませてもよいが、親の乳が出ないといふ事は何処(どこ)かに故障があるからで、それは毒結が乳腺を圧迫してゐる場合と、胃の附近にある毒結が胃を圧迫し、胃が縮小してをり、其(その)為食事は親の分だけで子の分迄入らないといふ、此(この)二つであるから、どちらも浄霊で速(すみや)かに治るのである。 それからよく赤子の便が悪いと曩(さき)にかいた如く、母親が乳児脚気(かっけ)の為など言はれ、乳を止めさせるが、之は誤りで親の毒素が乳に混って出るのであるから、寧(むし)ろ結構である。次によく微熱が出ると、智慧熱とか歯の生へる為などといふが、そんな事はない。ヤハリ毒の為の浄化熱であるから差支(さしつか)へない。又乳は誕生頃迄でよく、誕生過ぎても平気で呑ませる母親もあるが、斯(こ)ういふ児童はどうも弱いから注意すべきである。又よく風邪を引いたり、扁桃腺などで熱が出るが、之も浄化であるから結構で、それだけ健康は増すのである。それから寝冷へを恐れるが、寝冷へなどといふ言葉は滑稽(こっけい)である。下痢などの場合、真の原因が分らないから作った言葉であらう。だから私の子供六人あるが、生れてから一人も腹巻はさせないが、十年以上になった今日、一人も何の障(さわ)りもない。又私も三十年来腹巻をしないが、今以(もっ)て何ともないのである。

 総論

 私は之迄病気に対し、詳細に直接的解説を与へて来たから、病気なるものの真原因と、既成医学が如何(いか)に誤ってゐるかが判ったであらうが、まだ知らなければならない点が種々あるから、之から凡(あら)ゆる角度から医学の実体を検討し、解剖してみようと思ふのである。

 手術

 近来、医学は大いに進歩したといひ、取り分け手術の進歩を誇称してゐるが、私から見れば之程の間違ひはあるまい。考へる迄もなく、手術が進歩したといふ事は、実は医学が進歩しないといふ事になる。といふと不思議に思ふであらうが、手術とは言う迄もなく、病に冒された機能を除去する手段であって、病其(その)ものを除去する手段ではない。判り易く言えば、病気と其(その)機能とは密接な関係はあるが本質は異ってゐる。従って真の医術とは病だけを除(と)って、機能は元の侭(まま)でなくてはならない筈(はず)である。処が医学が如何(いか)に進歩したといっても、病のみを除(と)り去る事が不可能であるから、止むを得ず二義的手段として、機能をも併せて除去して了(しま)ふのであるから、此(この)事を考へただけでも、手術の進歩とは、医学の無力を表白する以外の何物でもない事が分るであらう。斯(こ)んな分り切った理屈でさへ気がつかないとしたら、今日迄の医学者は驚くべき迷蒙に陥ってゐたのである。従って何としても大いに覚醒して、初めから行(や)り直すより外(ほか)あるまい。即ち医学の再出発である。処が今日迄其(その)意味を発見した者がなかったが為、盲目的に邪道を驀進(ばくしん)して来たのであるから、何年経っても人類は、病気の苦悩から解放されないにみて明かであらう。
 以上の意味に於て考へてみる時、手術の進歩とは、医術の進歩ではなく、技術の進歩でしかない事が分るであらう。そうして尚(なお)深く考へて貰ひたい事は、造物主即ち神が造られた万物中最高傑作品としての人間であるとしたら、仮(かり)にも神として人体を創造する場合、五臓六腑も、胃も、筋肉も、皮膚も、何も彼(か)も無駄なものは一つも造られてゐない筈(はず)である。之は常識で考へても分るであらう。処が驚くべし、二十世紀に入るや、人間の形はしてゐるが、神以上の生物が現はれた。其(その)生物は曰(いわ)く、人体内には種々な不要物がある。盲腸も、片方の腎臓も、卵巣も、扁桃腺もそうであるから、そんな物は切って除(と)って了(しま)ふ方がいい。そうすればそれに関した病気は無くなるから安心ではないか、と言って得々として、メスを振っては切り除(と)って了(しま)ふのである。何と素晴しい超人的、否(いな)超神的存在ではなからうか。処が不思議なる哉、此(この)大胆極まる暴力に対し、現代人は無批判処か、随喜(ずいき)の涙を雫(こぼ)してゐる。而(しか)も、人民は疎(おろ)か、各国の政府迄も有難がって、之こそ文化の偉大なる進歩であると心酔し、援助し奨励迄してゐるのであるから、其(その)無智蒙昧(もうまい)さは何と言っていいか言葉はないのである。としたら此(この)現実を見らるる流石の造物主も、呆れて啞然(あぜん)とされ給ふと察せらるるのである。そうして右の超神的生物こそ、誰あらう近代医学者といふ人間である。としたら全く彼等の人間を見る眼が強度の近視眼にかかってをり、近くの唯物科学だけが見へて、其(その)先にある黄金の宝物が見えないのであらう。
 然(しか)し私は、唯物科学を敢(あ)へて非難する者ではない。人類は之によって、如何(いか)に大なる恩恵を蒙(こうむ)り、今後と雖(いえど)も蒙(こうむ)るかは、最大級の讃辞を捧げても足りない位である。といって何も彼(か)もそう考へる事が早計であって、唯物科学にも自(おのずか)ら分野があり、越えてはならない境界線がある。ではそれは何かといふと、有機物も無機物も同一視する単純な考へ方では、駄目であるといふ事である。つまり唯物科学は、生物である人間も他の動物も、無生物である鉱物や植物と混同してゐる錯覚である。といふのは本来動物なるものは無生物ではないから、唯物科学の分野に入れてはならないに拘(かか)はらず、どう間違へたものか、入れて了(しま)った事である。之が根本的誤謬(ごびゅう)で、それによって進歩して来た医学であってみれば、手術といふ人体を無生物扱ひにする行(や)り方も当然であらう。又斯(こ)ういふ点も見逃す事が出来ない。それは唯物科学の進歩が、余りに素晴しかった為、何も彼(か)も之によって解決出来るものと信じて了(しま)った科学至上主義である。処が実際上動物はそうはゆかない。成程医学によって、一時的には効果はあるやうだが、根本が誤ってゐる以上、真の効果が挙(あが)らないにも拘(かか)はらず、それに気付かず、相変らず邪道を進みつつあるのである。
