2019年4月23日火曜日

平成最後の覚りの旅 平成31年4月度 勉強会を終えて






平成31年4月
覚りの旅 平成31年4月度 勉強会を終えて
司会
今日は114頁『巻頭言』、お願いします。

参加者
『巻頭言』拝読

「巻頭言」地上天国二十号 昭和二十六年一月二十五日

愈々、世界は無気味の空気が濃厚となって来た。勿論第三次大戦の不可避である事は、誰が目にも疑い得なくなった。といっても今直にそうなるとは思えないが、時の流れは仲々油断は出来ない。
そうして米国初め聯合各国の軍備は、碌々出来ていないので、ソ聯の軍備に比較したら、非常な懸隔があるであろうから、どうしても或程度の時を稼がない訳にはゆくまい。それが為何とか外交手段によって、一日でも引延ばそうと懸命になっているのが、昨今見られる通りの国聯会議である。
勿論、ソ聯と雖も充分の上にも充分の戦備を整えなければならない以上、聯合国程でないまでもやはり時を稼ぐ必要があろう。此様に双方で時を稼ぐとしたら、結局どうなるかである。
言う迄もなく遅れれば遅れる程、戦備が充実するからイザ戦争となるや、それだけ大きくなるのは勿論である。全く怖るべき危機はいやが上にも増大しつつある。
然らば此空前の大禍乱を前にして、吾々救世の大使命を担っているものとして、今後どうすればいいかという事が、痛切な問題であろう。言う迄もなく斯くの如き不安の渦中にあり乍ら、有難い事には吾々は前途の見通しがついているのみか、最後の土壇場に到ってメシヤ降臨という輝しい期待をさえ抱いているのである。そうしてメシヤ降臨は何を意味するかというと、勿論人類を救わせ給う古来からの約束である。としたら茲に一大奇蹟が表われるに違いない事は、絶対確信している吾等である。
所謂、それが最後の時であるとしたら其千載一遇の秋(トキ)に当って、神の僕として奉仕の光栄を有する吾等の多幸は、感激の言葉はないのである。

司会
はい、ありがとうございます。
今日は短かったですね。

図―1

31-4 図1



短いから1枚にまとまりました。
「巻頭言」ということで、世界の状勢、この時は昭和26年。不気味な空気、第三次大戦が迫ってるよという時ですね。
今すぐではないけれども、時の流れは油断できないんですよと。
怖るべき危機が増大しています。
空前の大禍乱を前にどうすればいいんですか。
誰が? 救世の大使命を担っている私達はどうしたらいいんでしょうか。
世の中は不安の渦中に居ります。
しかし、我々は前途の見通しがついているんですよと。
というのは、メシヤ降臨という輝かしい期待の意味を知ってますよねと。
人類を救わせたもう古来からの約束、昔から メシヤ降臨 とか ミロク下生 とかそういう事は約束されてました。その意味を知ってるでしょうということで、どういうことかと、一大奇蹟が表れるんですよと。それが最後のときであって、神の僕(しもべ)として奉仕の光栄を有する私達は幸せですね。
これだけのことね、書いてあるのはね。
で、「奉仕の光栄を」ということで、お出まし頂いたメシヤ様を再び押込めることなく「メシヤ様の御教えを宣べ伝えてまいりましょう」ということです。
お出まし頂いたんですからね。


図-2

31-4 図2


今のメシヤ降臨ということで、どういうこと?って、もう少しやっていくと、これは「新・伝導の手引」、中村市郎先生のところのまとめられたものでやります。
メシヤというのは罪の許し主なんですよ。
もし、贖罪で罪が人類より消えるなればすでに天国になっていなければならない。
キリストはイエスより一千年前に生まれた。本来、キリストとイエスは違うんですね。
それが再臨するわけである。キリストが再臨するんですね。普通言ってるキリストというのはイエスのことですよね。
キリストは救い主で、罪の許し主がメシヤで日本でいう国常立尊である。と、これ、あまりややこしくなってきますけども、メシヤ=国常立尊ということね。
一般にイエスとキリストは同一視されているが、本来「キリスト」とはイエス降誕以前の旧約聖書時代に「救世主」という意味で使われた言葉である。
キリスト教ではイエスが人類の罪を贖った救世主であるとして、イエス・キリストと尊称し、やがてキリストとはイエスを指すようになった。
ここではキリストとメシヤを同じ意味(救世主)に使われ、キリスト(=真の救世主)とイエス(=贖罪主)とをハッキリ区別して。これはメシヤ様がね、要は救世主というのと、罪の贖い主であるイエスとは別ものですよという使い方をされてます。


図―3

31-4 図3




審判の神ということで、
メシヤとは日本で言うと国常立尊様(*1)です。審判の神です。しかしこれもある時を限られたお働きで永久的(*2)のお働きではありません。
一厘の御魂はメシヤとは違います(*3)。
ここをちょっと覚えておいて欲しいね。
ある時を限られたお働きというと、今の時の、最後の審判で、最後の審判をする審判の神ですので、最後の審判の時の働きが国常立尊様で、国常立尊様は検事総長なので、裁判しなくてよくなったら引退するので、辞表を出すので(笑)。
何も裁判しなくてもよくなったらいいわけです。だから、ある時を限られた働き。地上天国になっていくという事前提でこう言われてるわけです。

*1 救い主は他の国に他の神名で現れる。だから、神様の名前は色々あっていいんですよということです。

*2 観音様は善悪無差別にお救いになり決して罪を
尤(トガ)めることはなさならいんです。だから観音様の信者は決して人の罪を尤めちゃいけません。
そういうことをすると観音様の御意志と違ってきてしまいます。
罪を尤めず、善悪無差別に救うのが大慈大悲なんですからね。
国常立尊様は裁きをなさるけど、人間がよくなれば裁かないんです。
国常立尊は仕事がなくなってしまう。まぁなんですね、検事総長を辞職するようなもんですね。
罪人があるから警察なんかがあるんですね。
ちょうど病人がなくなれば医者はいらなくなってしまうのと同じです。
だから私はよく言うんですよ。医学の発達なんてことはないってね。
本当の理想は世の中から病人をなくしてしまうことであり、従って医学がなくなってしまうことなんです。

