令和元年九月度『覚りの旅』御教え
「(ス)とユダヤ文化」
御教え集八号 昭和二十七年三月五日
「(ス)」というのを書いているんですが、いままでは丸ですね。ポチ・・・これが元なんです。というのは、いままでの世界は の力が出なかった。つまり主神は・・・人間で言えば親父が出なかった。番頭なんです。だからいままでの神様は、神様の番頭なんです。キリストだって釈迦だって、番頭なんです。キリストは天の父と言う。天の父というのは主神ですからね。だから肝腎の中心は、みんな隠されている。丸だけしか見えないし、それだけしか解らなかった。で、メシヤ教というのは、主神の力ということがあるんです。ポチですね。
それから、次のはこの前読みましたが・・三項目読んで、次のを之から読ませます。最近米国で結核菌を非常に急激に殺して了う薬が出来たと言うんですね。それを飲むと、直きに全部の結核菌が死んじゃうと言うんで、結核を簡単に治ると言う説を唱えているんですがね。で、之が日本に来るのは半年以上経ってから、日本に来るだろうと言う事になっている。けれども、未だ甚だ不確実の様で、はっきりは言ってないんですがね。で、今も書いてある通り、結核菌は伝染するんじゃないんだからね。自分でわくんですからね。だから結核菌を殺しても、後々わいて来るんじゃ何にもならないです。元を殺さなければね。それが解らないんです。今の犯罪者と同じです。犯罪者や貧乏人とね。犯罪者を警察や法律や刑務所や、色々なもので無くし様としているんですが、処がその元を無くさなければ、何にもならないですね。元を無くすると言うのは、人間の魂ですね。悪い事はしない。犯罪は犯さないと言うのを作らなければならない。それは信仰によって神様を知るんですね。神様があると言う事を信じてこそ、始めて悪い事が出来なくなる。その方法を全然閑却して・・閑却どころじゃない。そう言う事を言うと、却って迷信だとか言って弾圧する。そうして結果である罪を一生懸命に無くそうとしている。
之は何でもそうです。今、食えない奴が出来る。税金で苦しむ。と言う事を言っても、真面目で働いて居れば困る事はないんだから、貧乏で困るのはないんです。唯、困るのは病気です。病気で金を使う。だから健康になれば、之は解決するんです。だから根本の、因を解決するんです。然し今は、根本と言うのは解決出来ないんです。根本をはっきり解っても、どうする事も出来ないですね。今も言った通り、結核菌・・それを殺すと言う事のみ医学は研究しているんです。そこで今、私は書いている様に・・「 の文化」と言うのを書いているんですが、今迄は丸ですね。ポチ・・之が元なんです。と言うのは、今迄の世界は の力が出なかった。つまり主神は・・人間で言えば親父が出なかった。番頭なんです。キリストだって釈迦だって、番頭なんです。キリストは天の父と言うのは主神ですからね。だから肝腎の中心はみんな隠されている。凡丈しか見えないし、それ丈しか解らなかった。で、メシヤ教と言うのは、主神の力と言う事があるんです。ポチですね。だから、凡ゆる人間の災い・・その根本を解決していく力・・その点がはっきり解れば大体分かる解るんです。病気の原因も・・結核菌の発生すると言う事は、霊の曇りですから、霊の曇りを取れば、結核菌の因がないから、あと発生しない。と言うのは、あと発生しなければ段々無くなっていくんです。人間に寿命がある様に結核菌にも寿命があるんです。だから、段々無くなっていくんです。古い奴は段々死んでいくんです。処が段々出来ていくんです。子が生まれて、後々繁殖する様に見えるので、医学は間違えたんです。で、菌を本当に殺す事が出来る様な薬なら、人間も殺すんです。飲薬なら、胃に入りますね。胃から腸にいって、それが色々な消化機能の活動で、薬は方々にいくんですね。身体中にいくとすれば、その時分には、殺菌の力は無くなってます。又注射すると、血管をグルグル廻って心臓に行って、肺の黴菌の処迄いくうちに、もう気が抜けちゃっているんです。本当に殺菌するなら・・肺なら肺にやればそれは死にます。グルグル廻っても未だ殺菌する力があれば・・毒の強い奴だと、それは人間の命がないです。だから、結核を殺す様に、人間を殺す事になる。そうすれば徹底してますよ。それを一生懸命にやっているんですから、哀れなものですね。
「仏滅と五六七の世」文明の創造 昭和二十七年
