令和元年8月
覚りの旅 令和元年8月度 勉強会を終えて
三救責任者
今日は、「浄霊とは何か」。130頁ですね。お願いします。
参加者
浄霊とは何か (医学革命の書 昭和二十八年)
今迄病気の原因と、その又原因である薬毒に就て詳説して来たから、今度は治す方法と其原理を詳しくかく事にしやう。勿論之こそ我浄霊法であって、その素晴しい治病効果は言い尽した位だが、病原とは霊の曇りにあるので、曇りさへ払拭すれば病気は治るのは当然であって、此理は科学的にも説明出来る。然し単に科学のやうに極限された小乗的のものではない。曰ってみれば此世界は大別して上中下三段階になってをり、之が一切万有の実相である。処が小乗科学に於ては、前記の如く唯物的分野に限定されてゐる以上、外形のみに捉はれ、進めば進む程皮相的緻密になるばかりで、其結果生れたのが黴菌医学である。従って病理の根本から益々遠去かり、逸脱して了ったのである。
そうして大乗科学の三段階とは上段は神科学、中段は霊科学、下段が物科学となってをり、此下段に生れたのが医学であるから、其レベルが低く幼稚であるのも当然であって其様な程度の低い科学を以て、最高度の人間生命の解決などは思ひもよらない話で、寧ろ僣越でさへあり、長竿を以て大空の星を落そうとするやうなものである。
茲で以上の如き三段階を一層徹底してみると斯うである。即ち今日迄の世界は物科学と霊科学との二段階のみであったが為、人間生命や病気健康等の根本まで分らなかったのである。勿論独り医学ばかりではない。凡ゆる文化がそうであって、永遠性のない一時的間に合せ物が其殆んどであったのである。という訳で治病方法にしても、前記の如く三段階中の物科学と、そうして霊科学中の信仰療法の此二つだけであった。前者は略すが、後者に於ては治病方法としては祈り、苦行、禁厭等であって、医学と同様見るべき効果はなかったのである。
又之は別の話だが彼の釈尊にしてもキスリトにしても、成程見真実の境地に達したとは云はれてゐるが、最高ではなく二段階の上位程度であり、智慧も力もそれ相応であって、絶対でなかった事は歴史の示す通りである。之も時期の関係上止むを得なかったのである。処が私に於ては右の第一段階の最高地位に置かれてゐる以上、無限絶対の大本元を把握してをり、一切の事物に精通すると共に、病気其他万般に渉って驚異的奇蹟を現はし得るのである。斯んな事をいっても、第三者は直に信ずる事は出来まいが、之こそ真理の具現である以上、何人と雖も結局信ぜざるを得なくなるのは断言して憚らないのである。然るに今日迄の人類はそこまで分らないが為、釈迦キリストを最高神仏として崇敬し信じて来たのであるが、事実がそれに伴はない為、人々は疑雲に閉ざされ、霊の実在を否定し、科学万能時代を生んだのである。
そうして聖書には再臨のキリストを予言してあり、仏教は彌勒下生を唱へてをり、猶太教やその他の教派にしても救世主降臨を待望してゐる。といふやうに夫々昔から期待はかけられてゐたが、只其時が明示されてゐなかった為、大衆はそれ等の説は理想の表徴位にしか思はず、いつとはなしに忘れられたのが現在の世界である。
私は今更自分が救世主だとも、再臨のキリストとも曰はない。何故なれば昔から今日迄随分そういう名乗を上げた者もあったが、みな煙の如く消へて了ったからで、今日それを唱へ出した処で、偽キリスト、偽救世主か大山師位にしか見られないのは分り切った話であるからである。要は実際問題であって、今後私の仕事の上に於て、救世主的救ひの力を発揮するか、キリスト再臨的威力を表はすか、彌勒や観音の力徳を顕現するか、天照大御神としての光明を放つか等によって、信ずる信じないを決めればいいであらう。つまり全世界の人々が公正なる批判の眼を以て観てくれれば私は満足であり、それ以外の望みはないのである。
話は戻るが、以上の如く物の科学、霊の科学、神の科学の三段階の原則こそ大乗科学であるとすれば、之こそ今後の時代をリードすべき最高学問であるといってよかろう。故に今日迄の科学が如何に程度の低ひものであったかは充分判る筈である。
従って我救世教こそ、最高最貴の主神が経綸し給ふ処の神科学の具体化であり、それから生れた浄霊医術である以上、超偉力を発揮するのも不思議はないのである。
何よりも事実が遺憾なく證明してゐる。例へばキリストの治病奇蹟にしても、一人対一人であったに対し、私は私の弟子をして、キリストと同様の奇蹟を日日無数に顕はしつつあり、其数も数十万に及んでゐるので、言はば現在已に数十万のキリストが日本に生れてゐる訳である。此神力こそ主神以外にあり得ない事は、常識で考へても分る筈である。
茲で浄霊に就いて一層詳しくかいてみるが、先づ私は一枚の紙片に光といふ文字を 書き、それを畳んで御守として入信者に渡すと、それを懐に入れて手を翳すや、忽ち掌から光が放射され、霊の曇りは解消し病は治るのである。此光とは私の腹中に在る玉の威力であって、此光は無限に放射され、霊線を通じて御守に伝達する。此理はラヂオを考へればすぐ分る。放送局、アンテナ、受信機の関係と同様である。以上長々とかいた事によって、読者は病気の根本が分り、医学の誤謬が明かとなり、治病の根本も会得されたであらうから、之が世界的に拡がるに於ては、病無き世界の実現は敢て難事ではないのである。