医学がなくなるっていうことね。医学の発展していきますって、なくしていかないといけないということですよね。発展しきったところでなくなると。

図―4

31-4 図4


大本は、根本はってことだね、「大本は一厘の仕組であるから一厘の御魂が出たら世界はひっくり返るぞよ」とお筆先にあります。
一厘で手のひらを返すと。
一厘というのはつまり私なんですよ。私というのはメシヤ様。この時は明主様と言ってましたけど。
さっき、「一厘の御魂はメシヤとは違います」とありました。一厘の御魂は・・。御魂です。一厘の働きをする。だから、一厘の御魂というのは ゝ(チョン) であって、このゝじゃないよと。ゝが入ってるからね、体に。そういう意味だと思うんですよ。一厘の仕組というのは一厘の働きだと思って下さいね。
押込められていた国常立尊様が世に出られ世の立替え立直しをされるとの預言書「一厘の御魂が世に出られ一厘で手のひらを返す」ことが重要な命題となっていましたということで、私がやっていることは一厘で手のひらを返すことになると。
今までのあらゆる間違った文化をはっきりさせるためにひっくり返したと。
病気については、薬を無くしていきます。
食については、肥料を使わず増産していきます。農業をひっくり返すということです。
犯罪については、魂を神様とつなげれば犯罪はなくなります。これでひっくり返します。
すごいですねぇ。
すごい働きをしますよと。
で、メシヤ様の働きは一厘の仕組であるということで。
夜の救い、というのは暗(やみ)であると。昼の救い、昼間になったので「一厘」のお働きというのは審判と立直しでありますよということですね。
一厘の御魂はメシヤ様に宿られた。
メシヤ様とは違うけれども、御魂が宿られたので、お腹の中に。
ややこしいね。こう考えたらいいと思いますけど。
「この世の中は九分九厘というところまで悪の自由になりおりて今一息というところで一厘の御魂が現われて立替え立直しを致すぞよ」
「悪の世を善の世に振り替えて松の世、ミロクの世と致すぞよ」


図―5

31-4 図5


それから、天国の福音書「宗教は奇跡なり」で
主神様の知は観音様、光明如来様、救世主(メシヤ)様を通して働く ということで。
全知全能の神、万能の神は・・主神様ですね万能の神、全知全能の神・・観世音菩薩またの御名光明如来と現じ応身弥勒と化し、・・ここ、重要なんですけど・・、救世主(メシヤ)の御手を通じて・・ですよ。これ、善言讃詞の言葉ですよね。
「(前略)観世音菩薩此土に天降らせ給ひ 光明如来と現じ 應身彌勒と化し 救世主(メシヤ)とならせ・・」救世主(メシヤ)とならせって書いてあって、最後の方の論議してる「仁愛の御手に帰一され」というのを、 ミロクの御手に帰一され とか論議してますけども、ここには メシヤの御手に と書いてありますので、当然メシヤと読ましますよね。最初の方は救世主と書いてメシヤですけども、仁愛(じんあい)というのはその時に メシヤの御手に という事を言えなかったので多分 仁愛(じんあい) ということで、将来読むことも出来るようにだと思うんですよ。そのまま 仁愛(じんあい)の御手に帰一され と言えばいいじゃないですか。当時はミロク大御神ということで来てましたので、 ミロクの御手に帰一され という風に読ませたんですね。じゃぁ今は?と言ったら、どう考えても  メシヤの御手に帰一され じゃないの?と。

参加者
そうですよね。

司会
そうじゃなかったら、 大彌勒の御手に帰一され と言えばいいんじゃないのと。だけどそれは、大彌勒の御手に帰一され という御教えはありませんよと。
ここには メシヤの御手を通じてで、 と書いてありますよねということが言いたい。
自由無碍なる御活力を駆使し、多々ますます奇跡を示し給い、本教を期間として救世の大業を行わせ給いつつあるのである。ということが書いてある。ここだから、重要な御教えかなと思ったんです。

図-6(令和)

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真似して書いてみました。

令和、命令の令だね。平和になるのを命令するとか言う人もいますね。・・ま、そういうこともあるでしょうけれども。

参加者
それも、ちらっと思いましたけど、「よく」という風にとりました。

司会
万葉集のどこから引用したかというと・・こういうことも勉強しておかないとと思って本を借りてきました。(笑)

梅花の歌三十二首というのがあります。その序文。「文明の創造」でも序文がありますよね。その序文として、

天平二年正月十三日に、帥(そち)の老(おきな)の宅に萃(あつま)りて、宴会を申(ひら)き。時に初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわら)ぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫らす。加以(しかのみにあらず)曙の嶺に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて蓋(きぬがさ)を傾け、夕の岫(くき)に霧結び、鳥はうすものに封られて林に迷(まと)ふ。庭には新蝶舞い、空には故雁帰る。是に天を(きぬがさ)とし地を坐(しきい)とし、膝を促(ちかづ)け觴(さかづき)を飛ばす。言(こと)を一室の裏に忘れ、衿を煙霞の外に開く。淡然に自ら放(ほしきまま)にし、快然に自ら足る。若し翰苑(かんえん)にあらずは、何を以てか情(こころ)をのベむ。詩に落梅の篇を紀す。古と今とそれ何ぞ異ならむ。宜しく園の梅を賦して、聊(いささ)かに短詠を成すベし。

ということで、今の言葉でいくとですね、
梅花の歌ということで、天平二年、730年です。正月十三日に太宰府を守る人、大伴旅人の邸宅に集まって、宴会を開いたと。折しも、初春のよき正月で、天気はよく風は穏やかで・・。ここの話だね、「初春の月にして、気淑(よ)く風(やわら)ぎ」ということで、「令和」ってとってます。梅は鏡の前の白粉のように白く咲き、蘭はにおい袋のように薫っている。そればかりではない、明け方の嶺には雲が移り行き、松はその雲の薄絹をかけて蓋をさしかけたように見え、夕方のそそり立つ峰には霧がかかって、鳥はその薄霧に封じ込められて林の中に迷っている。庭には今年の蝶が舞い、空には去年の雁が去っていく。そこで天を屋根とし、地を座席とし、互いに膝を近づけ酒杯を取り交わす。一堂のうちは楽しく言う言葉も忘れ、外の大気に向かっては心を開く。こだわることなくして各自自由に振る舞い、愉快になって自ら満足した思いでいる。もし文筆によらなければ、どうしてこの心の中を述べることが出来ようか。漢詩に落梅の詩編が見られる。昔も今もどうして違いがあろうか。われわれもここに庭の梅を詠んで少しく短歌を作るがよい。
そういうことです。

言霊がいいと思いません?この万葉集でいくと。
だから、安倍首相も日本の古典からとるんだと。中国じゃなくて。という事を望まれる内容で、今までで初めてだそうです。万葉集からというのはね。
で、「令和」ということで、意味を知っておきたいですね。
だから、和やかな雰囲気で、要は天国のような状態。宴会だけど、自由気ままなんだけども、ギスギスしてるんじゃなくて、自分勝手に酒を飲んだりしてるけども、皆と膝を突き合わして話をしたりして心が豊かです、いい気持ちです、ということを述べてるわけ。だから、平和な様子、地上天国の様子かしらね。天を蓋、地を坐とし・・。桜の花見なんかでも天を屋根とし、地を座席とし、ですから。
これがまた、九州の太宰府ということで、そこへ集まってという。

参加者
そこへ沢山人が来てましたよね。これを詠まれたであろう場所に。

司会
それで、次に、言霊ということを考えてみました。


図―7


31-4 図7

メシヤ(Me si ya)と 令和(Re i wa)というのはですね、母音でいくと エイア と エ
イア。一緒なんですよ。だからこれ、メシヤ様の時代なんですね、間違いなく。この「令和」という時代は。ということを受け止めますという事と、

図―8


31-4 図8

大弥勒(ou mi roku)、とまぁ関係ある神様の名前を。ちょっと母音を覚えておいて下さいね。
昭和(siyou wa)、平成(hei sei) という事で、これをさっきの解釈をしますと、


