7月度の『覚りの旅』で触れたいと思います。
世界救世(メシヤ)教早わかり(昭和25年11月20日)
本教の誕生
はしがきの総括として世界救世(メシヤ)教を加護するご神霊に触れられております。
『そうして本教は一切の誤謬を是正し、よりよき文化たらしめ病貧争絶無の世界たる、地上天国を造らんとするのである。此(この)様な空前の大目標を掲げて、其(その)可能を確信するというのであるから、先づ世紀の驚異といってもよかろう。併し乍(なが)ら此(この)様な救世の大事業は、到底人間力で出来るものではない。としたら茲(ここ)に偉大なる神霊が本教を加護されている事を、信じない訳にはいかないであろう。』
この文章を受けて、2月掲載の『本教の誕生』において明確に主宰神を明かされているのです。
『では最高神とは何ぞやというと、主神に外ならないのである。』
これが、『世界救世(メシヤ)教 教義』の冒頭に明記されているご神名なのです。昭和25年に教団人はこのことを自覚しなければならなかったにもかかわらず、『御神体も御守りも或時期まではそのままで差支えない』とされたことを多くの教団で今日まで引っ張ってきてしまったのです。
そして主神様のご経綸を担わせていただく上で認識しなければならないことを、以下のようにお述べになっておられます。
『主神の御目的は真善美完き理想世界を造るにあるので、それには凡べての条件が具備しなければならないので、神は其(その)時を待たれ給うたのである。其(その)時とは即ち現在であってみれば、人類は此事を先づ認識しなければならないと共に、自己自身の精神革命こそ喫緊時である』
時代認識と精神革命の自覚、実行を求められているのです。
<今月の御教え>
「『本教の誕生』世界救世(メシヤ)教早わかり」
本文は『天国の福音書続篇(一)神観 主神様とメシヤ様』19ページに記載されています。
御論文を拝読しての各責任者の覚り
支部長代理
京都で御教え研鑽させていただいた時に、「御論文を何度も拝読し、要旨をまとめてみる。そしてその御論文の内容を信者さんや未信者さんに話ができるようにしなさい。」と教わりました。そこでまず、『本教の誕生』を要約してみましたので読みます。
『人類は幸福を求め、唯心文化で失敗し、唯物文化で又失敗して、まだ懲りない。どうすればよいか。今迄の過誤を認識して再出発する事、精神に偏らず物質にも偏らない中正的新しい文化形態によってのみ天国は実現する。▼現在は恰度旧文化と新文化の交代期、世界的大転換時代である。▼この新文化を創造される神様とは、一神にして多神であるというのが本当で、最高神である主神様である。▼「時は今」真善美完き理想世界を造る主神様の御目的を認識せよ。そして自己自身の精神革命こそ喫緊時である。▼主神様は雄大なる構想を予め知らしめるため、メシヤ様を機関として一大経綸を行わせた。それが本教誕生の理由である。▼また、旧文化の中からも役立つべきものは残され、そうでないものは革正してお使いになられるのが、神様の大愛である。役にたたないもの、革正できないものは永遠に滅びる。これを最後の審判という。▼一信者にして奇蹟を現わす、本教の教によれば、真の安心立命を得て、浄血者となり、有徳者となる。▼地上天国を造る基本条件は、先づ個人の向上で、天国人たる資格を得た人間が増えれば、個人の集団である世界に、地上天国は出現する。』となりました。
私が気になりましたのは、25ページ3行目、『最高神は遥か雲の彼方に座し只人類は遠くから礼拝していたに過ぎなかった。』とあり、続いて『では最高神とは何ぞやというと、主神に外ならないのである。エホバ、ロゴス、ジュース、天帝、無極、再臨のキリスト、メシヤ等の御名(みな)によって、各民族各国家の人民が称(たた)え来(きた)った神である。』とあります。ところが別の御教えでは、『ところがいかなる宗教でも、その拝む的といえば、エホバ、ジュース、ロゴス、天帝、無極、天照大神、国常立尊、キリスト、釈迦、阿弥陀、観音等が主な神仏で、その他何々の尊、同如来、同大師等々色々の御名はあるが、もちろん立派な神仏には違いはない。中には稲荷や天狗、龍神など、低俗な信仰は別として、その根本に遡(さかのぼ)れば、独一真神すなわち主神一柱で在(おわ)す事は論のないところである(私は真理を書く 地上天国 28号、昭和26年)』 となっています。『各民族各国家の人民が称(たた)え来(きた)った神』とは?