右の如く、黴菌の原地を潰滅する手段としての、術者の掌から放射される光としたら、此光は何かといふと、之を科学的に説明してみると、即ち曇りの中に含まれてゐる不純粒子が光に会ふや忽ち焼尽され、純粋水素のみが残るのである。それは光に含まれてゐる火素といふ熱の力であって、之を説明すると、火素とは光に含まれてゐる太陽熱の精で、言はば陽粒子ともいふべきものである。だが科学では水素はいうが、火素を言はないのは不思議である。然し火素は熱の霊であって体ではない。体は吾々が使用する熱い燃へる火であるが、霊の熱は超稀薄のものであって、体の熱に比べれば比較にならない程の強力なものである事は、実験によっても明かである。即ち濃厚な膿に向って浄霊するや、回を重ねる毎に漸次薄くなり、遂には清冽な水になって了ふ。之こそ火素の熱力によって毒粒子だけが焼尽されるからである。此理によって体内何れの深部にある膿や濁血と雖も全然身体に触れずして、浄霊によって溶解し、大部分は漿液となり、濃厚な分だけ排泄物となって出て了ふのであるから、最初手術の項にかいた如く、機能を何等損じないで、病気だけを除去する事が出来るのであるから、之こそ最も進歩せる文化的医術でなくて何であらう。そうして私の腹中にある光の玉というのは、仏教に於ては如意宝珠、神道に於ては麻迩の玉の名によって、昔から知られてゐるものである。
三救責任者
はい、ありがとうございました。
図―1
初めに、今日は初めての方も居られますので・・ここは三救と言います。
救いの三本柱と名前をつけました。
救いの三本柱というのは、御教えでいくと「浄霊・自然農法・芸術」という話をしていきましょうという救いの場であるということと、英語に直すとThree Pillars of Salvationdeで、ここの頭文字のTをとるとTime(時間)、P・Place(場所)、O・Ocation(場合)、S・Style(生活)、そういった風に良いネーミングになったのではないかと思います。
三救責任者
それでは、
順番にずっとやっていまして、最初からやりたいという人も居たので、今は二つやってるわけです。最初からと。最初からの順番でいくと「悪と守護霊」ということで、それを繋げて書きましたので、それで説明したいと思います。
図―3
それで、覚りの旅として、『悪と守護霊』。
これは、昔にメシヤ講座でも出てますので一回はね。前にもやってますし。
図―4
この『悪と守護霊』に出てくるのはですね、宇宙の構成ということで、日月地は宇宙の構成ですよね。
地球上のあり方について書かれてまして、全てに陰と陽があると。出てくるのが、火と水、経緯、昼夜、明暗、霊体、男女、善悪、ここ対照的になってるのが地球上のあり方ですよということで言われてます。
大自然の基本的様相がこういうことなんですよと。
図―5
で、『神格をいただく道』でも出てきますけども、「向上すれば神の如く堕落すれば獣の如く」ということで、人間、肉体は見えます。で、周りに見えない霊があります。あくまで霊主体従ですよと。
この三者共同というのは、まず本守護霊がついて、で2、3才のころ副守護霊がついて、絶えず戦っていると。で、先祖から選抜された霊が正守護霊としてつくんだよと。三者必ず居るということで。
この正守護霊というのは祖霊中から選抜されて身辺に付添っている。で、守護の役目をするんだよということです。
本守護霊はあくまでも神性、善ですよと。
副守護霊というのは動物霊がつくので悪ですよと。
ですから、自分の体の中には悪も居るわけです。さっきの地球の構成で全部、善悪、陰陽・・対照的になっていると。自分の体もそういうことですよと。で、霊体は密接不離なんですよということで、だから、善悪というのは心の問題ですよと。で、その心の問題でも霊が主で体が従ですということは絶対的なものですので、しっかりと全部この霊主体従で考えていかなくてはいけないということですね。
ということで、※Aは守護の役目ということで、祖霊様が助けてくれるということで、災害・危難・病気・悪行・怠慢・堕落等凡てその人を不幸に導く原因を防止してくれると。虫の知らせとか、夢知らせとか、邪魔が入るとか、食違い、間が悪い・・。邪魔が入るというのは邪魔が入ったことによって助かったということだと思います。電車とかに乗り遅れて危難を免れるとか、悪に接近しようとしても出来ないとか、そういうことで助けてくれてる。見えないけど助けてくれる。
図―6
で、副霊というのは、男性の場合主に天狗とか蛇、狸、馬、犬、鳥類等の死霊。女性では狐・・狐って女性につくんだね(笑)・・
参加者
女性の天狗は無いんですかねぇ?