 そうして右の如く私は生物と無生物の関係を大体かいて来たが、今一層掘下げてみれば生物の中でも人間と他の動物とを同一視してはならない事である。といっても之は根本的ではないが、相当の異ひさがある。例へば人間に対(むか)って、結核といえば直に神経を起し、悪化したり、死を早めるが、牛の結核を牛に言っても、何等の影響もないのである。従ってモルモットや廿日鼠(はつかねずみ)を研究して、人間に応用しても、決して良い結果は得られないのである。
 茲(ここ)で前に戻って、再び手術に就(つい)て筆を進めるが、成程一時手術によって、治ったとしても、それで本当に治ったのではないから、暫(しばら)くすると必ず何等かの病気が発生するが、医学は其(その)原因に気が付かないのである。そんな訳で手術後の先には余り関心を持たないのである。然(しか)し考へても見るがいい。体内の重要機能を除去したとすれば、言はば体内的不具者となるのであるから、全然影響のない筈(はず)はない。例へば外的不具者で足一本、手一本処か、指一本、否(いな)指の頭だけ欠損しても、其(その)不自由さは一生涯の悩みの種である。況(いわ)んや内的不具者に於てをやである。而(しか)も外的不具者なら、生命に関係はないが、内的のそれは生命に至大の関係があるのは当然である。例へば盲腸の手術で、虫様突起を失ふとすればどうなるであらうか、元来盲腸なるものは、重要な役目をもってゐる。それは人間の背部一面に溜った毒素が、一旦右側背面腎臓部に溜って固結し、少しづつ盲腸部に移行固結するが、或(ある)程度に達するや急激な浄化が起り、発熱、痛み等が発生し、溶解された毒素は下痢となって排除され、それで治るのであるから、実に結構に出来てゐる。処が可笑(おか)しいのは、此(この)際医師は手遅れになると大変だから、一刻も早く手術せよといふが、此(この)様な事は絶対ないので、手遅れになる程反(かえ)って治る可能性が多くなる。之は理屈ではない。私は何人も其(その)様にしたが、一人の間違ひもなかったのである。寧(むし)ろ手術の為不幸になった例は時偶(ときたま)聞くのである。
 又盲腸炎潜伏を知るのは訳はない。医学でもいふ通り、臍(へそ)から右側斜に一、二寸位の辺を指で押すと痛みがあるから直(す)ぐ判る。然(しか)し原因は其(その)奥にあるので、盲腸部だけの浄霊では全部の痛みは除(と)れない。盲腸炎の場合、右側腎臓部を指で探ると必ず固結があり、押すと痛むからそこを浄霊するや、忽(たちま)ち無痛となり全治するのである。治る迄に早ければ十数分遅くとも三、四十分位であって、間もなく下痢があり、それで済んで了(しま)ふので、再発などは決してない。としたら何と素晴しい治病法ではなからうか。処が医学では手術の苦痛も費用も、並大抵ではない。其(その)上不具とされ、運の悪い人は手術の跡の傷が容易に治らず、数年かかる者さへある。稀(まれ)には手術の為生命を失ふ者さへあるのだから、我浄霊と比較したら、其(その)異ひさは野蛮と文明よりも甚だしいと言へよう。処が手術によって盲腸炎は治ったとしても、それだけでは済まない。前述の如く盲腸なる機能は、背部一面の毒素の排泄機関であるから、それが失くなった以上、毒素は出口がないから、大部分は腹膜に溜ると共に、腎臓部の固結も大きさを増すから、それが又腎臓を圧迫し、腹膜炎に拍車をかける事になる。之が主なる悪影響であるが、其(その)他の個所にも溜るのみか、手術後腹力や握力が弱り、持久力や粘り強さ等も薄くなり、性欲も減退する。之等は体験者の知る処であらう。
 次は腎臓剔出(てきしゅつ)であるが、此(この)手術は腎臓結核の場合であって、痛みや血尿があるので、そう決められ剔出(てきしゅつ)するが、此(この)成績も面白くない。大抵は何かしら故障が起る。その中で一番困るのは、残ってゐる一つの腎臓は二つの負担を負はされるから、病気が起り易いと共に、剔出(てきしゅつ)する事も出来ず、どうしていいか判らないといふ惨(みじ)めな人もよくある。といふのは誰しも保有毒素が相当あるから、残った腎臓へ溜結するのである。その外(ほか)全身的には弱体化し、歩行にも困難があり、腰を捻(ねじ)ったり、正坐すら出来ない人もあって、先(ま)づ半分廃人である。処が最初から浄霊によれば、手も触れずして簡単に全治するのである。
 次は胃癌の手術であるが、之も仲々厄介である。之に就(つい)て遺憾に思ふ事は、切開してみると、癌が見当らないといふ過失をよく聞くが、患者は全く災難である。幸ひ予定通り切り除(と)っても、大抵は時日が経つと僅(わず)かでも残った癌が広がってゆき、再度の手術をするやうになるが、三度目になると不可能で、最早(もはや)致命的である。そうして手術が成功しても、縮小した胃と腸と繋ぎ合すので、食物も少しづつ何回も摂(と)らねばならず、而(しか)も医学の統計によれば、手術後の寿命は平均二年半とされてゐる。それに就(つい)て医学は斯(こ)ういふのである。どうせ半年か一年で死ぬべきものを、手術によって一年でも二年でも延びるとしたら、それだけ有利ではないかと。成程其(その)通りにゆけばいいが、事実は放って置けば三年も五年も生きられるものを、手術の為に縮められる例を、私は幾人となく経験したのである。又医学は癌の治療にラヂュームの放射をするが、之は反(かえ)って悪化する。といふのはラヂュームは癌を破壊すると共に、組織迄も破壊して了(しま)ふからである。