図-9

31-4 図9


メシヤと令和の言霊は同じです。母音が一緒でした。
メシヤ・令和 に「オ ウ」がない。大弥勒・ミロク が「オ ウ」を補う。
昭和にないのは「エ」。昭和には「エ」がないね。平成が「エ」を補い令和へつなぐ。平成は「エ」が二つもある。「エ」を補い、令和へつなぐんだよと。これ、僕の解釈ね。

図―10


31-4 図10

で、昭和→平成→令和 すべてにあるのは「イ」。ということで、伊都能売思想が時代をつなぐんだよと。昭和→平成→令和とつないでいく。メシヤ様は「伊都能売神こと明主でありけれ」と言って、伊都能売神でした。
という事で、最初に伊都能売の働きをされてましたので、その働きというのが結んでいくんですよと。

図―11


31-4 図11

で、御教えだけでなくて、これは「言霊の会」の島田正路という人ですけども、もうお亡くなりになりましたけども、言霊の「ワ」について書いてあるのがありますので、そこからいくとですね、(図―11の絵を見ながら)これ「ワ」ですね、○は「輪」でもあり、平和の「和」でもあると思います。
ここ( 〇の右側の・ )を起点とした場合ね、甲と乙という人がいたら、互いに考え方が違うので、甲乙意見の相違を生じお互いに自分の主張を述べれば述べる程、曲線上の両者は遠ざかると。自分の言いたい事をわーっと言うじゃないですか、言いたい事を言ったら全然話が合わないから遠ざかってしまいます。人々の内容意見が悉く置き足らわして、しかも全体として調和する。全部言い合って、喧嘩になるかどうか分からないけど(笑)、言いたい事を言い合って、全部出し切った時に全体として調和してくると。これが言霊の「ワ」の内容であると。
両者が夫々自己の内容をとことん調べ尽くし主張し尽くした時、再び両者の間に友情が生まれ、輪の反対側の一点に於いて両者は再会する。手を握り合う。これが「和」ですと。「ワ」という事を考えると。

参加者
ほーぅ。

司会
すごくない、これ。

参加者
すごーい。

司会
言いたい事を言い合ってる、いま、こういう状態だよね。たいがいが。ここ(〇の上と下)で終わってしまうので。

参加者
そうです、そうです。

司会
さっきの、膝を突き合わせて・・じゃないけど、お互い言いたい事を言い合って、自分はこう思う、こう思うと。ずーっと、いやだぁって、延々とやってたら、たいがい出尽くしたら着地点が見えてくるでしょという。
善から見れば向こうは悪だ、こっちから見れば向こうが悪だってやってるわけですから、いつまでたってもそのままだとここですよという話です。

参加者
これは、言いたい事をちゃんと言っていかないといけないってことになりますよねぇ。

司会
そうそう。

参加者
今の朝ドラもそうですよね。(笑)

司会
今のは見てないけど・・。

参加者
この時期に反映されてきたのかなぁと思って。(笑)
北海道の開拓者の人たちの話で、開拓者の人たちは言いたい事を言い合って仲良くなってやって来たって。開拓者の人達が厳しい状況の中では言いたい事を言い合ってこないとやってこれなかったって・・。

司会
それはそうだよね。
それは宗教も同じじゃないですか。今は和を求められてるんだから。

図―12

31-4 図12


平和の名のもとに、○○主義の人達にとって押付けた平和。共産主義とか、色々主義主張を言う人ね、にとっては押付けた平和であり、ある人達には押付けられた平和。
言霊による大和言葉の平和を示す言葉というのが「ワ 和 輪」ですよという事で。
今の平和っていうのは、結局ねぇ、核とかを持ってるからやられたらダメだって言って大人しくしているだけで、押付けられた平和ということじゃないですか。
そこまでいかなくても、宗教界においても。

図―13


31-4 図13

で、ちょっとメシヤ講座を見てると、「散花結実の真の意味と今後のあり方」ということで
先生が話されてまして、これ、ミクラタナの神様の話の時に ゝ(チョン)がミクラタナの神様ですね。〇 の中に ゝ(チョン) が入ってと。
メシヤ様の御腹中の光の玉にミクラタナの神様が宿られて、ご成長されて、膨らんで、メシヤ様のお体がもたなくなったので、お体が散ったんだよと。それが散花ということです。
ミクラタナの神様という実がどんどん大きくなって地球上全体を包んでおられるので、世界中の人々にメシヤ様の御存在を知らせる、メシヤ様を認識して頂ければ霊性が高まっていくんだよと。メシヤ様を認識することで、霊性が高まるんですよという事。だから、メシヤ様のことを宣べ伝えればいいわけです。もう、分かるようになってきてるので、世界中を包んでくれてるので、だからどこに居ても浄霊出来るし、メシヤ様を思えばという事で、浄霊力伝授という事はそういうことであって、そこを自分達は知ったんだからね。知ったんだから幸せですよね。

図―14


31-4 図14

よく「メシヤ様に直に太くつながりましょう」って言うじゃないですか。これは先生が言いだされたんですね。先生が言いだされた意味というのが分からずにこの言葉だけが独り歩きして。間に入る人は関係ないんだよ、メシヤ様だよって言ってるというと、そこの思想には御教えはあるの?と、メシヤ講座はあるの?という事をきちんと考えていかないと、この言葉だけ独り歩きして、じゃ、あなた達は何を目指すの?という・・・。だから、今、ちょっと反対側の人の危うさも言ってるんですけど。御教えばかり押付けてきても駄目だよというのもあって、片方から言えば浄霊だけやってればいいんだという人の危うさもあるよと。両方で上手く中和というか、両方大事ですよという事を言いたい。

参加者
うんうん。

司会
偏るなよと。それが伊都能売思想であるので。あまり勉強したくないとかいう人はこの言葉を使って、「メシヤ様につながればいいんですよ」と言って、「メシヤ様は浄霊でしょ」って、「浄霊だけやってればいいのよ」という風なことで人を・・それだけの話しか結局できない。それぞれ個人に特徴があって、浄霊力の強い人はそれだけでね・・。
浄霊して奇跡起こして神様の事を知らせるという目的があって、メシヤ様の事を知らせるという目的があるので、そこはメシヤ様の事を学んだ上で伝えていかないといけないので、それにはやっぱり学び続けるというのも大事なので、そこを無くしてしまう人が多いなという気がしないでもないなぁ。
先生が言われてるのは、今まではメシヤ教の中での力強い浄霊力を頂くための取組みですと。非常に狭い取組みになってしまっていたと。色んな人に伝えてきてるんですよ。伝えてきてるんだけども、入ってきてる人の考え方自体が、結局伝えるにあたっても、メシヤ教でこういうことを知った人だけが幸せになっていけばいいわけじゃないので、自分が出たから言うわけではないけれど、先生も言われて・・こういう風な今まではちょっと狭い考え方があったよねという、皆の中にね。
これからは組織を超えてとハッキリ言ってます。どんな人にも、他教団の人にも、もっと大きい気持ちでどんどんメシヤ様のことをお伝えする。
メシヤ様と直につながれば浄霊力、大きい光と力を授かる。
それが今出来る時代になったんです。だから、組織ではないのです。という事をメシヤ講座28年7月に言われてますので。
こういうことの意味というのは、組織を超えてなんですよという事で、他の教団の人とも仲良くしましょうよという事じゃないですか。だから、それもまたメシヤ様につながるメシヤ様関係の教団の人だけでなくて、他の仏教でもイスラム教でも全部その機会があれば当然メシヤ様・・。だから太陽神のことも学んでるし、日蓮のことも学んだし、色んな事を学んできてるわけで、全部、仏教では観音様とか弥勒菩薩とかそういったことも全部学んできてるわけです。お釈迦様のこともやってるし、全部勉強しておけば、どんな人とでも対応できるし話も出来るし、一緒ですよねと。根本は一緒ですよね、ということが結局は全部主神様ですので、そこにつながればいいのかなと。そういう風に思います。