三救責任者
いや、あるでしょう。これは主にって書いてありますから。
狐、蛇、猫、鳥類等の死霊。
臨時につく霊もあると。自分が五の線を超えて副霊の方が強くなってくると、本守護神が弱ってくるので、そうした場合に臨時についてしまう霊もあると。今、世の中に起こってきてるおかしな現象というのは、こういう人が多いんじゃないかと思われます。
その人の霊の清濁によるんだよと。くもりが多くなって、悪霊がつきやすくなる。要は自分の元からある副霊の力が増してくるんだよということですね。そうすると、悪いことをするようになると。今の様相ですよね。現代人はくもりが多く悪霊がつきやすい。と、犯罪が増えると。
図―7
じゃぁ、どうしたらいいんだと。神仏の信仰者はくもりが少なく、善行を好む。魂が浄まっていて悪霊を制圧する力が強くなりますと。
これが信仰する価値なんですよと。
だから、よく言われてる、魂は発光体なんですね。本守護霊を光らせましょう。動物霊はこの光を最も怖れるんですよと。
図―8
図―9
「霊主体従」を何で言うかというと、悪を征するには信仰以外ないんですよと。信仰と言っても拝む的の神様に181級もありますよと。下の方は邪神ですよと。
『主神は正神と邪神とを対立させ闘争させつつ文化を進めて来たのであるが、其の結果遂に
邪神の方が九分九厘迄勝ったのが現在であって、茲に主神はいよいよ一厘の力を顕現され、彼等の大計画を一挙に転覆させ給う。之が九分九厘と一厘の闘いであって今や其の一歩手前に迄来たのである。従って此の真相を把握されたとしたら何人と雖も翻然と目覚めない訳にはゆかないであろう。』
翻然というのは翻る、急に、心を改めるさま。
翻然と目覚めない訳にはゆかないであろう。
ということが、『悪と守護霊』に書かれてました。読みませんでしたけども・・・。
図―10
で、今の『浄霊とは何か』に、繋がってくるんですけども。
今の読んだところの話ですけども。
主神様が経綸し給う神科学の具体化が『浄霊』ですよと。
従って我救世(メシヤ)教こそ、・・この救世(メシヤ)教はメシヤ様の世界救世(メシヤ)教ですね・・。ややこしくなってきたね。何を指してるのかっていうのがね。
最高最貴の主神が経綸し給ふ処の神科学の具体化であり、それから生まれた浄霊医術である以上、超偉力を発揮するのも不思議はないのである。
図―11
ということで、
浄霊とは
・病を治す方法であり、原理であると。
・病原とは霊のくもり。
・くもりをとれば病気は治ります。
だから、くもりをとっていかないといけないんですよ。
図―12
さっきの話、霊主体従ですけど、目に見えない霊が主で見える体が従ですと。
くもりが多くなると副霊が力を増し臨時に悪霊がつきやすい。悪いことをするようになり犯罪が増えますと。これが現代の様相です。
今の復習ですね。『悪と守護霊』のところの復習です。
図―13
信仰者はくもりが少なく善行を好み魂が発光体となって輝くので、副霊は怖れて近寄りません。悪を制するには信仰しかありません。しかし、神様にも181級もありますよと。
図―14
このような善悪の仕組階級も全て主神様の仕組で、これが経綸ですと。今、一厘でひっくり返す時を迎えています。翻然と目覚める時なのです。
図―15
要は、全てが主神様の経綸。
その具体化が浄霊であると信じて信仰していく。
主神様に帰一していくこと。
メシヤ様の御教え。
メシヤ様の御教えを現代に活かす・・これがメシヤ講座ね。
この浄霊による救いの実践をしていくこと。
ということにつながっていきます。
これが言いたかったんだけどね。
結局、「主神様」ということを言いたかっただけですけど、今ね。
何かここまでであれば。
参加者
えっと、その中に、今、信仰者はくもりが少ないようなことが書かれてましたけど・・
三救責任者
そんなことないって?(笑)
参加者一同
(笑)
参加者
そうです。(笑)