 右の解説は真症胃癌に就(つい)てであるが、実は真症は少なく、大部分は擬似胃癌であり、擬似は勿論薬毒が原因である。それは薬の性質にもよるが、一旦吸収された薬は、時を経て毒に変化し胃へ還元し固(かた)まる。それが癌とされるのであるから、之は浄霊によれば非常に衰弱してゐない限り、必ず治るのである。
 右の外(ほか)卵巣除去、乳癌の手術、中耳炎、瘍疔(ようちょう)、眼科、肋膜炎の穿孔(せんこう)、痔疾、横痃(よこね)、睾丸炎、瘭疽(ひょうそ)、脱疽、整形外科手術等々種々あるが、之等も大同小異であるから略すが、茲(ここ)に二、三の書き残しをかいてみよう。それは各種の腫物であるが、之は手術をせず放っておけば、腫(は)れるだけ腫(は)れて自然に穴が穿(あ)き、そこから血膿が出て完全に治って了(しま)ふものである。処が患者は痛みに堪へ兼ねるので、医療は早く治そうとして手術するが、之が大変な誤りである。といふのは手術にも時期がある。充分腫(は)れてからなら左程の事もないが、そうならない内に行ふと、今迄一ケ所に集中してゐた膿は、其(その)運動を止めて了(しま)ひ、他の近接部へ腫(は)れ出すのである。之は手術処か、一寸(ちょっと)針で穴を穿(あ)けた位でも、ヤハリ集溜が停止されるので、之は知っておくべき重要事である。之に就(つい)て斯(こ)ういう例があった。以前私は頼まれて某外科病院へ行った事がある。患者は四十歳位の男子で、よく訊(き)いてみると、初め頸部(けいぶ)淋巴腺に鶉(うずら)の卵位の腫物が出来た。早速医者へ往(い)って穴を穿(あ)け、膿を出して貰ふと、間もなくお隣へ同じやうな腫物が出来た、それを切ると又お隣へ出来る、といふ具合で、遂には反対側の方にも出来、それも次々切ったり出たりする内、遂には腫物の数珠(じゅず)繋ぎとなって、私を招(よ)んだのである。そんな訳で外部には腫(は)れる場所がなくなったので、今度は内側へ腫(は)れ出した。恰度(ちょうど)其(その)時であったので、私と雖(いえど)もどうする事も出来ず、断って辞したが、其(その)後数日を経て、咽喉(のど)が腫(は)れ塞(ふさ)がり、窒息で死んだとの知らせがあった。之等は全く手術の為の犠牲者である。といふのは最初腫物が出来た時、放っておけば段々腫(は)れて、恐らく赤子の頭位に大きくなったであらうが、それでも放っておけば、終(つい)には真ッ赤にブヨブヨになって穴が穿(あ)き、多量の血膿が出て、完全に治って了(しま)ひ、痕跡(こんせき)も残らないのである。
 次は、近来一部の医師で、脳の手術をするが、之等は勿論癲癇(てんかん)とか、脳疾患等の場合行ふのであるが、之は何等の効果もない。何故なれば頭脳の機質性病患でなく、精神的のものであるからで、つまり霊的原因である。之に就(つい)ては霊の項目に詳記するから、茲(ここ)では略す事とする。次は近頃流行の結核に関する手術療法で、之は肋骨を切り除(と)ったり、空洞のある患者には、合成樹脂の玉を入れたり、横隔膜を手術したりするが、之等は一時的効果で、反(かえ)って後は悪いのである。要するに再三言う通り、手術なるものは、如何(いか)に有害無益なものであるかは、医学が一層進歩すれば分る筈(はず)であるから、最初に述べた如く手術の如き、野蛮的方法は、是非全廃して貰ひたいのである。

 薬毒の種々相

 凡(あら)ゆる病原が薬毒である事は、充分納得出来たであらうが、単に薬毒といっても、非常に多くの種類がある以上、それによる症状も自(おのずか)ら千差万別であるのは言う迄もない。それ等に就(つい)て詳しくかいてみよう。
 先(ま)づ洋薬であるが、之にも服薬、注射、消毒薬、塗布薬等種類があるから、先(ま)づ服薬から取上げてみるが、之は昔から一番多く用ひられてをり、其(その)種類も何千何万あるか、数へ切れない程あって、気が付いてみれば之等も可笑(おか)しいのである。何故なれば、如何(いか)なる病気と雖(いえど)も、其(その)原因は一つであって、其(その)現はれ方の局部によって、種々なる病名が付くのであるから、本当から言へば、効く薬なら唯(た)った一つでいい訳である。処が右の如く多数あるといふ事は、全く真に効く薬がないからである。
 そうして口から服(の)む薬は、強すぎると口が荒れたり、中毒したりするから、大いに弱めたと言ひ条(ながら)、何しろ一日数回で何日、何十何百日も服(の)むとしたら、いくら少ない毒素でも相当の量に上るのである。そうして面白い事には洋薬による苦痛は鋭い痛み、痒(かゆ)み、高熱、痳痺等凡(すべ)て強烈であるが、漢薬の苦痛は鈍痛、重懈(おもだる)さ、微熱等で緩徐(かんじょ)的である。又疫痢(えきり)に対する蓖麻子油(ひましゆ)とか、便秘に用ひるカスカラ錠とか、其(その)他色々な新しい薬もあるが、成程一時は効くが結局は悪くなる。下剤も糞便処理の機能を弱らせるから、一層便秘する事になる。又下剤を服(の)む、便秘するといふやうに鼬鼠(いたち)ゴッコになり、遂に慢性便秘症となるのである。而(しか)も僅(わず)かづつでも其(その)薬毒が溜る以上、他の新しい病原となるが、此(この)為の病気は腎臓が多い。又腸を掃除するといって下剤を服(の)ませるが、之なども実に馬鹿々々しい話で、掃除はチャンと腸自体が具合よくするのだから、余計な事をして妨害するからいい訳はないのである。言う迄もなく不潔不必要なものが溜れば、腸は下痢にして出すやうに出来てゐる。疫痢(えきり)なども私の長い経験上、蓖麻子油(ひましゆ)を服(の)まさない方が結果がいいのである。茲(ここ)で浣腸に就(つい)ても注意したいが、之も非常に悪い。