図―15

31-4 図15

28年の歌ばっかりなんですけど、短歌って三十一文字。の言霊の中には何万語何千万語も言い尽くせないことを三十一文字で言い表すんだから、これはスゴイ日本の文化ですよという事をメシヤ様は仰ってますので。そういった意味で、結構な数のお歌を詠まれてるものですから、今のこの時期、5月頃からのを見たんですよ。28年の5月6月頃のを。
で、
〇懐疑とは真理にあらぬ真理をば真理と思ふ心に湧くなり

参加者
ちょっと待って。懐疑とは・・・

司会
あの人、○○教を乗っ取るんじゃないかなぁと。真理にあらぬ真理を真理と思ってその噂を信じて真理と思ってしまう心に湧くのが懐疑ですと。
そのままじゃないですか。

 〇全人類神ある事を信ぜずばやがて平和は夢となりなん
 
〇一切の主義とう主義は消え去らん世は伊都能売の主義となりせば

もう全部、伊都能売主義ですって。

 〇経緯の思想は茲に全地球結ぶなるらん神の力に

西の思想も東の思想もですけど、経と緯の思想。物質文明。霊がかり神がかりもあるよね、という話もあるね。で、物も金もそれは必要ですからそれもあるよね。両方結んでいかないといけないという。もっと大きい話ですけどね、これは。

 〇光なり嗚呼光なり日の神の光は己に昇り初めける

もう日の神様の光っていうのはこの時に昇ってますよという話

参加者
既に。

司会
色々やってますけども、もう既に昇ってます。

 〇長き世を待たれしメシヤもキリストもミロクも今し天降るなり

これメシヤとキリストと分けてるね。メシヤ降臨、ミロク下生、もう・・。キリストというのはどういう風な意味でとらえているのか分かりませんけども、だからこれは全世界に向けてですよね、結局。ミロクもということだから、東洋も西洋もということです。

で、究極は

 〇力なり嗚呼力なり眼に見えぬ
⦿の力こそ絶対なりせば

ですから、⦿という、⦿の力というのが、ここが大事ですよね。


図―16

31-4 図1615




参加者
これ何?

司会
これ、アップしたんですけど。
今、リクルートスーツ、黒一色じゃないですか。黒が一番安いからととかそういう考えの人はそれはそれでいいんですけども、人間の個性を無くしてる、就職=個性を無くすこと ではないので、この加藤恵津子先生は「あなたには黒を着る権利も着ない権利も発生してます」と発信してるね。
全部一緒の人格の無いような人ばかり、要はリクルートスーツというのは作る側からしたら、色んな物があるよりも大量に売り込みたいので、同じような黒にして同じような格好のやつを一気に売り込むので同じ服を着た人ばかりで全然顔も覚えられないような感じになってる。それでいいの?って。
だから、ここに「就職する=個性をすてる」というメッセージが視覚的に固定化されるのは怖いですよという話。
リクルートスーツの画一化は生産者側の都合なのに、企業も学生も、あたかもそれが礼儀や人格と結びついているかのように思い込んでいるとしたら滑稽である。これが礼儀じゃないんですよ。これが人格じゃないんですよ。黒を来て欲しいのは作る側であって、会社側もちょっと違ったことをしてると、この人は協調性が無いと捉えてしまうとおかしいんじゃないのという、そこまでは書いてないけど。
大量生産側の都合じゃないですかと。大学入学時にまで就活に向けた服装操作が浸透しているんだよということで。これも実際国際的に言っても企業の主体性や創造性など学生への昨今の要求・・主体性を持て、創造性を持てと言ってるのに合理的な説明が出来ないでしょうと、世界に向けて、そんな風習があっていいのかと言ってるんですね。これは国際的人材獲得の弊害ですよと、障壁になりかねませんということを言ってます。だから、無意味なエチケット伝説を作り続ける就活支援業界であると。
戦争の時なんかは一緒の国民服みたいなのを着せられてってあるじゃないですか。あれを思うよねという話。えたいの知れない慣行に無批判に従う心性は平和のうちに断ち切っておかねばならない。だから、言いたい事を言えない人が多すぎる世の中ですよねと。もっと個性があるんだから意見あるでしょと。「同じ意見です」というのはおかしいでしょと。自分の意見あるんじゃないのと。○○主義とか、さっきのじゃないんだけども、自分の意見というのいうのは持たないといけないよねと。
だから、先生がいわれるように「思考停止」「視野狭窄」に陥ってしまってる人が多いと。テレビの情報だけをそのまま信じる、誰々のいう事だけを信じる、片方の意見だけ信じて、それはいいの?って。例えば、自分だけならともかく、他の人達に公平に情報を与えずに、自分の思った何も考えない人達が片方の意見にそのままついていっていいのっていう事。きちんと自分で確認して判断しなくてはいけないんじゃないのと、皆で話し合ってという。

参加者
すごいですね。そこにつながっていくんですね。

司会
そう読んだんですけど、これ。

参加者
そういう風に考えなくちゃいけないってこと自体に気付いてないですから。

司会
思考停止・・。

参加者
思考停止になってるから。私もそうだと思って。
色んな意見を聞いていかないと。

司会
だから、長いものに巻かれろの人が多いんじゃないのという話ですね。

参加者
はい、そうです。それも気付かずにそうなってます。

司会
ね、あの人が言ってるからって。
あの人がどういう態度かって見極めるには、やっぱり布教三訓を忘れるなってことでね。

参加者
何かその話し方とかもあると思うんですけど、ある程度カリスマ性があるじゃないですか。その雰囲気とかに流されるというか、そうだなぁって聞き入っちゃうと、自分の考えをそうじゃないよなぁって・・。

司会
それはやっぱり質問して見極めていかないと。
僕等も最初見極められなかったよ。


図―17


31-4 図17

司会
布教三訓を忘れるなってことで。
どのような高位の時所位を許されたとしても、この布教三訓を忘れた人は救済集団の中で
役割を果たすことはできません。
果たせないばかりか、不祥事を起こす原因をつくることにもなります。
布教三訓を実践せねばメシヤ様を教祖とあおぐ布教師とは言えず、教団人とも言えないことを肚に入れておかねばなりません。
先生、こう言われてるわけですからね。僕たちに対してね。メシヤ講座で言われてるわけですから。みんな布教三訓って言ってるけど、読んだの?って話。
布教の心得として、布教三訓がありますね。布教三訓とは何かというと。