信仰者じゃなくても、どこかに所属して信仰しているつもりでいる人っていうのは今の現状だと思うんですね。そうじゃなくって、所属してなくても信仰心っていうのを持ってる人っていると思うんです。熱心に神社仏閣にお参りしなくてもそういうものを持ち合わせる人。
そういうことの信仰者って言われてるんですよね。
三救責任者
そうですよね。信仰っていうのはね。うん。
もうそれは既に何らかの神様とつながっていますよね。
ここの神社に行くっていうんじゃなくても、自分の目に見えない、さっきの魂と天界のそこの人を守護する神様が働いてくれてますし、まぁ、ある意味ここで言えば、例えば奉斎してなくても近くの産土神社、そういったところの神様というのは働いてくれてると思うので・・。
参加者
そうですね。
すごくそこに行きつくまでの過程で、八木龍平さんが書かれた内容っていうのはすごく分かり易くって、一般の人達に。分かり易いなって思ったのは、企業の、会社の・・選ぶときに
その代表である社長が信仰者なのかそうでないかっていうことで、どっちを選ぶかというようなことが書いてあったんですね。で、信仰者っていうのは誰が見てなくても神が見てるからっていう思いで裏腹が無いと。すごく分かり易い。だけど、せっかく最高神につながってるのに、裏腹があるっていう姿をずっと見てきたので、このとらえ方の間違いが多分あるんじゃないかなと思うんですね。御教えを平面的にとらえてるから、深くその事に恥じない、自分自身に恥じないから、ずっと間違いを犯していってどんどんどんどんこういう風になっていくっていう。それも、すごく正されていく九分九厘まで来て一厘の力で正されていく時が来ると信じてるんですけど。
三救責任者
今の、主神様は善も悪も使われるので、ほとんどの神様は正神側とか邪神側とか分かれるけども、本当にねぇ、主神様は両方使われてるのであって、信仰に入っててもその神様がどういう神様かによって、ただ見た目では正しいように見えても悪の働きをしてるっていうのもありますし、そうじゃないという、向こうから見たのもこっちから見たのもあるでしょうから、結局は地上天国建設に向かっていく働きの中の。ただ、これはおかしいなぁって思ったら、それはそういう風にこの人はやらされてて、そういうお役をやらされてる、かわいそうだなぁということですよね。私達はそうじゃなくて、本当の善をしていこうという風に思っておくしかないですよね。こう、やらされてるんだと。メシヤ様の時代でも、ほとんどの人がメシヤ様を牢屋にほりこんだというのも身内であって、教団の為と思っていいと思ってやったかどうか知りませんけども、そこがおかしな方向になっていってるので、そういう見方が出来ていかないと宗教も無くなっていかないでしょうし、他の・・教主様をたたいたりしてますけども、それはそれで働きがあると思っておかないと・・。
参加者
そうですねぇ。
三救責任者
うん。キリスト教も全部主神様が使われてるわけであって。メシヤ様という言葉を出していくことに意義があるのかなと僕は思うんですけどね。
参加者
うーん。
三救責任者
そこまでの・・分かる人によって色々違うでしょうから、分かるまでの範疇のところの宗教につながって、教主様がそういう働きをされるのも意味があるなと・・だって、海外とか行かれてされてますから。結構ね。それはそれで。僕はだから、みんな意味が合ってやってる。だけど、僕たちはメシヤ様の御教えと、メシヤ講座も御教えですよね、結局は。御教えを現代に、先生が現代の人に分かるように、今の生活に照らし合わせてどうなのかというのをされたのがメシヤ講座ですから、ここを一生懸命やっていくしかない、コツコツとやっていくしかない、という風に思ってますけども。
図―16
それで、御神名とかのことについて話をして欲しいということがあって、調べていて。
僕の考えでね、人それぞれ、皆さんの色んな考えを僕は止めるつもりは全くありませんので、周り、色々されてますから、皆悩むと思うんですけど。