ヤハリ之も下剤と同様、腸の活動を鈍らせるからである。考へてもみるがいい。糞便といふ汚物が溜れば、自然に肛門から出るやうに出来てゐる。それだのに外部から誘導して出すなどは、何たる反自然的行為であらうか、考へる迄もなく駄目に決ってゐる。又よく解熱手段として浣腸を行ふが、之は熱と糞便とは何等関係ない事を知らないからである。以前斯(こ)ういふ患者を扱った事がある。それは三歳の男児で、腹が太鼓のやうになってゐる。訊(き)いてみると生れて早々から浣腸を続けて来たので、段々癖になり、浣腸をしなければ便が出ないやうになって了(しま)ったので、遂悪いと知りつつも、余り苦しがるので止める事が出来ないと言うので、私は医学の無智に呆れたのである。今一つは医学は便秘すると自家中毒を発(おこ)すとよく言はれるが、之なども全然意味をなさない。医学は便が溜ると、便毒が身体中に廻るやうに想うのだらうが、実に滑稽(こっけい)である。便はどんなに溜っても便の袋以外に滲出(しんしゅつ)するものではない。溜れば溜る程段々固くなるだけであるから、何程溜っても健康には些(いささ)かも支障はないのである。私の経験から言っても、一、二ヶ月位はザラで、ひどいのになると半ヶ年も出ない者があったが何ともなかった。以前或(ある)婦人雑誌に出てゐたが、二ヶ年もの人があったそうだが、何共(なんとも)なかったといふ事である。之で見ても便秘は心配ないのである。
 次に、寒冒、結核、胃、腸等に関する薬剤は既に述べたが、其外(そのほか)脳に対する鎭静剤、点眼薬、含嗽(うがい)薬、利尿剤、毒下(くだ)し、温め薬、強壮剤、増血剤、風邪引かぬ薬、咳止、痛み止等々凡(あら)ゆる薬剤は、悉(ことごと)く病気増悪の原因となっても、病気を治し得るものは一つもないのである。それに就(つい)て種々な実例を示してみるが、先(ま)づ頭痛に用ひる鎭痛剤など、一時は一寸(ちょっと)効果を見せるが、遂には癖になって、不知(しらず)不識(しらず)の裡(うち)に其(その)余毒が溜り、種々な病原となる。又点眼薬は最も不可で、目星などでも固(かた)めて了(しま)ふから、反(かえ)って治り難(にく)くなる。又世人は知らないが、点眼薬はトラホームの原因ともなるから注意すべきである。之は点眼薬にもよるが、事実は眼瞼(まぶた)の粘膜へ薬毒が滲透(しんとう)し、年月を経て発疹となって出ようとするからである。又悲しくもないのに常に涙の出る人は、点眼薬が時を経て涙に変化したものであるから、出るだけ出れば自然に治って了(しま)ふ。処が医学は涙嚢(るいのう)の故障などといふが、見当違ひも甚だしい。又目脂(めやに)は前頭部の毒素又は眼の奥の浄化によって排泄されるものであるから非常にいいので、何よりも如何(いか)なる眼病でも目脂(めやに)が出るやうになれば必ず治るのである。
 次は鼻薬であるが、鼻薬の中、特に恐るべきはコカイン中毒である。よくコカインを吸ふ癖の人があるが、一時爽快なので止められなくなり、長い間に脳を冒して、夭折(ようせつ)する人も少なくないが、特に芸能人に多いやうである。
 次に含嗽(うがい)薬であるが、之は極く稀薄な毒ではあるが、始終用ひてゐると、口内の粘膜に滲透(しんとう)し、毒素となって排泄する時、粘膜が荒れたり、加答児(カタル)を起したり、舌がザラザラしたり、小さな腫物など出来たりするから廃(や)めた方がいい。特に咽喉(のど)を使ふ芸能人には最も悪い。又一般水薬に就(つい)ても同じ事が言える。長い間にヤハリ粘膜から滲透(しんとう)した薬毒は右と同様になるが、薬が強い為悪性である。而(しか)も意外な事には舌癌も之が原因である。処が医学は薬で治そうとするから、病を追加する訳である。又薬入り歯磨なども、歯を弱める事甚だしいのである。
 次は塗布薬であるが、之も仲々馬鹿にはならない。塗布薬の毒素が皮膚から滲透(しんとう)して、種々の病原となる事がよくある。以前斯(こ)ういふ患者があった。最初身体の一部に湿疹が出来た処、医師は悪性として強い塗布薬を塗ったので、段々拡がり二、三年の内には全身に及んで了(しま)った。それまで有名な病院に掛かってゐたが、もう駄目と曰(い)はれ、私の所へやって来たのであるが、私は一目見て驚いたのは、身体中隙間もなく紫色になっており、処々に湿疹が崩れ、汁が流れてをり、痒(かゆ)みよりもそれを打消す痛みの方が酷(ひど)いそうで、夜も碌々(ろくろく)眠れないといふ始末なので、流石の私も見込ないとして断ったが、それから一、二ケ月後死んだそうである。
 又斯(こ)ういふ面白いのがあった。此(この)患者は肩や背中が凝るので、有名な或(ある)膏薬を始終貼ってゐた処、長年に及んだので、膏薬の跡が背中一面幾何学的模様のやうになって了(しま)ひ、いくら洗っても落ちないといふ事であった。それは膏薬の薬毒が皮膚から滲透(しんとう)して、染めたやうになって了(しま)ったので、而(しか)も絶へず相当痛みがあるので、私も随分骨折ったが、余程強い毒と見へて、一年位で大体治ったが、高が膏薬などと思ふが、決して馬鹿にはならない事を知ったのである。
 今一つ全然世人の気のつかない事がある。それは有名な仁丹で、此(この)中毒も相当なもので、之は幾人もの例で知った事だが、仁丹常用者は消化機能が弱り、顔色も悪く病気に罹(かか)り易くなる。今日問題となってゐる麻薬中毒の軽いやうなものである。