図―18


31-4 図18

◎メシヤ様と共同作業をさせていただく
◎恩は着るべし着せるべからず
これは、下座の行ということね。偉ぶるなと。
◎寝食を忘れてやりなさい


図―19

31-4 図19


寝食を忘れて人を助けるということは只ひたすらがむしゃらにということです。
一途に取り組めば、寝ることも食べることも忘れるくらいになるんだよと。
誠ある人
愛の大きく深い人
負けん気の強い人
自ずとそういう姿勢になるんですよという。


図―20


31-4 図20


もう一つは「ルナ三訓」
威張るな 怒るな 早まるな
たくさんの人を救ったからと言って偉ぶってはいけません
それをやってしまうんですよね、人が増えてくると。
例として、分からない人は何度でも同じ質問を繰り返したりしますよね。分からないんだから。でも、「この前言ったじゃないか」って怒ってしまってはいけません。何回でも同じことでも答えてあげなさい。その人に染み付いたくせというものがあるんですよと。その癖にいちち腹を立てては人を救ってはいけませんよと。
先生は何回でも同じことを答えてましたよね。
先生は布教する人に言ってるわけであって、信者さんに言ってるわけじゃないんですけども。
あの人分からないなぁって言うんじゃなくって。
布教する側の人はこういう気持ちで話をしなさいよって言ってるのであって、・・何ていうかなぁ、自分等がこれを分かってないといけないよね。

参加者
うん。普段の、一般の生活の中でも言っちゃいます。

司会
自分達に置きかえればね。まぁ、その癖があるんですから。

で、あせって問題解決が出来ると思ってはいけませんよと。浄霊で言えば、平均浄化というのもあるでしょうと。


図―21

31-4 図21



もう一つ、三訓ということでいくと、渋井総斎先生が「焦らず 怒らず 怠らず」という事を言ってます。ちょっとこれを読ませていただきますと、

導いた人の浄化を解決するためにお世話をする。それが困難な人ほど前世に関係があった同志で生まれてきて師弟関係になってくる。
だから、礼節と順序は厳しいものなんだ。
神様の御用をする人は、代々夜の時代の建設者だった。いはば霊的な意味で罪つくりを沢山している。そして今、昼の時代に生まれて神様の御用をさせていただいて罪滅ぼしをするようになるのであるから浄化は厳しいよ。
その霊の浄めをいただきながら、ひとつひとつ浄化を解決していくなかで向上していく仕組みになっているのだから、浄化も厳しいが解決したときのその喜びも大きい。辛いこともあるが、辛いことだけじゃない。必ずその中には楽しみもあるはず。
その辛いこと楽しいことの繰り返しのなかで修行させられていくのだから、浄化に負けないでしっかりやりなさい。そして、そういうことを体験するほど将来のために大きな力になるのです。それには「焦らず 怒らず 怠らず」の三箇条を守っていきなさい。

渋井総斎伝の「御用の人」に書かれています。
これはメシヤ講座三重で21年4月にやりましたね。

こんなところです。
全部ブログにもアップしておいたけど。

参加者
両方に入ってるのはこれ(怒るな)ですね。(笑)

司会
そうそう、「怒るな」。
僕も怒りっぽいけど。

参加者
私も(笑)。
焦るし・・(笑)。

司会
威張ってはないからねぇ。

参加者
うん。

司会
こういうのが、何ていうか、教団をまとめようとする人の中には、こうなっちゃうんですね。多いね。

参加者
そのつもりじゃないんでしょうね。
気付かないから余計に難しいんですよね。

司会
全然気付かない。

参加者
本人の中ではまだ自分でも謙虚なつもりで。

司会
いるんでしょうね。


司会
やっぱり、御教えとメシヤ講座、ここの両輪でやっていかないと。当然そこには浄霊の話もあるわけで。


司会
今、御神体奉斎してるところというのは、先生からのつながりからして必要なところだったんですよ。他で、御神名とかも色々変わってくるかも知れないけど、自分達はその最高位の主神様の御神名を唱えていくという事が、そういう人も居なくてはいけないと思うんですよ。
僕はここを守っていかなくてはと思ってる。その教えを。

メシヤ講座を読んでないと分からない。御教えを読んでいてもメシヤ講座を読んでない。

ミクラタナの神様の事も書いてないけども、先生が解釈されて、それは別のところの、〇〇先生という方が〇〇先生のところに行った時に、〇〇先生がメシヤ様からお聞きになった話の中にミクラタナの神様の話が出てきてるので、それはあるわけであって。それで、僕等から言えば、加良比乃神社にミクラタナの神様がおられるという事実もあるわけで、これはどういう神様かと色々するわけじゃないですか、そうすると、現実のある事象とその教えというのが重なってくるのでこれは話していいだろうという事で先生は多分話されてる。そういう組み立てが無い限りは・・

参加者
つながらないですね。

司会
つながっていかないよ。

現実に起こってくる事と、御教えとあてはめていくのが正解であって、人を誘導していくようなんでは駄目だよね。
世界というのが念頭にないと、何かちょっと違うよね。だから、僕はどういう御神体であろうが参拝出来る。受け入れるという事だと思うんですよ。
有難い事に、〇にゝ(チョン)の御神体を頂いてる僕たちは幸せであって、他のところへ行ったら無いわけで、参拝しようと思った時にどうしたらいいかと、御尊影があれば御尊影中心にしていけばいいんだなという事も分かるし、御神体の「大光明」しか無いんであれば大光明というのは日月だから、地というのは自分の体であると受け止めて反映していけるというような意識でやればいいんだなぁとか。
他の観音様に行った時には〇にゝ(チョン)を意識すればいいんだなぁとか、そういうやり方を学んできたんであって、何もないところの自然に対しても、メシヤ大御神だったら言えるんじゃないかなとか、色んなその場所においての、三十三間堂でもね、観音様だし、千一体も集まってるし、〇にゝ(チョン)が全部あるじゃないかと。主之大御神というのは無理だろうけども、日を限ってやれば十月十日なりであれば、大弥勒様というのが言えるんじゃないかとか、そういう参拝の方法というのを考えながら色々参拝していったら、これはどういう神様だということで。三重県には一杯神様が居られるので、国常立尊様のところへ二月三日に行ってというのもいいことだったし、それじゃどういうのといったら神言をあげる時間があるよなと思ってあげた。そういう風なことを調べながらやっていく事を学んできたんであって、それを生かしていけばいいわけであって、こうじゃないとダメというのではないと思うんですよ。
そういう事をこれからもやっていきたいなと思います。

メシヤ教の本部は今度御神体御奉斎二十年ですから。区切りなんですよ。本当の区切りの時に来てるのかなと。
先生のやってこられた、積み重ねて、毎月みんなのところを回ってたわけですから、その教えを伝えていくという事であって、それ自体は、先生は、メシヤ様の事を伝えてるわけですから、先生じゃないよメシヤ様だよ、メシヤ様直結だよっていう人がいるけども、先生はメシヤ様と直結していたわけですから、一緒ですよね、という話です。結局はメシヤ様に直結ですから。