実はあらゆるものすべてを主神様が司っておられ、『主神御一方が主宰され給う(仏滅と五六七の世 文明の創造 昭和27年)』それぞれの国、地域で拝まれていた神様も『独一真神が分霊して多神となる』ので、根本に遡れば主神様のお働きである。いわゆる『一神にして多神』であった。とすれば、宗教、宗派、国をも超えているのですから「組織」というちっぽけなことにとらわれていてはいけない。それぞれの霊性が高まった人同士がどこにいても共振を起こすことで『地上天国』が実現していくのではないか。そして、霊性を高めるために、メシヤ様の御存在を深く認識し、自己自身の精神革命を急がねばならず、さらには皆に拡げていかねばならない。
「振り子を押して糸に振動を励起する」ことが私たちの役割なのではないだろうか。したがって、たとえ少人数であっても共振を起こすことができれば人類に大きく影響を及ぼしうると思う。 古事記の「御頸珠玉の緒もゆらに取りゆらかして」は、「共振を励起せよ」との意味が込められているのではないだろうか。
参加者の方々に貴重なご意見をいただきつつ、このように私の学びをまとめさせていただきました。
また、覚りを開こうとするあまり“御教えを難しく解釈してしまってはいけないのではないか”と思います。『真理は簡単でありまして複雑な事はない。(観音講座第一講座 昭和10年)』との御教えの通りだと思うのです。
そして、25ページ後ろから5行目の『自己自身の精神革命こそ喫緊時』ということを素直に受け止めたいと思います。
「覚りとは?」「自己自身の精神革命とは?」と思考しておりましたら、わかりやすい御教えを発見しましたので、紹介します。
『“どうも思うようにゆかない、困ることが多い”ということは、結局自分の霊界の地位が低いからです。自分の霊が向上すれば、その繋がっている枝でも幹でも、自分の地位の方に引っ張り上げられるわけです。私が いつも言う“分からなかったらウッチャラかしておけ、急(せ)って早く信仰に入れようという考えはいけない”ということはそういうことです。ですからそういうことはぜんぜん考えないで神様にお任せして、自分だけが一人でも多くの人を助けて、神様のお役に立つというようにすれば、自分の霊が上がって行きますから、 そうすると他の者も自然につり上げられるから、黙っていても分かるというわけです。結局において、根本の根本というものは自分の魂の居所にあるのです。ただし魂だけが上に行っても、自分の霊やあるいは肉体が伴わないということは、そこにまだ汚れがあるからで、それの浄化が起こるわけです。しかしそういう場合には浄化が早くすむわけです。そういうことが分かると、別に迷うことや苦しむことはないわけです。しかしそこまで覚れるということが、なかなか大変なのです。この覚りは本当の真理です。今までいろいろな宗教などで説いたことよりずっと上ですから、その点などがよく分かると、いろいろな、宗教、思想、哲学というものまで分かります。(御講話 昭和29年1月27日)』
私が大きな浄化をいただいたのも覚りを開いて自己の霊の向上に努め神様のお役に立つための有難い御浄化だったということが良くわかります。周りの人の霊籍も自然と向上されますように、更なる研鑽に励みます。
御論文の最後にまとめられていますように、まず、メシヤ講座に集う私たち個人個人が向上し、天国人たる資格を得て、地上天国出現を目指そうではありませんか。という風に纏めさせて頂きました。
楳木代表
はい、分りました。これはやっぱり、昨年の浄化を受けて、そして覚ったことを最後に付け加えてくれたので、これは非常に良かったかなって思います。
代表の覚りの変遷を読むことができる特選メシヤ講座
楳木代表
メシヤ教のホームページを今大きく作り変えて行っているのと、各支部、各出張所のメシヤ講座をそれぞれのホームページだけでなくて、メシヤ教のホームページにも載せるようになったのですが、自分でやりながら“何でこんな構成になってしまったのか”とちょっと疑問に思っていました。こうして皆さん方と新たな形で勉強会を始めると、皆さん方に覚りをお願いしておりますけれど、各支部の特性と皆さん方のお取り組みのお蔭で、私自身も支部を廻る度に覚りを許されていきます。その覚った内容をその場(各支部)でお話ししますので、メシヤ教のホームページに載っている「特選メシヤ講座」を順次読んでいると、私の覚りの経過がずっと判る様にもなっており、その事を神様は皆様に確認して貰いたい為に、“こういう構成になるようにして頂いたのかな”って最近思わさせて頂いております。