 茲(ここ)で、薬毒中の王者ともいふべきものを一つかいてみるが、それは彼(か)の駆黴(くばい)剤としての六〇六号、一名サルバルサンである。之は砒素(ひそ)剤が原料となってゐる位で、耳搔一杯で致死量となる程の劇薬であるから、浄化停止の力も強いので、梅毒の発疹などにはよく効く訳である。勿論浄化によって皮膚へ押出された発疹であるから、一度サルバルサンを注射するや、症状は忽(たちま)ち引込むといふ訳で、一時は奇麗になるが根本的ではない。之は医学でもサルバルサンは一時的で、他の駆黴(くばい)療法を併せ行はねばならないとしてゐる通りである。之に就(つい)て私は大発見をした。といふのはサルバルサンの薬毒は頭脳に上り易く、上ると意外にも精神病になる事が多いのである。すると医診は梅毒が脳に上ったと思うが、何ぞ知らん、実際はサルバルサンが脳を犯したのである。之は専門家諸君に於ても、此(この)理を心得て充分研究されたら分る筈(はず)である。
 次に、一般注射に就(つい)ての誤った点であるが、注射と雖(いえど)も一時的浄化停止であるから、効力も一定期間だけであるが、副作用がなければ結構だが、其(その)余毒は他の病原となるから厄介である。そうして近来伝染病に対し、それぞれの予防注射を懸命に行ってゐるが、遺憾乍(なが)ら伝染病の根原が全然不明であり、治す方法もないから、止むを得ないとしても、予期の効果は仲々得られ難(にく)いのである。処が我浄霊法によれば梅毒も伝染病も、至極簡単に治るのだから、之が一般に知れ渡ったとしたら、予防注射の必要などは全然なくなり、大いに助かるのである。茲(ここ)で予防注射による弊害をかいてみるが、先(ま)づ予防注射による薬毒の悪影響が、最も明かに表はれるのは、膝から下に小さな腫物が出来る事である。之も放任しておけば、或(ある)程度腫(は)れて自然に穴が穿(あ)き膿化した注射薬が出て治るのであるが、それを知らない医学は、塗布薬を用ひたり、切開したりするので長引く事になる。而(しか)も注射によっては、脱疽や瘭疽(ひょうそ)の原因ともなり、指を切られる事さへある。而(しか)も運の悪い人は、それが因(もと)で生命に迄及ぶ事さへ往々ある。以前私はそういう患者を扱った事がある。四十歳位の人妻で、注射の薬毒が足首へ垂(た)れて、腫物となった処、医療は切開したので仲々治らず、益々悪化し激痛も加はり、拡がってもゆくので、医師は足首と膝との中間を切断するより方法がないといふので躊躇(ちゅうちょ)してゐた処、私の話を聞き訪ねて来たのである。何故それ程悪化したかといふと、全く切開後使用した消毒薬の為である。
 茲(ここ)で、消毒薬に就(つい)て説明してみるが、之は薬毒中最も恐るべきものである。元来消毒薬とは殺菌力が非常に強いので、中毒を起し易く、而(しか)も手術の場合、直接筋肉に滲透(しんとう)するから、猶更(なおさら)影響も大きい訳である。故(ゆえ)に之が為種々の病原となるので、此(この)理と実際とを、医家は照し合してみて貰ひたいのである。
 右の例として、今も記憶にまざまざ残ってゐるものに斯(こ)ういうのがあった。七、八歳の女児、珍しい病気との事で、その家へ招かれた処一目見て驚いたのは、患者は右側の唇から頰(ほほ)へかけて、鶏卵大位頰(ほほ)が欠損してゐて、歯茎まで丸見えである。勿論食物を口へ入れても出て了(しま)ふから、僅(わず)かに牛乳を流し込むやうにして、漸(ようや)く生きてゐるといふ始末である。その原因を訊(き)いてみて二度吃驚(びっくり)した。といふのは最初口辺に小豆粒位の腫物が出来たので、医師に診て貰ふと、之は水癌といふ非常に悪性なものだから、強い薬で焼いて了(しま)はなくてはいけないと言って、その様にした処、一週間で右の如く焼け切れたといふのである。察するに消毒薬ではないが余程強い薬であった為であらうが、手のつけやうがないので、私は断って帰ったが、それから一ケ月程経て死んだとの事であるが、之なども実に考へさせられるのである。
 そうして、注射薬にしろ消毒薬にしろ、目方の重い軽いがあって、重い程下降し、最も重いのは膝から下、足の裏迄垂(た)れて来て固(かた)まる。そうなると足の裏が痛くて地につけないで歩行困難となる。又薬によっては下降して膝から下に溜り、痺(しび)れるので脚気(かっけ)とよく間違へられる。其(その)他神経痛、リョウマチスの原因も薬毒であるから、私は何よりも先(ま)づ薬毒の恐るべき事を、専門家に自覚させたいので、之だけでも人類に与へる福祉は、蓋(けだ)し計り知れないものがあらう。

 人形医学

 私は、今迄現代医学に於ける、凡(あら)ゆる誤謬(ごびゅう)の点を指摘して来たが、茲(ここ)で最も重要なる点は、人間をして人形扱ひにしてゐる事である。といふのは医学には種々の科目がある。内科、外科、脳神経科、泌尿器科、皮膚科、婦人科、小児科、眼科、耳鼻咽喉科、歯科といふやうに、それぞれ専門部門に分れてゐる。又右の科目中、内科にしても結核、胃腸病、心臓病等、夫々(それぞれ)専門的に分れてゐる。そうかと思うと、基礎医学と称し、学問的研究にのみ一生涯没頭してゐる人もある。彼(か)のモルモットや廿日鼠(はつかねずみ)を相手に、毎日顕微鏡と首ッ引きで余念がない。世間よくモルモット博士などと言はれてゐるのは誰も知る処で、其(その)他臨床専門で、読んで字の如く、直接病人の脈を年中とってゐる人もある。又予防医学といって主に伝染病予防をはじめ、社会衛生、個人衛生等に専念してゐる人もある。次に療法に於ても色々の種類がある。薬剤の服用注射は固(もと)より、手術、電気、マッサージの外(ほか)、光線療法、物理療法、精神療法等々があるかと思へば、皇漢医術あり、各種の民間療法あり、禁厭(まじない)、祈禱(きとう)宗教による事もある。ザット数へただけでも右の通りであるから、実に複雑多岐種類の多い事驚く程である。此(この)様になった原因は、全く本当に治るものがなかったからで、若(も)し真に治る療法があったとしたら、それ一つで解決がついてゐる筈(はず)である。