それは経文には三千大千世界とあるが、之も逆であるから、私の善言讃詞の中には大千三千世界と直してある。というのは三千世界とは、神幽現の三界であるに対し、之を纏めて一つにすれば大千世界となる。大とは一人とかくのであって主神御一方が主宰され給う意味である。
其後釈尊は素晴しい予言をされた。それは今より数へて五十六億七千万年後、仏滅の世となり、次いで彌勒菩薩下生され、彌勒の世を造り給ふ。彌勒の世といふのは、居ながらにして千里の先まで身を運ばれ、居ながらにして千里の先の声を聴き、居ながらにして千里の先から欲するものが得られるといふので、其頃としては想像もつかない夢の世界である。処が現在の世界は最早右の予言通りになって来てゐるではないか。としたら物質的には已に彌勒の世となってゐるのである。処で今迄仏者が迷ったのは、此五十六億七千万年といふ数字であった。然し之は一寸考へただけでも直ぐ判る筈である。何となれば如何に釈尊と雖も現実的に、五十六億七千万年などといふ、途方もない先の世の中を、予言される訳はないからである。それ程先の世の中を予言したとて、何の役にも立たないではないか。言う迄もなく、それ迄に地球はどうなるか、テンデ見当もつかないであらう。之は全く五、六、七といふ数字を知らせんが為である。といふのは彌勒の世とは、私のいふ五六七の世界であって、此五六七を解釈すれば、五は日であり、六は月であり、七は地の意味になるからで、即ち順序正しい世界といふ事である。之に就て一層深い意味をかいてみよう。
今迄夜の世界といふのは、日が天に昇ってゐなかった時の事である。勿論霊界の事象ではあるが、之を小さく地球に譬えてみればよく分る。夜は月が上天にあって照らしてゐたが、段々地球を一周して、西の涯から下って地球の蔭に隠れる。すると太陽が東から昇って、中天に輝くとすれば、之が昼間の世界である。そうなれば天は火であり、中界は水素の世界で水であり、地は依然として地であるから、之が五六七の順序である。右を一言にしていえば、昼の世界とは、今迄見へなかった日が、中天に輝く姿で、それが五六七の世である。
又釈尊は或日弟子から、仏教の真髄を訊かれた事があった。世尊は『左様一言にしていえば、真如である』と仰せられた。真如とは無論真如の月の事で、其時既に仏法は月の教である事を示されたのである。そうして真如といふ文字は、真の如しとかくのであるから、真ではない訳で、此点もよく考へなくてはならない。それから仏典では、実相真如と言はれてゐるが、之は逆である。何となれば実相とは、真実といふ意味で、即ち昼の世界である。真如は夜の世界であるから順序からいって真如が先で実相世界は次に生れるのである。今一つ同じやうな事がある。それは経文には三千大千世界とあるが、之も逆であるから、私の善言讃詞の中には大千三千世界と直してある。といふのは三千世界とは、神幽現の三界であるに対し、之を纒めて一つにすれば大千世界となる。大とは一人とかくのであって主神御一方が主宰され給ふ意味である。
次に釈尊は斯ういふ事も曰はれた。此世は厭離穢土であり、火宅であり、苦の娑婆でもある。又生病老死の四苦があるとも云はれ、諸行無常、諸悪滅法などとも言はれたので、どれもこれも世を果敢なんだ言葉である。又一切空とか空々寂々とか、無だとも言はれた。そこで右の意味を総括してみると、どうせ此世は苦の娑婆だから、苦は脱れられない。人間は生れながらにして、苦しみを背負ってゐるのだ。いくら藻掻いたとて仕方がないから覚るのが肝腎だ、つまり諦めである。人間が如何に大きな望みを抱いたとて無駄であり、一寸先も分らぬ闇の世であるから、安心など出来よう筈がない。そうして此世は仮の娑婆だから、いくら骨折って造ったものでも結局は無になり、空になって了ふので、何事も永遠性はない。だから一切の欲望は結局一時的煩悩にしか過ぎないのだから、諦める事だ。諦め切って了へば、真の安心立命を得られるのだと説かれたのであって、之が仏教の真髄であるとしたら全く夜の世界の姿をよく物語ってゐる。此意味に於て万事は昼の世界迄の運命でしかない事を、遺憾なく示されてゐる。従って人間は実相世界が来るまで待つより仕方ない事で、それが今日迄の賢明な考え方であったのである。
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