それから、この本『主神様とメシヤ様』は非常に素晴らしく出来上がって、しかも三重支部の皆さん方にご苦労頂いて本が仕上がったのですが、この本についても経過を「はしがき」のところへ書いておりますように、支部長代理が主神様の御神体という御存在を理解する為に全御論文、全御講話の中から『主神』様と表記されているものと、『メシヤ』様と表記されているものを検索することによって、浮かび上がってきた御論文を全部この本に載せているのですが、そういう風に支部長代理が発起してくれた事を通して見せて貰ったものを再構成しながら、こういう本を出していこうと決めたのです。しかし、実はこういう風に決めたのは、支部長代理と私が準備をして、そして、三重支部の信者さん方に校正の御用を担って頂いて仕上がってきた訳なのですけれど、実は神様の方で『今年から勉強させるために実は本を作らせたんだ』と、いう事なのです。(笑)もう私も一生懸命頭を捻ってどう構成にしたら一番いいかと思って作り上げたにも拘らず、『儂がさしたんだ!』と。もうガッカリするやら(笑)。全て神様に御導きを頂いて、そして我々は手足とならせて頂いて動いているのだという事をしみじみと思わせられることを今回又新ためて御垂示がありましたので、これからも一層メシヤ様の御手足として御神業に臨ませて頂かないといけないなあ、と思わせて頂いております。
今回の資料の後ろの方に紹介して頂いておりますように、先月の三重支部ではお話ししなかったことを出雲支部で話しております。出雲支部で話した内容というのはどうしても今、『夜昼転換』を迎えて、そして『昼の時代』を建設していくその為に世界救世(メシヤ)教を復興して御神業を一挙に進めて行こうという今、そういう取り組みをしているのですけれど、どうして『夜の時代』を迎えてしまったのかということ。素戔嗚尊が押し寄せてきたことでどうして『夜の時代』になったかということが、今一つ私の中では腹に落ちてなかった部分が。理屈では解るのですけど、腹に落ちてなかった部分があったので、出雲支部の月次祭の時に、そういう事を課題にお祈りをさせて頂きました。
『夜の時代』形成の真相と『夜昼転換』の実像
楳木代表
その時に、素戔嗚尊が中国の瓊瓊杵尊を引き連れて山口県の萩から上陸をして、そして、瓊瓊杵尊はしばらく宮崎県の高千穂に居るようにという事でお隠れになって、その間に素戔嗚尊は一挙に東に向かって行って伊都能売神皇様に「皇位を譲れ」と武力を以て迫りました。武力を以て迫ったので、「そういう方法では皇位を譲ることはできない」ということでお断りになりました。お断りになると・・・。それでは伊都能売神皇様が皇位をお譲りにならないと「日本人を毎日何十人、あるいは何百人ずつ処刑していくのでそれでも結構ですか?」という風に脅しをかけて、日本人を犠牲にすることは忍び難いということで、皇位を天照天皇にお譲りになって、そしてインドへ二十八部衆を引き連れて御降りになっております。
その事を知った素戔嗚尊は今度は天照天皇に「皇位を譲れ」とまた迫りました。しかし、天照天皇もこれは「武力によって治める皇位ではないので、譲ることはできません」というように御断りになったところ、毒殺によって天照天皇は崩御されました。そして崩御されて、王権の象徴である御頸珠を素戔嗚尊は奪って自分の首にかけて皇位を引き継いだと宣した訳なのです。
実はこの御頸珠にお罹かりになっていた御存在が『ミクラタナの神様』で在られた訳ですので、その時点で『ミクラタナの神様』は御本体の主神様にスーッと御戻りになりました。その事によって夜を迎えてしまったと、お祈りをした瞬間に腹にそういう風に納まりましたので、出雲支部で発表した訳なのですね。そして、『ミクラタナの神様』は『人間界からするとそれで間違いない』と、『そういうことだったのだ』と御垂示頂きました。
しかし、神界からすると本日触れたように精神文化が発展して、次に物質文化に移行する為の『夜の時代』にする為に主神様は『ミクラタナの神様』を引き上げにかかられたそうなのです。その『ミクラタナの神様』を引き上げにかかられた時に実は善悪のバランスが崩れて、そして、素戔嗚尊が皇位を狙おうという思いが沸々と湧き上がって日本に押し寄せてきた。ですから、これは深い深い神界の御意図としては、『精神文明がある程度発展したので、これから物質文明を発展させるという計画に移って『ミクラタナの神様』を引き上げにかかられ、そこに御頸珠に罹っていて、徳によって治める王権の象徴が薄まってしまったので、大きなバランスが崩れてしまった為に起きたことなんだ。』と御垂示を頂きました。