 そうして医学の最も間違ってゐる点は、人体を人形と同様に見る事である。といふのは抑々(そもそも)人体なるものは、一個の綜合体であって四肢五体バラバラのものを、繋ぎ合せて作られたものではない。従って一部分に病気が発(おこ)るといふ事は、其(その)部分だけではなく、各部分に関連があるのである。例へば手足が悪いといふ事は、手足だけが悪いのではなく、手足以外の他の部分即ち甲の部分に原因があり、それが乙に移り、又丙に表はれるといふやうに何処(どこ)迄も連繋してゐる。仮に歯が弱いといふ事は、全身が弱いからで、全身が弱いまま歯だけ丈夫にする事は絶対不可能である。女性の結核患者が病気が進むと、必ず無月経となるが、之も結核による貧血の為であり、腸が弱い人は必ず胃が弱く、胃の弱い人は肺が弱く、肺の弱い人は心臓が弱いというやうにどこ迄も相互関係である。一番判り易い例は仮に人間を一国家としてみても判る。其(その)国家の政府の政策が悪ければ、国民全般が悪影響を受けると同様、人体の中央政府である心臓が悪いとしたら、身体全部が悪くなる。国家が不景気、金詰り、物資不足などといふのは人体なれば栄養不足で貧血状態という訳である。そうして単なる痛みと雖(いえど)も、それが頭脳を刺戟(しげき)し、心臓に影響するから、胃にも影響し、食欲不振となり、腸が弱り、便秘、疲労等、全身的に影響を及ぼすのである。又肺炎に罹(かか)るや、若(も)し肺のみの病気とすれば、肺だけの熱で、他に影響はない筈(はず)だが、実際は其(その)熱の為全身的に苦痛が及ぶにみても明かである。
 次に数種の実例をかいてみよう。
(一) 廿歳(にじゅっさい)位の女性 右の歯が非常に痛むので浄霊した処、間もなく痛みは止まったが、翌日又痛いと言って来た。普通の歯の痛みなら一回で治る筈(はず)だが、まだ治らないのは他に原因があると思って、歯の下部から順次下方へ向って押してみると、胸部に固結があり痛いといふので、其(その)固結を溶かすと直(すぐ)に治ったが、翌日又来てまだ痛いといふ。私は不思議に思って、尚(なお)下部へ向って段々押してゆくと、盲腸部が非常に痛いといふので、そこを浄霊した処、それですっかり治ったので、訊(き)いてみると、以前盲腸を手術したといふ。それで判った事は、其(その)時の消毒薬が固結し、浄化が起ってそれが胸部を通って歯茎から排泄しようとした其(その)の痛みであった。之にみても歯痛の原因が盲腸部であったといふ事は、実に想像もつかないのである。
(二) 廿(にじゅう)幾歳の男子 結核三期で咳と痰が非常に出るので、いつもの通り頭、首、肩等を浄霊したが、余り効果がないのでよく査(しら)べた処、意外にも両股、鼠蹊(そけい)部にグリグリがあって、そこが可成(かなり)の発熱があり、押すと非常に痛いといふ、ハハァー之だなと思って、其処(そこ)を浄霊した処、一ケ月位で全治したのである。その時私は「君の肺は股に付いてゐたんだね」と言って笑ったのである。処がそれに就(つい)て面白い事があった。有名な某医学博士に此(この)話をした処、首を傾けてゐるので〝 じゃー試しに貴方の股を診てあげませう〟と言って仰臥(ぎょうが)させ、押した処小さいグリグリがあり、微熱もあるので浄霊するや忽(たちま)ち咳と痰が出たので、啞然(あぜん)として不思議の一語より出なかった。其(その)医博は今でも某大学の教授をしてゐる。
(三) 中年の男子 胆石病で苦しんでゐたので右背面腎臓を見ると、大きな固結があるので之だなと思って、数回に亘って溶した処、それで治って了(しま)った。
(四) 脱肛や痔核で苦しんでゐる人の股をみると、必ずグリグリがある、それを溶かすと治るので、原因は股にある事を知ったのである。処が痔出血や赤痢の原因は、頭部の毒血が溶解下降する為であるから、何よりも頭部を浄霊すれば治ると共に、出血後は頭部が軽快になるのでよく判る。
(五) 頭痛、頭重や精神集注力が乏しい人は、左右何(いず)れかの頸部(けいぶ)淋巴腺又は延髄部に必ずグリグリがあって、そこに発熱がある。それを溶かすと直(じき)に治る。
(六) 眼の悪い人は、延髄部を主に頸部(けいぶ)から肩にかけて固結があり、又前頭部に必ず発熱がある。そこを浄霊すると軽い眼ならそれで治る。私は手術をしない眼ならば、大抵は治るといふが、今日迄盲目を幾人となく全治さしたからである。近眼及び乱視など延髄部の固結を溶かせば、百発百中治る。
(七) 盲腸炎は、右側腎臓部に必ず固結がありそこを浄霊すれば治る。又胃でも腸でも、原因は背部にあるから、そこを浄霊するだけでよく治る。胃痙攣など激痛の際、前方から浄霊しても痛みは全部取れないが、背部を浄霊すれば全治するのである。
(八) 最も面白いのは瘭疽(ひょうそ)である。患部だけ浄霊しても全然痛みは除(と)れないが、頸部(けいぶ)をみると必ず固結があるから、そこを浄霊すると実によく治る。
 以上によってみても判る如く、病なるものは表面に表はれた症状であって、其(その)因(もと)が意外な処にあるものである。それを知らない医学は、症状さへ治せば病気は治るものと解釈してゐるので、真の医術ではないのである。それは全く人間は綜合体であるといふ事の認識がないからである。何よりも病気によって療法が異ひ、薬の種類も数多いといふ事は、よくそれを物語ってゐる。本当に治る医学とすれば、一つの方法で万病を治し得る筈(はず)である。元来病気とは曩(さき)に説いた如く一種類となった毒素が各局部に固結するので、言はば病気の種類とは固結場所の種類である。それが分るとしたら療法も一つとなり、進歩の必要もない事になる。何故なれば進歩とは不完全なものを完全にしようとする過程であるからである。此(この)一事だけにみても、現代医学は如何(いか)に根本に未知であるかが判るであらう。此(この)意味に於て、今迄進歩と思って来たのは、実は外面だけのそれであって、肝腎な病気は治らず、一つ所を往(い)ったり来たりしてゐたに過ぎないのである。