では、終わらせていただきます。


2019年3月3日日曜日

メシヤ降誕本祝典記念大祭にのぞむ 「覚りの旅」を兼ねる。

メシヤ降誕本祝典記念大祭にのぞむ

メシヤ降誕本祝典記念大祭
司会
祭典三分前になりました。
本日は、メシヤ降誕本祝典記念大祭です。
平成三十年三月三日メシヤ様が現界にお出ましになられてより、私たちはメシヤ様の御手足としてメシヤ様と共に地上天国建設の大業に邁進させて頂いております。
メシヤ降誕本祝典記念大祭は、三月三日という日にメシヤ様がお出ましくださったことを喜び、感謝申し上げ、新たな気持ちで日月地完全な救いの力を地上の隅々まで広げていくことをお誓いさせていただく日であります。

世界の大転換『明日の医術 第三編』昭和18年10月23日
『すべてに陰陽あるごとく一年にも寒暑の別あり、一日の中にも昼夜の別あり、十年にも昼夜の別あり、百年に千年に万年にもそれがあるのである。』
と御教えいただいておりますように昨年が三千年来の夜昼転換であるとすれば、今年の夜昼転換の起点を本日3月3日とし、経綸の主体である大ミロク様の御働きでメシヤ様がお出ましくださったことを、私たち人間が受け止めさせていただき、その御力を
聖地→三救→日本→世界 へと広げていかねばなりません。
現界のいかに多くの地に人に反映していけるのかが問われているのです。

そういう意味で、日本の真ん中、中京と言われるこの三重の地で3月3日に主神様の御前で祝詞を奏上させていただけることに感謝を持って祭典に臨ませていただきたいと思います。

心静かに開式をお待ち申し上げます。


(祭典)

挨拶

昨日は三救で、主神様に祭典挙行のお許しをお願いさせていただいて、箱根と熱海に参拝し、三救に戻り、帰着報告と夕拝をさせて頂きました。

日月の聖地を参拝させていただきましたので、この三救を基点に本日、地(土)の聖地にまいります。
京都聖地の土を踏み、
日月地・ミロクの御力を地域へ日本へ世界へ反映していきます。
大ミロク様、メシヤ様のお役にお使いいただきたい。
との想念を持ってまいりたいと思います。
みなさまどうぞよろしくお願いいたします。

三救→平安郷→三十三間堂→加良比乃神社→三救の参拝となります。

初めての参拝方法となりますが、メシヤ様お出ましの歓喜の心を伝えにさあ出発しましょう。

平安郷
ずいぶん長い間、春秋庵でお目にかかれませんでしたが、大彌勒御尊像を拝することができ歓喜に胸が震える思いでした。この想いが「歓喜」なのですね。

岡田茂吉記念館にて

玉持観音様
雲の上におられる。昭和9年作であり、大本教時代です。立教の時の昭和10年に地上に降りられた。そして玉を今にも地上に落とそうとしておられます。
観音教団の立教と、メシヤ様が観音様であることを教えておられるように思います。

巌上観音様
岩の上におられますので地上に降りておられます。昭和11年ですから日本観音教団として活動されております。

富士の絵 落款:自観 落款印:光明遍照 三界歸一
富士の絵は上から見ていると想像すると⦿の形です。主神様・メシヤ様のもとに神幽現の三界が帰一する。そしてあまねく光明の光を照らしていくという意味があるのだと思います。
今回この記念館で見せていただいた絵は観音様が一番の救いのもとであり、活動の幅を広げていったことを忘れるなと御教え下さっているようですね。

初めて見る御真筆でした。 「救いの光教団」のみが頂いた一点物 なのだそうですので、岡田茂吉記念館に貸し出しているのでしょうか。大変貴重な御真筆を見させていただいて感謝です。

三十三間堂 

全人類待望の炬光 大聖観音力の顕現併而(あわせて)仏説の開扉
東方の光3号、昭和10年2月23日
『弥勒と称えても三弥勒在られ、昔から報身、法身、応身弥勒と申上げているのである。報身は釈迦であり、法身は阿弥陀であり、応身は観音である。また日月地に配すれば日が観音であり月が阿弥陀であり、地が釈迦である。又地理的に配すれば日本が観音であり、東洋が釈迦であり西洋が阿弥陀なのである。又これを三尊の弥陀とも称え基督(キリスト)教で三位一体と称えるのもこの事である。(三尊の弥陀についてはいずれ詳しく解説する積りである)しかしてこの三位一体の力を独り具有され、大千世界の最後的救済を為さるのが、観世音菩薩即大弥勒神の御活動で被在せらるるのである。』

観音 → 光明如来 → 応身弥勒 → メシヤ  ・・・善言讃詞
観音 → 伊都能売大御神 → 大ミロク大御神・メシヤ大御神 ・・・今の御経綸
と考えました。
十月に結びの御神業として、伊都能売大御神様を中心とした参拝を三十三間堂および加良比乃神社で行わせて頂いたからこそ繋がった参拝だと思います。

三十三の意味は奥深いので、御教えから学ばせて頂きます。(末尾に記載)
また昨年は、岩戸観音堂での「三十三相に化現されるという、観音様の応身のお働きに感謝申し上げました。」という事もありました。

そして、
「正しい配置にする、神幽現三界の秩序が正される。
観音様に付き従った二八部衆+風神雷神や1001体もの観音様が思う存分大慈大悲の御手を差し伸べられるよう活動される。そういうことを意味していると思います。」

1001体もの観音様が大ミロク様・メシヤ様に帰一し救いの御力を発揮されておられるのだと、溢れんばかりの参拝者に思わせて頂きました。駐車場が確保できたことが奇蹟のようでした。
3月3日は、3という字が重なっている縁起が良い日であり、三十三間堂も3が重なっているということから「桃花会」が行われ無病息災を祈る日でした。
そして毎年恒例なのだそうですが、瀬戸内寂照さんの青空説法の最中でした。
そして、この日は無料拝観日でした。それでこんなに人がいたのかな。

加良比乃神社 参拝

三救 
奉告参拝および夕拝 

月次祭の「覚りの旅」を兼ねておりました。文字通り「覚りの旅」となりました。
感謝申し上げます。

本教と文化革命
『本教と文化革命』から学ぶ

今月のテーマから要点を絞って学ばせて頂きますと、
メシヤ様は確信を持って全身全霊で、救世の大業に邁進されました。
しかしながら、その現身から離れざるを得ませんでした。
今は、神界から救世の大業に邁進されておられることとお察し申し上げます。
とするならば、私たちがメシヤ様の身となって、メシヤ様の全霊を受け止めさせていただいてこそ、文字通り、全身全霊となって救世の大業に邁進し、地上天国建設が実現していくのではないかと思うのです。

そして、メシヤ様のお体は光の玉の大きさ(地球大)に耐えられなくなって・・・ということですから、メシヤ様の全身となり得るには、地球規模の人達がメシヤ様の御心を心として行動できるようになっていくことだと思わせていただきました。