僕は、先生と出会う約7年前に『すのおおみかみ』様の御神名を唱えたことがあります。平成11年3月なんですけども、これは京都の〇〇先生のところに行ってそこで、参拝した時にこの御神名を唱えたんですよ。
参加者
〇〇先生の指導の元ということですか。
三救責任者
〇〇先生のところの参拝で。
この頃というのが、平成11年です。
先生は平成11年2月に退職されて、平成11年5月5日に玖珠に御神体御奉斎されました。平成12年2月4日にメシヤ教立教ということで。
要は僕が参拝した時に御尊影に対し奉り『すのおおみかみ』様の御神名を唱え、主神様、メシヤ様の御神格を学びたいと思っていたころ、先生はこの地球上に初めて主神様の御神体を出現させるべく準備中だったと。
僕は共振していたんだなということが言いたいだけですけど、ここはね。(笑)
参加者
なるほどね。うん。
図―17
三救責任者
まだ出会っていない時から御神名をお唱えさせて頂くことで、光のネットワークにつながり引寄せられた。これが、こういうことが因縁だと思います。
図―18
「二身一体」と言う御奉斎形式があります。
参加者
二身一体。
参加者
お家でも皆二身一体で。
三救責任者
家でも。そうですね。
そこはだから、御教えに基づいてるよっていうことです。
何で御教えに基づいているかって言うと、御教えを言いますと、
「御尊影御神体奉斎の形式について、床の間の落とし掛けが低くてお写真の御奉斎が出来ません場合に、床の間の中に光明如来様と並べて奉斎することはいかがでございましょうか。」
「それは構いません。」
こういう御教えがございます。
これは〇〇先生が直接か、上の先生を通じて、メシヤ様から聞かれた御教えです。
「その場合は右側でしょうか。左側でしょうか。」
「それは、向かって右側です。」
上座ね。
で、昭和29年6月15日から8月まで御尊影のみの御奉斎でした。その時8月に元の形式に戻せと言われました。元の形式がこれです。
ということで、(御神前の落とし掛けを指しながら)落とし掛けというのはこれね。この壁の。ここにお写真を御奉斎してた時があったんですね。
参加者
床の間じゃなくて、外に?
三救責任者
そうそう。これ、質問がそうじゃないですか。
落とし掛けのここに、要は一直線ということが言いたいんだけど、僕は‥(笑)。
御神体が光明如来様の時ね、ここ(落とし掛け)では大きい御尊影はむりですよね、それじゃあ、どうしたらいいでしょうかと聞いた時に、こちらに(向かって左側)に御神体、こちらに(向かって右側)に御尊影。御尊影の方が上ですよということを言われています。
これを僕は平成11年の時に、先生と出会う前にこの奉斎にしてました。これは、この御教えを当時の布教所長に奉斎してもらう時に「御教えにこう書いてあるんだから御教え通りに御奉斎して欲しい」とお願いしました。
図―20
京都で、この時の参拝で、この時の御神体が大光明如来様で、御尊影に対し奉りね。御尊影の前で参拝しましたと。御神書研鑽会に行ったんですけど、それが
「みろくおおみかみまもりたまえさきはえたまえ」2回
「かむながらたまちはえませ」2回
「すのおおみかみまもりたまえさきはえたまえ」2回
「かむながらたまちはえませ」2回
で、要は御尊影に対し奉り、みろく大御神様のお働きのメシヤ様に主神様への仲介をお願いされていたと拝察します。
そうじゃないと、おかしいでしょ。〇〇先生もこういう奉斎にしておられたと。分かっておられたわけですから。メシヤ様に御教え賜ったわけで、この奉斎形式をね。御尊影の方が上だよということで、御尊影に参拝されていました。メシヤ様が書かれたんだから、書かれた御神体は私より下だと。
図―21
今の話、もうちょっと詳しく・・。
昭和25年6月の留置場内での神懸りについて御教えがありまして、