 擬健康と真健康

 今迄詳しくかいた如く、病気は浄化作用であり、医学は浄化作用停止を、治る方法と錯覚して来た意味は判ったであらう。之に就(つい)て今一層徹底的にかいてみるが、世間一般の人が健康そうに見えて、兎(と)も角(かく)働いてゐる人の其(その)殆(ほと)んどは毒素を保有してゐながら、強く固結してゐる為、浄化作用が起らない迄である。従って何時(いつ)突発的に浄化が発生するか判らない状態におかれてゐるので、何となく常に不安があるのは此(この)為で、恰度(ちょうど)爆弾を抱いてゐるやうなものである。少し寒い思ひをすると、風邪を引きはしないかと心配し、伝染病が流行すると自分も罹(かか)りはしないかと案じ、一寸(ちょっと)咳が出たり、身体が懈(だる)かったり、疲れ易いと結核の初期ではなからうかと神経を悩まし、腹が痛いと盲腸炎か腹膜炎の始まりではないかと恐怖する。風邪が拗(こじ)れると結核を心配し熱が高くてゼイゼイいふと、肺炎を聯想(れんそう)する。一寸(ちょっと)息が切れたり、動悸がしたりすると心臓病を懸念し、足が重いと脚気(かっけ)じゃないかと想ふ。眼が腫(は)れボッタイとか、腰が重いと腎臓ではないかと疑ふ。女などは腰や下腹などが痛かったり、冷へたり、白帯下(こしけ)が下りたりすると、子宮が悪いのではないかと苦労し、子供が元気がないと大病が発(おこ)る前兆ではないかと心配する。といふやうにザットかいただけでも此(この)位だから、今日の人間が如何(いか)に病気を恐れ、怯(おび)えてゐるかは想像に余りある。
 そうして一度病気に罹(かか)れば医者に行き、薬を服(の)むといふ事は、常識となってゐるが、よくも之程迄に医学を信じさせられたものと感心せざるを得ないのである。とはいふものの私としても昔の自分を考へたら、人の事など言へた義理ではない。斯(こ)ういふ事があった。確か三十歳前後の頃だと思ふが、信州の山奥の或(ある)温泉場へ行った時の事だった。旅館に着くや否(いな)やイキナリ女中に向って『此(この)温泉場にはお医者が居るか』と訊(き)くと、女中は『ハイ、一人居ります』私『普通の医者かそれとも学士か』女中『何でも此(この)春大学を出たとかいふ話です』それを聞いた私は、之なら二、三日位安心して滞在出来ると、腰を落着けたのである。処が其(その)後世間には私と同じやうな人もあると聞き私は変ってゐない事を知った訳である。又斯(こ)ういふ事もあった。人間はいつ何時(なんどき)病気に罹(かか)るか分らないから、そういふ場合夜が夜中でも電話一本で飛んで来て呉(く)れるやうな親切なお医者さんを得たいと思ってゐた処、恰度(ちょうど)そういふお医者さんが見付かったので、出来るだけ懇意にし、遂に親類同様となって了(しま)った。現在の私の妻の仲人は、其(その)お医者さんであった位だから、如何(いか)に当時の私は、医学を信頼してゐたかが判るであらう。
 従って、今日一般人が医学を絶対のものと信じてゐるのもよく判るのである。処が其(その)医学なるものは、実は病気を治す処か、其(その)反対である事を知った時の私は、如何(いか)に驚いた事であらう。然(しか)し之が真理であってみれば、信ずる外(ほか)はないが、そんな訳で現代人が医学迷信に陥ってゐるのも無理はないと思へるのである。忌憚(きたん)なく言へば自分自身の体を弱らせ寿命を縮められ乍(なが)ら、医学は有り難いものと思ひ込み、それに気がつかないのであるから何と情けない話ではないか。従って此(この)迷信を打破する事こそ、救世の第一義であらねばならない。といっても之を一般人に分らせる事は実に容易ならぬ問題である。前述の如く医学迷信のコチコチになり切ってゐる現代人であるから、実際を見聞しても、自分自身や近親者の難病が浄霊によって治ったとしても、直(ただち)に信じ得る人と、容易に信じられない人とがある。だが大抵な人は医学でも凡(あら)ゆる療法でも治らず、金は費(つか)ふし、病気は益々悪化する一方で、遂に生命さへも危い結果、中には自殺を計る者でさへ、偶々(たまたま)浄霊の話を聞いても、容易に受入れられない程、医学迷信に陥ってゐる現在である。然(しか)し絶体絶命の断末魔とて、茲(ここ)に意を決し、疑ひ疑ひ浄霊を受けるが、其(その)時の心理状態は最後に載せる報告にも沢山あるから、読めば分るであらう。
 以上は、現代人が如何(いか)に病気を恐れてゐるかといふ事と、医学を如何(いか)に信頼してゐるかといふ事で、前者は全く医学では治らないからでよくある事だが、一寸(ちょっと)風邪を引き、熱でも高いと之は大病の始まりではないかと案じるが、其(その)半面之しきの風邪位が何だと打消そうとするが、肚の底では万一の心配も頭を擡(もた)げて来る、といふのは誰しも経験する処であらう。之は全く医学そのものに、全服的信頼を措(お)けないからである。