メシヤ様の御心を自分の心として行動しようとするならば、根本は観音様なのですから、本日拝観させて頂いた1001体の圧巻の観音様と共に、
であり続けたいと思います。



三十三

『いろいろの話をしたいと思うんですが、たいていふだん気のついたことや思ったことは、しゃべったり書いたりしてますから、どうもふだん言わないようなことを話したいと思うんですが、そうたくさんはないわけですね。で、そうかといって、ふだん聞いているような話じゃ、せっかく遠くまで出てきて意味がないですから、なるべく珍しい話をしたいと、こう思ってます。で、これからお話するのは、今まであまり言わなかったことで、今度の講和ですね。一昨日から効力を発生したということになっておりますが、これはたいへん神秘なんです。みんなめでたい、めでたいと言って、国中喜んでますが、確かにこれはそれに違いないけれども、しかし誰も分からないようなもっとめでたいことがあるんです。これはあるいは、人類始まって以来のめでたいことかもしれませんね。というのは、大体今世界は――いつも言う通り、精神文化と物質文化と、離れ離れになって、つまり経の棒と緯の棒が結ばってないですね。ところが、緯の棒は――これもお話したことがありますが、物質文化の中心であり、ほとんど世界の物質文化の親玉みたいになっているのは米国なんです。今欧州の文明国がありますけれども、とうてい今日は米国のすばらしい物質文化にはかなわないです。ところで東洋文化ですね。精神文化の東洋文化の方はどうかというと、これもなんと言っても日本ですからね。日本こそ精神文化の中心であり、それからして日本はまた美術――この中心でもあるんですね。そこで経と緯と結ばなければならない。その結ぶ最初の起点ですね。はずみが一昨日の講和記念日になるんです。で、神様の方ではそういう経綸になっているんです。つまり世界が伊都能売になるんですね。そこで、つまり十字に結ばるわけですね。だから、講和を契機として、日本とアメリカはいっそう仲が良くなるんです。非常に密接になる。従って文化も、日本の文化がアメリカにますます入って行くんですね。それはアメリカでも、日本の特に古代文化なんか認めてますから、そこで日本の美術なんて、そういうものが、まだまだずっとアメリカに染み込んで行くんです。それとともにアメリカの文化がもっともっと日本に入ってくるんです。それで非常に――夫婦のように密接になるんです。そんな第一歩が講和記念日からなんです。それで初めて世界が伊都能売の働きになるんです。で、バッジですね。バッジがそれを現わしているんですよ。真ん中の赤が日の丸なんです。まわりの黄色がアメリカになるんですよ。つまりアメリカに日本が抱かれているんですよ。そうして十字に結ばって、真ん中がそういうふうになるわけですね。だからして、その意味からいって、このくらいめでたいことはないわけなんです。で、世界の文化というものは、そうなってからが本当の文化ができるんです。つまり偏らない本当の文化――それができる。まあ、すべて神様の御経綸で着々としてやられているんですから、そういう意味でメシヤ教もこれから非常に世の中に表面的に出てきて、つまり発展するわけです。その結ぶ仕事というものが、やはりメシヤ教がやるんですから、今まであまりそういう大きなことを言うと、山師みたいに見られますから、なるべくそれは言わないようにしてますが、実際においてそういうような時期になってきたんです。そこで最初の結ばる意味から言うと、日本の東と西と、この真ん中が、ちょうど中京になるわけですがね。で、緯の方は、日本は細長い国ですから、そう著しくないですが、経の方は長いですから、東と西がはっきりと別れている。その中心が中京になる。それで一昨日中京の教会に寄り道して一席話したんですが、その意味の話をしたんです。それで霊界における経綸を、私が説明したわけですね。だからそのつもりでこれからやられれば良いわけですね。で、なにごとも時期ですからね。こんなに病気が治り、貧乏、争いが解決できる宗教が、もっとどんどん発展しなければならないと、誰でも思うんです。私始めそういうふうに思っているんですが、それはやはり時期ですから、だんだんものが育って行くように、一歩一歩進んで行くんです。神様の方は、突如としてパッとなるということはないんです。それは、大自然の真理にはずれますからね。どんなことでも、一歩一歩育って行くんです。その代わり確実ですからね。時期さえ来れば、ちゃんとその通りになるわけです。ですから今度の京都に来た意味なんかも、やはり最初チラッとしたくらいのことが、だんだん一歩一歩具体化してくると、こういうわけなんです。
 それから、昨日おもしろいことがあったんです。昨日法隆寺に行った時に、夢殿というんですが、ふつうあまり参詣人に見せないですね。今までは一年に一回扉を開いて見せるということになっているそうです。昨日は突如として、夢殿が開いていたというわけですね。これは非常に不思議なんですね。やはり神様の方になにかわけがあるだろうと思って夢殿に行ってみますと、ちゃんと外の扉が開いて、中のお厨子の扉も開いて、そこに観音様の御像があるんです。はっきりは判りませんが、少し暗いですからね。それと遠くですからね。形が、等身大のお観音様です。それに札が書いてある。「救世観世音」としてある。救世観音様とも言いますが、これは昔から文献にないことはないんですが、ただ私はそれに「メシヤ」と仮名をつけたんですね。これは私が初めてやったんです。ですから、私の方から言えば、救世観音ですね。文献にはありますが、そういった観音様の御姿と私は思うんです。見たことがないですからね。大体文献には大きいのは六観音ですね。六つの観音様。それから小さいと言いますか、その中に観音が三十三体あります。救世観世音というのは、その中には一つもないんです。ですからそこに神秘があるわけですね。それで私は観音様の所に向かうと、観音様からスーッと霊気が入ってくる。実になんとも言えない良い気持ちです。そうして涙が流れそうになってきた。まあ、長い間待っていたというわけですね。それで、やはりそういった――神様の方にも時期があるんです。その時期が来るまでは、どうすることもできない。それで、今まで法隆寺の夢殿において時を待たれていたんです。で、いよいよ時が来て、昨日私が行ったために、これから大いにお働きになりたいんです。それで私に懸られたんです。ですから、実に時なんです。これからまた観音様が大いにお働きになるはずなんです。そんなような具合ですからして、一生懸命にやって結構ですけれども、ただ知って、時期の来ないのに、いろいろの心配したりすることは必要ないわけですね。時を待つということが一番肝腎なことです。そうかといって、ぼんやり時を待っていては――寝ていて果報を待て――式じゃ、これは駄目で、やるだけのことはやる。そうしてただ急ったり無理をしないということを心得ていれば良いわけですね。
 そういうわけで、京都の方々のお寺にあるいろんな仏様ですね。結局はメシヤ教が現われるのを、みんな待たれたんです。それで今度私が来たことについても、いろんな仏様は霊界でたいへんな喜びなんですよ。そういうわけですから、その仏様たちが、自分の宗旨の人をだんだん分からせるんですね。そういう時期が非常に近寄ってきている。この間私は日比谷の公会堂の時の話に、釈迦、キリストは私の弟子に相応するということを言ったわけですが、随分大きなことなんで知らない人は驚きます。信者の人は別に驚く人はないんですが、そうすると仏教の方で、法然、親鸞、伝教、日蓮、弘法――ああいう人たちが、私の孫弟子になるわけですね。だからいよいよ親父が出てきた。これはなんでも働いていろいろ手功〔柄〕をしなければならんということになるんです。そういうことについても、これからだんだん京都に地上天国でも造るようになりますと、そういう仏様たちがみんな寄ってきて、大いに私の言う通りに働くようになりますから、そうするとこっちの方も大発展をするということですね。だから非常に期待した時期が近寄ったわけです。』