「大抵の教祖は二流の神が憑っているのです。私が留置場に入っている時、憑られたのは一流の神様でした。その上の神は主神で、主神は人間には絶対に憑らぬ。そして、すべての経綸を司って居られる。主神はエホバであり、日本では天御中主神である。釈迦、マホメット、イエスには二流の神が憑った。一流の神様が憑られたので聞いてみると、主神の考えはわからないと言われました。」
図―22
主神様は人間・・人間は被造物です、御神体も被造物です・・には、絶対に憑らない。
この御教えを知っていたので、最初戸惑いました。今の形式にね。これを知った上で「五六七大神」と「御尊影」、二身一体の形式にしてましたので。
で、観音様を、先生と話してる時に、こういうのがあるんですと持ってきて、それを掛けようかと言って・・先生と会って一回目、最初の時に(御神体を)御巻き上げしてもらって、で、この観音様を掛けて、祝詞奏上した時に、先生が「すのおおみかみ」って奉唱されたんですよ。で、〇にゝ(チョン)が浮かび上がってくるので「すのおおみかみ」と御神名を唱えていいですよと。他ではやってないと思いますけど、そういう話があった。そういうのを経験しての話です。
図―23
ここに、書いてあるね。
私はこの二身一体、御尊影が上位ということを学び、「五六七大神」様を二身一体で御奉斎しておりました。そのような形式で御奉斎していたところへ先生にメシヤ講座に出張していただき学び始めました。
図―24
それで、〇にゝ(チョン)を意識して下さいということね。光背と白毫で⦿が浮かび上がってきます。だから『主之大御神』と奉唱して良いと先生が仰ったのです。で、これは次に話をしますけども、白壁に、奉斎の直前にね、伊都能売大御神様、さっき話しましたけどね。
先生は定山渓の伊都能売大御神様に主之大御神様の御神名を唱えました。という、要は主神様に帰一していくということなんだなぁと。
図―25
さっきの観音様というのはこの観音様ね。この観音様じゃないね(笑)・・これは僕が描いたんだから(笑)・・。
神習う座行観音様で、この〇とゝ(チョン)ね。それで、光背と白毫で主神様の御神名を唱えたということ。
で、白壁にというのは、前の家で二間床にした時に、支部発会というところで、御神体奉斎される前、御神床が出来て白い壁のまま何もないところで参拝をさせてもらってました。だから、想念でですよね。御神体があるものと思って。
図―26
で、これは僕じゃなくて・・・
参加者
こんなに沢山階段は無かったですけど、本当に上だけの3段になってて、その上に御神体というか光ってるのが見えて、「あぁ、最高最貴の神様なんだなって」。
三救責任者
勝手に180にしたけど、霊層界と一緒ですよね。さっきから181階級ってでてくるのね、これは一番上に主神様ということで。
図―27
これは、伊都能売観音様をお参りしましたけども、この伊都能売観音様に対して先生は主神様の御神名を唱えましたという、この事実は認識しておかないといけないと思います。
図―28
だから、これはメシヤ様のお腹の房のところね。房のところに光の玉があるので、ここが⦿(〇にチョン)が入ってるんだよと。いうことを、イメージした上でこの前に一直線に。さっきの話というのはここにつながってきますけども、そういう参拝の仕方。これは前々から言われています、先生が。
⦿(〇にゝ(チョン))の御存在に対し奉り宇宙の創造主たる主之大御神様へ想念をあわせる姿勢です。
⦿(〇にゝ(チョン))を意識し想念を確立することで、より直接的な祈りになりますと。
図―29
⦿の御神体、主神様の御神体御奉斎されて20年。御神体と共に先生の御神業があったわけです。⦿の認識をいかに多くの人に持っていただくかの歴史だったと言えます。先生の人生ですね。
先生は⦿の御神体に『主之大御神』様以外の御神名を唱えたことはないということを確認しておきたいと思います。
伊都能売大御神様の〇にゝ(チョン)と、この観音様の〇にゝ(チョン)に対して主之大御神様の御神名を唱えたことはあったけども、本当の⦿(〇にゝ(チョン))に対して他の御神名を唱えたことはありませんので!