私の腹に納ったことは人間的には間違いなかったのですけれど・・・、だから、メシヤ様が昭和6年の6月15日に千葉県の鋸山で天照天皇を御迎えになって、そして、東京の日枝神社に御鎮座申し上げることによって『昼の時代』を迎える準備が整ったという事であります。
そして、御神業をズーッと進められて昭和25年6月15日にメシヤ様の腹中の光の玉に『ミクラタナの神様』が再度降臨されて、それでメシヤ様という御神格に御出世遊ばされた。しかし、その事はメシヤ様は色んな機会に弟子たちに御話されているのですけれど、弟子たちはその事を十分理解できない為に、弟子たちの間から「メシヤ様とお呼び申し上げる」となっていかないといけないのですが、どうしてもそういう状態にならなかった為に、昭和29年に御浄化に入られて、そして6月15日にメシヤ降誕仮祝典を執り行った時には、メシヤ様に向かって『天照皇大御神守り給え幸倍え給え』と称えた訳です。この事によって真に『夜昼転換』が行われるのと、『メシヤ様』という御存在が確固たるものになったのです。
しかし、僅か二ヶ月後にメシヤ様の御尊称を二代様はじめ役員たちが取り下げてしまったので、それ以来、『メシヤ』という御存在が消えてしまって何時まで経っても地上天国の建設が現実のものになっていかない。その最大の理由がそこにある訳であります。今回ずっと私たちがメシヤ教を通してメシヤ様の御存在というのを認識して、そこに繋がることによって、大変な奇蹟をずっと許されて来ましたが、この奇蹟を以て皆さんに知らして行きながら世界救世(メシヤ)教を復興していくというそういう御神業を愈々進めさせて頂く、そういう時期を迎えたのだという事をその一連の事から強く、今、思わせて頂いております。
時期は切迫している
そして、時代はいよいよ今上天皇が偉大なる決意を致しました。表舞台はご高齢を迎えた。また、時々忘れることもあるので、生前退位の御意思を国民にお伝えになりました。今上天皇のご挨拶は非常に深い意味があるのだという事を解っておいて下さい。(詳細は割愛)
そういうように時代は大きく移り変わろうとしているので、『ミクラタナの神様』がメシヤ教に対して、具体的な御指示、御垂示をされてきているのは、そういう理由があるからだと思います。もう一度神道を国事に利用して日本が戦争を起こすようになると地球上が破滅してしまいますから、これを食い止めていかないといけないので、天皇が大きな決断を下したという風に受け止めて頂いて御神業と繋げながら、今後の私たちの御神業に大きく、頂いている使命というものをこの機会に改めて持って頂きたいと思います。
神科学によって進められている
それだからこそ、私自身の事について少し触れて行きますけれども、実はメシヤ様が御昇天されたのが昭和30年2月10日で、その五日後の昭和30年2月15日に私が生まれているのですけれど、この五日開けたという事が神界が決定した事なんだと。それはどういう事かというと、天の数歌で「ひと、ふた、みー、よー、いつ、むゆ、なな、やー、ここのたりやー」と言った時に、これで現界が出来上がって来る時に、一は独立真神御一方で、二になった時に陰陽に分かれて、天之御中主神様を中心にして、高御産霊神様、神御産霊神様という風に分かれていきます。そして、三によって更に進展していくのですけれど、それを五によって今度は五六七(ミロク)という風に移していくので、この事を将来理解する為にそういう出生のさせ方をさせたのだ、と。