【御教え】地上天国3号、昭和24420
『【問】法身(ほっしん)、報身(ほうしん)、応身(おうしん)について。

【答】報身――地――釈迦、法身――月――阿弥陀、応身――日――観音となり、観音が一番上である。
 法身は水の働きのみで彼世(あのよ)のことが主である。この世の救いよりは霊界すなわち浄土へ救うのが眼目である。阿弥陀は西方へ浄土を作って、仏すなわち覚者となったものを我方へ来るようにと釈迦に誓った。よく寂光の浄土と言うが寂光とは寂しい光すなわち月の光で月の霊界である。
 報身は地になるから下であるが、ある場合上になることもある。それは観音や阿弥陀を生んだからその母ということにもなる、親が子を生むというが、子が親を生むともいえる、つまり子ができて初めて親という名が生まれる。
 応身は一番働きが大きいんで、三位の働きを一身でなされるのである。応身とは種々の面に応ずることで一つものに捉われない、それで六観音三十三相に化身されるのである。なにごとも融通がきかなくてはいけない。相手が固苦しければこちらも固く、さばけておればこっちもさばける、相手により自由に応身する。ちょうど玉が転がるようにいささかも角があってはいけない。いわゆる円転滑脱である。女には女に向くよう、男なら男に合うようにその相手の好むようなことを話してやる。ところが世の中には自分の好きなことを相手に押しつけ従わせようとする。これは応身ではないから嫌われる。またこっちから話するより相手の話を聞くほうがよい。すなわち話上手より聞き上手になることである。』

【御教え】御講話 昭和10106
『も一つおもしろいのは、西国三十三カ所の観音様のお開帳がある。これはいままでに昔もなかったことでしょう。初めてです。去年国民新聞社でやると話したんですが、それがこれになった。やはり経費の関係などのためと思うのですが、電車会社が援助してやることになった。だいたい、東横、京浜、小田急などあの辺京浜間の電車、また、それに股がる寺で……
 観音様は奈良の東福寺、京都の清水寺、近江の三井寺など、いろんな西京の有名な観音様が来られてお開帳され、やはり十月十日から始まる。ちょうど絵図でみると、今度の玉川郷を起点として拡がっているようです。
 これも玉川郷ができるについて仕組まれたもので、これが一日で全部巡れる。たいへん割引され一日で一円二十銭で行ける。そういうわけでこれができたんで、十月十日から十一月十一日までで三十三日間、これはたいへん意味があり、ぜひ観音会でもできるだけ多く団体参拝として行きたいと思うので、二月五日に行くことになった。割引期間は九日までで、八日までになるべく今晩までに決めていただくといいと思います。
 これは観音会の大宣伝にもなる。また、今度の玉川郷の大きな宣伝にもなるから、人数の多いほどいい。どなたでもお知り合いの方できるだけ多く行っていただきたい。ちょうど陽気もよく京浜間の有名なお寺もみなあるし、観音様の御仏体もたくさんあるし、二度と拝めない名作もたくさんあるでしょう。ありがたく拝ましていただくというのが本当だが、実はこちらが本当で、名作を拝見するとしても結構です。』

【御教え】玉川郷秋季大祭御講話 昭和101111
『今日は、この間三十三カ所の札所を参拝しましたが、お開帳の最終の日になり、こちらは十月十日にお祭りしまして、初日から最終の日までちょうど三十三日間で、これについてはいつかお話したがたいへんな意味がある。先刻も会長さんが話されたように、もう観音様のほうでは決まっている。芝居のプログラムのようなもので、どうしようとこうしようと、決められただけのことは出てくるんで、やるだけのことはやるんで、口では言えぬくらいたいしたものなんであります。それを早く知るには信仰に徹底することで、そこへ来れば疑いがなくなる。』



【御教え】観世音の本体 観音講座 第三講座 観音講座 昭和1085
『 和光同塵(光をやわらげ、ちりにまじわる)
 観音様は人類救済の為にいかなる極悪な者も、獣や虫類に至るまでお救いを垂れられる為、馬頭観音のごとく、お姿を変えられて地獄の者までもお救いになられる。
 最高最貴の神様がこんなにしてまでも一切衆生を救われる。およそ人間は神様のお子である為、この苦の娑婆にあえぐ人間達を天国的生活に入らしめんと大変な御努力を遊ばされるので恐れ多い極みであります。何にも捉われず三十三相に化身されて融通無碍(ゆうずうむげ)、円転滑脱(えんてんかつだつ)、対手(あいて)に合せて喜ばれる様にされる。』

【御教え】御講話 昭和10 年211
『桃太郎は最勝妙如来である。必ず勝つのである。桃は三月三日に咲いて五月五日に実る。五月五日の鯉のぼりのことは非常なる意味がある。鯉は魚の観音である。真鯉の鱗は三十三枚である。』

観音様は
【御教え】観音講座 第二講座 昭和10725
『日―観音―南海大士 三十三相どころか非常に沢山に御名がある。
 勢至(せいし)菩薩といえば観音と共に働く時の名である。』

【御教え】御講話 昭和1051
『また、五月五日ということはたいへん観音様にとって意味があり、私が前に神界すなわち神様のほうの世界の経綸にかかったとき、桃太郎として初めて仕事のため出た日もやはり五月五日でありました。今度の五月五日もやはり桃太郎の仕事をすることになります。五月五日の鯉幟(のぼり)は今度の観音会のことの謎であったんであります。
 鯉というものは出世魚と言って一番出世するものの意であります。鯉は魚の観音様で、真鯉は鱗が三十三枚あるんで、三十三枚ないのは真鯉ではない。先に勘定してみたことがありますが、たしかに三十三枚あります。
 よく巧く行くことを登龍門をくぐるとか、または登龍門を登るとか言います。
 これは、支那のある川を鯉が昇り、だんだん昇って行くと上流のほうに登龍門というのがあってそこまで鯉が登ると言うことであります。
 鯉は出世魚ということから、五月五日に鯉幟を祝うのであります。
 江戸っ子は五月の鯉の吹流し口先斗(ばか)りで腸(はらわた)はなしということがありますが、これも神秘のあることで、私は江戸っ子ですから、口先ばかりで腸はないというほうであります。五月の鯉幟の口……
 観音様がやっておられるとすると、いい方から言えばそれになるから結構であります。
 観音様は一番位の高い所から一番低い位へ落ちて、それから一番高い位へのぼられるのであります。
 今年の五月五日から一歩出世したということになります。これは自分自身で出世したというのではなく、惟神で観音様がそうするんであります。』

覚りの旅  令和6年7月 月年祭を終えて

  令和6年7月1日 覚りの旅  令和6年7月 月年祭を終えて   三救責任者 月次祭おめでとうございます。   参加者一同 おめでとうございます。   三救責任者 令和六年七月度 覚りの旅の資料を最初に拝読していただけますか?   参加者 令和六年七月度 覚りの旅 資料 1 は...