図―30
⦿(〇にゝ(チョン))を意識することは主神様を意識すること。
主神様を意識し⦿(〇にゝ(チョン))の御神体に『主之大御神』様以外の御神名奉唱は、私は、考えにくいですよと。
大ミロク様について
三救責任者
大弥勒様の御教えというのは二つしか見つけられません。
「観世音菩薩即ち大弥勒と言います」という御教えと、「大弥勒というのは経綸の主体である」という御教え。その二つでもって、如何に展開するかですけども、無理があるんですね、これ以上の展開に。
あの時の、30年3月3日の時に大弥勒様の働きでもってメシヤ様。これは、西洋と東洋じゃないですか。
大弥勒とメシヤ。東洋と西洋。
メシヤ降臨と言われてますよ。弥勒下生と言われてますよ。
両方。言うなれば、東は経で西は緯。
要は3月3日に向けての働きの中で、あの時にメシヤ様を現すために働かれたのかなと。
経綸の主体というのは、その時が経綸の主体だと思うんですよ。僕が思うのはね。だから、結局はメシヤ様ですよ。メシヤ様=主神様じゃないですか。主神様の表現、人間界においてはメシヤ様が体現されてる。
それで、大弥勒という、もう一つの御教えは昭和10年頃の御教えです。「観世音菩薩即ち大弥勒」。言葉だけとらえると、あぁ、ずっと大弥勒かと思うけども、これはタイトルを見ると、ブログにアップしましたけども、「仏説の開扉」なんですよ。だから、観世音菩薩と大弥勒、観音様とね大弥勒、同じなんですよと。ということを、これが神秘なんですよと、今まで言ってこられなかったことを仏説を開扉するということの中の御教えで出てきてますので、そういうとらえ方だと。だから、善言讃詞に『世尊観世音菩薩此土に天降らせ給ひ 光明如来と現じ 應身彌勒と化し 救世主とならせ』と。最後、『救世主(メシヤ)とならせ』です。この、善言讃詞の流れを経綸と。これも経綸の主体ですよね。應身彌勒って彌勒って名前がね、仏的ですもんね。
参加者
そうですよねぇ。
三救責任者
先生は一つも大弥勒のことは言われてません。経綸の主体ということだけいわれてます。
〇〇先生のところでも聞いた教会長がおられました。気にしてるんですね。教会長の先生方が集まっていて「大弥勒というのはどういう神様でしょうか」ということを質問してました。その時、「経綸の主体としか書かれていません」と一言だけでした。実際そうですもんね。経綸の主体ということしかないですから。
参加者
経綸の神様って言って・・。
三救責任者
教義を見ても全ての経綸は主神様が司っておられるので、大弥勒様、経綸の主体のその一部ですね。
だから、どこに焦点を当ててどういう風な参拝をしていくかだと思います。
参加者
一般の人だってやっぱり大きな○○神社に行ってそれをもらってきてるっていうことはお伺いをたてるわけでしょ、多分ね。
参加者
おかしいですよ。
三救責任者
当然、色々自分につながりのある神様があるわけで、結局先生がそういう御神体御奉斎をもってメシヤ教を立ち上げられた、本当にその主神様の御神体ということに、先生が意義付けされてずっと来られたわけで、その話ばかりで、それで僕がこれ、先生に「主神様メシヤ様」の検索をしてこういうのですよと送った時に、それを本にしようかと言って、こういう風になって来たわけであって、最初はその太文字のところだけの話だったんだけども、全文上げた方がいいという話が多いということで、こういう本にまとめたんです。
結局は御神格を、「主神様とメシヤ様」というメシヤ様の御神格を求めるためにこの本を作ったんであって、あくまでも普段はメシヤ様のことはメシヤ様と御呼び申し上げて、教義に基づいて先生がそういう風に体系付けられてきたわけですから、その先生が作り上げてきたことを打ち崩すような考え方は如何なものかと思っています。
参加者
以前、御神体は御尊影にされるようにメシヤ様は言われたわけですよね?
それは、反対があったから出来なかったんですけれども、メシヤ様としてはお写真を御神体に、という御意思だったわけですよね。
三救責任者
今の話で、メシヤ様が主神様ですから、それはそうですよね。だけど、先生の考え方としては・・それは全然否定するものでもないですよ。御尊影をそう思われてそういう参拝で、だけど、⦿(〇にゝ(チョン))を意識して欲しいって。⦿(〇にゝ(チョン))を意識するには何がって言ったら、この御神体が手に入ったと、出すことが出来ると、だから⦿(〇にゝ(チョン))ですよね。海外を布教される時にはどうだという話がされてまして、国によっては国王のを方を上座にしないといけない、そういう所もあるわけで、そういった場合にどういう風に布教していくんだということが、考えると⦿(〇にゝ(チョン))ということをどこでも。⦿(〇にゝ(チョン))は御文字であって、太陽文字でもあるわけですね。古代文字とか見ていくと他の国でも⦿(〇にゝ(チョン))というのはあるわけで、そこを意識して主神様とつなげる説明の話の方が、焦点を合わしやすいじゃないですか。結局、僕が思うに御神体と言っても、さっきの話、絶対にかからないって言われてますから、憑るんじゃないんですよね。
参加者
なに?