 処が、本当に治る医学としたら、風邪や腹痛などは簡単に治るし、名の附くやうな病でも適確に診断がつき、其(その)通りになるべきで、如何(いか)なる病気でも、之は何が原因で今迄の療法のどの点が間違ってゐるか、どうすれば治るか、予後はどういふ風になるか、命には別状ないかあるかも手に取るやうに判り、病人に告げると其(その)言葉通りになるとしたら、誰しも医学に絶対の信頼を払ひ、病気の心配などは皆無となるのは勿論、病気は浄化作用で、体内の汚物が一掃され、より健康になる事が分る、としたら寧(むし)ろ楽しみになる位である。といふのが真の医学である。では此(この)様な夢にも等しい治病法がありやといふ事である。処が驚くべし之が已に実現して偉大なる効果を挙げつつある現在である。そうして吾々の方では病気とは言はない浄化といふ、何と気持のいい言葉ではあるまいか。然(しか)し事実もそうであるから言うのである。茲(ここ)で標題の真健康と擬健康に就(つい)てかいてみるが、擬健康とは前述の如く、固結毒素があっても浄化が発生してゐない状態であり、真健康とは毒素が全くない為、発病しない状態である。然(しか)し後者のやうな人は恐らく一人もないであらうし、健康保険制度も其(その)不安の為に出来たものであらう。
 右の如く現代人の殆(ほと)んどは擬似健康者であるから、大抵の人は何等かの持病を持ってゐる。少し仕事をすると、直(じき)に頭痛や首肩が凝(こ)ったり、一寸(ちょっと)運動が強いと息が切れたり、微熱が出たりする。又風邪を引き易く、一寸(ちょっと)した食物でも中毒したり、腹が痛んだり下痢したりする。年に数回以上は病臥(びょうが)し、勤めを休み、何年に一度は入院するといふやうな訳で自分自身の健康に確信が持てず、常にビクビクしてゐる。酷(ひど)いのになると矢鱈(やたら)に手術をする。少し金持の中年の婦人などは、盲腸を除(と)り、乳癌の手術をし、卵巣も除(と)り、廃人同様な人も少なくない。又一般人でも瘭疽(ひょうそ)や脱疽で指を切ったり、片方の腎臓を剔出(てきしゅつ)したり、喘息で横隔膜の筋を切ったり、脳の切開、手足の切断や、近頃は結核の手術も流行してゐる。といふやうに虐(むご)い事を平気でやってゐる。処が医学は斯(こ)うするより外(ほか)に方法がないから致し方ないが、今日の人間程哀れな者はあるまい。従って之程の文化の進歩発達も、其(その)恩恵に浴する事が出来ず、病床に悩んでゐる人も少なくないのである。右の如く病気の種を有(も)ってゐる擬健康を無毒者となし、真の健康者を作り得るとしたら、之こそ真の医術であって、人類にとって空前の一大福音(ふくいん)であらう。

 種痘

 種痘は千七百九十八年、英国の医学者エドワード・ジェンナー氏によって発見された事は、世界的に有名であるが、実はジェンナー氏独自の発見ではなく、之はずっと以前から、希臘(ギリシャ)の娘達が痘瘡(とうそう)患者の膿疹中に針を入れ、其(その)膿汁を皮膚にさすと軽い痘瘡(とうそう)になり重い痘瘡(とうそう)より免(まぬが)れる事を見て、それが牛痘で免疫が出来る事を発見したのが、ジェンナー氏で勿論其(その)功績も偉大なものであると共に、最初の実験に当って大胆にも、自分の愛児に試みた其(その)強い意志と人類の為なら、如何(いか)なる犠牲を払っても悔(く)ひないと言ふ、学者的良心の強さであって、幸ひにもそれが成功したので遂に一躍救世主の如く今日に至っても世界人類から仰がれてゐるのは誰も知る通りである。
 何しろそれ迄天然痘に罹(かか)るや生命の危険もそうだが、治ったとしても顔一面に酷(ひど)い痕跡が残るので恐れられてゐたものが簡単に免(まぬが)れる事が出来るとしたら、如何(いか)に当時の人達は喜んだであろう。処が私は此(この)大発見と思はれてゐたそれが、実は、将来凡(あら)ゆる病原となる事を発見したのである。従って種痘は果してプラスかマイナスかと言ふと、遺憾乍(なが)らマイナスと言へるのである。其(その)理由を茲(ここ)に詳しく説いてみるが、此(この)説は十数年前から私は唱導してゐた事であって此(この)大発見こそジェンナー氏の発見に比べて勝るとも劣らないと私は確信するのである。それに就(つい)て先(ま)づ天然痘の真因であるが、之は言ふ迄もなく薬毒であって薬毒が何代も続く結果、一種の特殊毒素となり、それが遺伝されるのである。従而(したがって)、人類が薬剤を用いない時代は全然なかったに違ひない。
 そうして此(この)遺伝薬毒の濃厚なのを医学は誤解して遺伝黴(ばい)毒といふのである。此(この)先天的保有せる遺伝薬毒が浄化作用発生によって皮膚から発疹の形で出ようとする、それが天然痘であるから種痘は言はば其(その)浄化発生を停止する手段なのである。処が、それだけでは未(ま)だ可(よ)いとしても、その為天然痘毒素、即ち然毒は体内に残って了(しま)ひそれが各種の病原となるのであるから、結局一回の苦痛で短期間に済むものを種々の形に変へて長期間苦しむというのであるから、どうしても盲点を覚まさなければならないのである。而(しか)も、其(その)中の最も悪性なのが結核であるから此(この)事を知ったなら、誰しも驚かないものはあるまい。然(しか)も、ヨーロッパに於ても種痘法施行後、結核が増えたといふ事実を今から数十年前、唱え出した仏蘭西(フランス)の医学者があった事を私は或(ある)本で読んで、実に卓見と思ったがそうかといって、ああ醜い痘痕を考へたら天然痘の苦痛は一時的であるが、痘痕は一生涯の悩みとなるので種痘は捨てきれず、此(この)説も葬られて了(しま)ったのであろう。のみならず然毒が私の発見の如き結核や、その他の病原となるなども想像もつかないからでもあろう。
 従而(したがって)、天然痘に罹(かか)るも短期間に必ず治り痘痕など些(いささ)かも残らないとしたら、理想的であって之で解消して了(しま)ふのである。然(しか)し其(その)やうな結構な方法がありやと言ふに、本教浄霊によれば絶対可能である事を言明するのであると言っても言葉だけでは仲々信じられまいから一つの好適例を左に挿入する事にした。

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