それと同時に私は源氏だということが今回分かったのですけれども、平家の落人の末裔の家に生まれさせて、相手は平家の落人なので、源氏がそこに生まれると非常に疎外感を与えてしまうという事と孤独感を与えるということ。この孤独感と疎外感の中で成長させて人生とは一体何かという事を、人が生きて行くという事は何かという事をずっと考えさせて幼児期を育てて、それから、この前も少し触れましたが、京都での最高学府の教授たちを与えて勉学に励ませたのだという話が来たので、“天の数歌の一が五になるとかいう事が論理的とは言えないなあ”と私がチラッと思ったら、また御叱りを受けまして、『何が論理的でないのだ!これこそが論理だ。』という事を御垂示されたときに、所謂、私たちは神科学、神様の科学とメシヤ様が何度も御使いになっておりますが、これは浄霊力と浄化作用についてだと私は解釈をしていたので、その点についてこれは非科学ではないのだ、と。神様をもっての科学だという風にずっと説明してきたのですけれど、実はこの宇宙を創造されて、そして、太陽系を創造されて、地球を中心に太陽と月を創られ、地球の中に生命を宿らせて、地上天国を建設していくというこの取り組みが天の数歌によって進められてきた、それが最大の論理なのだ。これが真の論理なのだという事を私自身が判らせて頂きました。これからもより一層、この神様の科学によって地上天国を建設していくという論立てを更に人間界に判るように論立てをしていきながら、これからより一層御神業を進めさせて頂きたいと思います。
人生と御神業
そういった事をやり取りさして頂く中で、本日拝読していただいた『世界救世(メシヤ)教教義』の前半はですね、『抑々、世界の創造主たる主之大御神(エホバ)は、この地上に天国を樹立すべく、太初より経綸を行わせ給いつつある事を吾等は信ずるのである。』これを真に信ずる事ができるか、ということで私はずっと科学的裏付け、論理的裏付けをしながらズッと勉学を進めてきました。そうしなければ、主神様が地上天国を建設する為に経綸を行わせられたということを信ずるかどうかということを人類全体に信じて貰えるかどうかという風にしていかなければ、地上天国建設は出来ないので、前半部分を今日までの人生でずっと積み上げて来たんだと、いう事であります。
これから、後半部分『今や、世界の情勢は混沌として帰趨を知らず、この時に際し、主神は吾等の岡田茂吉教祖に救世主(メシヤ)の大任を下し給い、人類救済の聖業を達成せしめ給うを信ずると共に』という所ですね。この『救世主(メシヤ)の大任を下し給い』という所は、世界救世(きゅうせい)教教義として読まれた中で、全く判らないようになってしまった。しかし、世界救世(メシヤ)教教義として、拝読していった時に、『救世主(メシヤ)の大任を下し給い』と拝読した瞬間は、メシヤ様が観音様から御力を頂いておられた時代から光の玉が腹中にずっと御存在しておりましたけれども、その光の玉に『ミクラタナの神様』が御宿りになった瞬間から『救世主(メシヤ)の大任を下し給い』という事ですので、この後半部分が究極的な答えとなっている。これからの御神業は“世界救世(メシヤ)教教義の後半部分を進めるんだ!”という事です。
勿論、前半部分も含めて“後半部分を一挙に進めるのだ!”という風に私の腹に落ちたので、その腹に落ちた瞬間に『それでいい』と。『それでこそ、楳木の中に熱が発生してくるので、その熱がずっと拡がっていって今度は信者さん方の中に熱が、自分自身それぞれの方の中に熱が生まれて、それが周囲にずっと拡がってくる』こういう取り組みが実は支部長代理が今回纏めてくれた共振ということになります。共振ということに繋がっていくという風に御垂示賜りましたので、これは私が覚らないと次の御垂示が来ないので、神界の御垂示が先ではないのです。そうしないとですね、こちらが覚らないと「御指示されたから動く」という形になるので、あくまでそういう事はなされないそうです。こちらが覚った分、次の御指示がきて、今もわんさかと御指示が来ていると、私が早く覚らない限り、次の御指示がこない(笑)。覚りというのは、答えでしょ?その御指示に対する答えが生まれてくると覚りになるのです。その覚りができると次の課題が来る。このやり取りが来年の3月3日まで続くという事なので、3月3日は絶対的なタイムリミットなので、その時から具体的に世界救世(メシヤ)教復興事業を一挙に進められる。我々が進めていかないといけないのですが、進めつつ、御力を存分に下さるということなので、皆さん方もより一層支部長代理を見習って覚りの道を一歩ずつ歩んで頂きたいと思います。
覚りのタイムリミット
受講者
タイムリミットが来年の3月3日なんですね。
楳木代表
3月3日。実は私は来年の3月3日までに陰陽の中で陽をそこまでに拡げ尽さないと、極めないといけないらしいので、そうしないと一挙に進めることができないので、その為には、善悪というのは、結びという事がどういうことかという事を導き出すために、悪も使えるようにならないといけない。その使い方等が来ているのですけれど、中々自分ではできないので。「おう、こういう事か!」ということになれないので(笑)。