三救責任者
主神様は御神体にかかりませんので・・かかる、かからないって思ってるとややこしくなります。
⦿(〇にゝ(チョン))を意識して下さいと。白壁でもいけるわけじゃないですか。だから、⦿(〇にゝ(チョン))を意識しやすいのは何かっていうことですよ。それが、御尊影であるならばそれはそれでいいです。何も反対するものでもない。御尊影であってもね。
参加者
濵口さんの場合はその「⦿(〇にゝ(チョン))を意識して下さい」っていう先生のお声のもとに観音様をずっと手を合わされてたから、⦿(〇にゝ(チョン))だったんですよね。なったんですよね。見られたんですよね、その階段を。
それは、つながってるっていうことですよね、⦿(〇にゝ(チョン))と。
三救責任者
だけど、その⦿(〇にゝ(チョン))の話は、僕は高田本山に仏教の話も知っておかないとと思って仏教講座を受けに行ったんですけども、前の仏像は置いてあるだけだと、そこの説ね。(笑)
そこの説は、〇と光背でもって全部手を合わしてきたんだと、という話を先生にした時に先生はそれいいねということで、さっきの伊都能売観音様のところの話の中でも突然口をついて主神様の御神名が出てきましたと、それはどういうことかと思った時に前に濵口さんが仏教講座に行って聞いてきたこういう話がありますということで、⦿(〇にゝ(チョン))を昔から意識して拝んできたんだよということがあるんですよということで、話をされてるので、あくまでも⦿(〇にゝ(チョン))の主神様ということで。
だから、一番主之大御神とお唱え出来る御神体は何ですかと言った時に、この御神体ですよと。⦿(〇にゝ(チョン))をイメージできますよね、そのまま書いてありますから。だから、想念の確立ができれば良いのです。かからないんだから。入り口なんだから。後ろにずーっと宇宙が広がってるそういう想念が持てますかということです。
だから、昔は御尊影はこういう形にしておくと並列としてとらえやすいので、一般信者の家庭には御尊影は御下付しませんって言われてました。御神体だけでした。それが「御尊影を」という話が上がって来たので。
霊壇用御神体もそうですよ。霊壇用御神体は僕が入った時はありませんでした。それは、仏は仏でという御教えがあるんだから、ありませんと。要はきちんと自分の処の形式、宗派に則ってきちんとお参りしてもらえばいいですと。そういう話でしたから。
それが、色々な人が入ってきて霊壇用御神体が欲しいという話になってきたので、整えたのですね。そこのところを分かっておかないと、元々は仏の世界、お寺と全然縁がないと、僕のところは縁が無いですから。○○○会で切れてるので。先祖の代で切れてるので、お寺と付き合いが無かったので、霊壇用御神体が無かったので、前の教団を辞める直前に奉斎しました。それは自分の気持ちで。
とらえ方が、自分でやっぱり考えて欲しいなと思うんですね。どういう御存在に対してどういう御神名を唱えていったらいいのだろうかとね。と、思います。
何も他を否定するつもりもないし、それはそれでいいと思いますし。
いいと思うけども、自分の頭で考えずに言われたままの御神名を唱えて、先生が作り上げてこられた参拝の形式を全く崩してしまうのもちょっといかがなものかなとは思いますけどね。
「主之大御神」様の御神名を唱えたいが故に先生としてはずっとメシヤ講座を開かれてきて、参拝の形式というのも整えられてこられたのですよ。
三救責任者
本当に、色んな事をやってて批判するものではないと、ただ、自分達は先生がやられてきたようにやっていきたいと思ってやってますと。
参加者
他のところを見てないですけど、でも、先生が全国を回られててその度にメシヤ講座があったわけですよねぇ。その内容っていうのは余り重きに置いてらっしゃらないですよねぇ。
三救責任者
30年3月3日からの動きは現実世界に反映していかないといけませんので、まずはしっかり浄霊をやっていくことと、メシヤ講座、御教えを学んでいくということをやって、先生がやられていたようにコツコツと最初の内はほとんど人が居ないところから増やしてきたわけですから、それを各拠点で「覚りの旅」をやったというのは何でかと言ったら、自分達でやっていける為に先生はああいう風に見越していたんだと思うんですよ。前に出て話をさせたと。皆にそこが拠点となって広げていってくれという思いがあったと思うんですよ。
まぁ、色んな考え方があるので、それはそれで善と信じてやってるんでしょうから。それはそれでそういう目で見てね、自分は御教えとメシヤ講座!これを中心にしてやっていくということで・・。
ということで、時間になりましたので終わります。
司会
では、本日、覚りの旅の研鑽を終わらせて頂きます。
参加者一同
ありがとうございました。