今まで味わったことのないような課題が来てますので、そういうものと連動して皆さん方の周辺にも色んなことが起きて来ると思います。その起きていることに誠心誠意真向かって皆さん方を導いてけるように、そのように取り組んで頂きたいと思います。胸の浄化も、心臓の浄化もそういう風に受け止めて、そして、自分を見詰めながら御神業に臨んで頂くようにね。
その他各支部で物凄く今、責任者を中心に一番のトップランナーは去年から浄化を頂いた支部長代理ですが(笑)、みんな大変な状態を抱えているけれども、「死相まで出た、死にかけた支部長代理を見ていたらこわいことないでしょ?」って私はいつもみんなに言っています。あの支部長代理が生還してくれる。生き返って来るんで、あなたがどんなに苦しい、大変な浄化を頂いていたとしても、支部長代理の大変な大浄化をみているので、これは必ず必要な浄化だと思って対応してくれるようにすれば、そこから、浄化を乗り越えながら覚りを得られる。開けていくはずだから、とそういう御用を一方では支部長代理は黙ってしている(笑)。
こういう時代を迎えていくのはメシヤ教の中から迎えて来るという事は当たり前の事ですので、ただしかし、みんな浄化を許されるのだけれども、怖い部分があるから痛みが激しかったり、身体が変形して来たりと非常に怖いことがありますけれど、変形の度合いからすると、支部長代理の姿を見れば、80歳のおじいさんから、実年齢に相応しい身体まで回復してきたことを見ればどんな御浄化を頂いても怖くない。そういう力を頂いている、特にメシヤ教の各支部、出張所、集会所の責任者に勇気を与えて頂いている。この場を借りて感謝申し上げます。(笑)
そういう事を皆さん方に報告しながらこれからどのような事が起きても全て『昼の時代』を建設していくために、自分の周りに起って来ることなのでメシヤ様から御力を頂きながら力強く進んでいかせて頂きたいと思って頂けるようにお願いをさせて頂きまして、私のメシヤ講座を終わらせて頂きます。ありがとうございました。
受講者
まず『最高神が顕現され給う』っていうところが、いちばん私は素晴らしいところでありまして、そうして・・・常に日々生活をさせていただいています上に・・・必ず動物霊とかそういうのが私達にも無いというわけではないので、その分、“清い魂の持ち主にならなくてはいけない”って常々思わせていただいております。その為には、浄霊をいただき浄まらせていただきたく思います。
それはやっぱりこの御論文でいきますと・・・心の問題だっていうことですが・・・常にそういう清い魂の持ち主になりたいと思います。それから
『魂なるものは一種の発光体であって、動物霊は此光を最も怖れる』
ということは、ご浄霊の力をいただいて・・・、病気とか、そういうことだけではなく、人間としてそういう副守護霊がのさばらないように、日々感謝しつつ生活をさせていただきたいと思いました。中々言葉で感謝といっても、その時はそう思ったりするのですが、人様に対してそういうことがないという時はあまり時間的に余裕がなかったり、言葉としてずっとここにこらえていたりすると、本当はすごい“優しくして接しなきゃいけない”と思うのですが、言葉を短くするが故に、人を傷つけているっていうことが毎日あるので・・・。そこのところが、またそこがグタッとなったり“これではいけない”ってなったりというような生活をさせていただいています。副守護霊が萎縮するような生活をさせていただきたいと今回は思いました。
楳木代表
はい、ありがとうございました。
受講者
困っちゃった。(笑)
楳木代表
困っちゃった、と覚った。
受講者
はい。霊体両者の関係が真の科学っていうことで・・・自分が弱いと動物霊とか憑いちゃうので、いつも先生の祝詞の時に『夜叉龍神も解脱為し』とか、それから『メシヤの御手に帰一され』というところを“自分の願い”というか“そういう心を持って“日々祝詞を奏上させていただかなきゃいけないなあ”って覚りました。
メシヤ講座no.187浜松(平成28年9月)
魂がより発光体になることを目指して
楳木代表
はい、ありがとうございました。その他、何かあったら言っていただきたいと思いますけれど・・・。特にないですか?
先月回る中で、メシヤ講座のこの「覚り」という言葉があまりにもみんなにとっては難しく響いてくるのでね・・・、その説明の仕方がちょっと不足していました。
この月次祭は、○○さんがいま副守護霊の話をしたけれども、魂が発光体で居続ける為に月次祭で神様から御力をいただいて、そして魂を太くしていただく為に、『惟神霊幸倍坐せ(かむながらたまちはえませ)』というふうに御祈りしているわけです。だからそういう願いで月次祭にいつも来るということが大切なので、今日、○○さんはそういうことを決意して覚ったと発表したので、これから10月に向けてそういう生活をしてみた時に、10月の月次祭のときに“一体どうだったのか”ということを振り返りながら参拝をするというようなことで、積み上げさせていただきたいと思います。
月次祭は出発の祭典であると同時に、9月から10月、10月から11月ということを考えていくと、これはまた中間的なそういう御祭りでもあるので、継続性を持ってズッと考えていくようにした方がいいというのが『ミクラタナの神様』の御垂示でありますし。私の説明不足を神様から先月は叱責を受けましたのでお詫びしつつ、そのように「継続して取り組む。」という事に取り組んでいただきたいと思います。
それからですね、先月、全国で「覚り」ということについて、あまりにも大きい課題なのでどうしていったらいいか分からない為に、色々御教えに求めた人がいます。その御教えに求めてみたところ、昭和24年9月25日に発表されたですね、『悟りと覚り』という御論文があります。この「さとり」は「忄」の「悟り」とそれから自覚の覚という、覚えるという字の「覚り」ですね。これは短い御論文ですので皆様方にも参考にしていただきたく、ここで拝読をさせていただきたいと思います。
【『悟りと覚り(「地上天国」8号、昭和二十四年九月二十五日)』より】
『単にサトリといっても二種ある。即ち標題の如き悟りと覚りである。処で此二つのサトリは意味が非常に違ふ、寧ろ反対でさえある。
悟の方は消極的で、覚の方は積極的ともいえよう。仏教に於ても等覚(とうがく)、正覚(しょうがく)、本覚(ほんがく)などといひ覚の方をいふが、事実はそうでもない。仏教は悟の方が多いようである。というのは此娑婆(しゃば)は厭離穢土(おんりえど)とか火宅とかいひ、人間は生病老死の四苦からは逃れ得ないとしてゐる。それも間違いではないがそのような苦に満ちた娑婆を排除し革正して、極楽世界たらしめようとする積極性こそ宗教本来の役目であるに拘はらず、苦の娑婆はどうにもならない、諦めるより仕方がないといふ。洵に消極的退嬰的であるのは悟の方であるが実は、之が仏教の真髄とされて来た。
何よりも印度(インド)の衰亡の原因はそこにあったのではないかと思ふ。又今日の日本仏教が危機の状態にある事もその現はれであらう。然し此事実を吾々からみれば今迄夜の世界であったからで、愈よ時期来って昼の世界に転換せんとする今、一日も早く目覚めて、覚即ち自覚の境地にならなければ救はれないのである。』
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