令和元年八月度『覚りの旅』 御教え
「悪と守護霊」文明の創造 昭和二十七年
前項の如く、現在迄必要であった悪が、不必要になったとしても、そう容易(たやす)く追放される訳にはゆかないが、それに就(つい)ての神の経綸は寔(まこと)に幽玄微妙なるものがある。之は追々説いてゆくが、茲(ここ)で前以て知らねばならない事は、抑々(そもそも)宇宙の構成である。言う迄もなく宇宙の中心には太陽、月球、地球の三塊が浮在してゐる。そこで此(この)三塊の元素を説明してみると、太陽は火素、月球は水素、地球は窒素といふやうになってをり、此(この)三元素は勿論(もちろん)各々(おのおの)の特質を有(も)ち、夫々(それぞれ)の本能を発揮してゐるが、右の中(うち)の火素、水素の二精気が密合して大気となり、地球を囲繞(いにょう)しつつ、一切万有の生成化育を営(いとな)んでゐるのである。
そうして地球上のあり方であるが、之は陰と陽に別けられてゐる。即ち陽は火の精、陰は水の精であって、火は経(たて)に燃え、水は緯(よこ)に流れてをり、此(この)経緯(たてよこ)が綾状となって運動してゐる。此(この)状態こそ想像もつかない程の超微粒線の交錯であって地上或(ある)程度の高さに迄達してをり、之が空気の層であり、大気でもある。右の如く陽と陰との本質が具体化して、火水、熱冷、昼夜、明暗、霊体、男女等々に表はれてゐるのである。又之を善悪に分ければ陽は霊で善であり、陰は体で悪である。此(この)意味に於て善も悪も対照的のものであって、之が大自然の基本的様相である。
此(この)理は人間を見ても分る如く、人体は見ゆる肉体と、見へざる霊の二元素から成立ってをり、体と霊とは密接不離の関係にあって、人間が生命を保持してゐるのも此(この)両者の結合から生れた生命力によるのである。処が茲(ここ)に一つの法則がある。それは霊が主で体が従であって、之は事実がよく示してゐる。即ち人間霊の中心である心に意欲が起るや、体に命令し行為に移るのであるから、霊こそ人間の本体であり、支配者であるのは明かである。そこで霊は何が故(ゆえ)に悪心を起すかといふと、之が最も重要なる焦点であるから詳しくかいてみるが、それにはどうしても宗教的に説かねばならないから、其(その)つもりで読まれたい。といふのは善悪は心の問題であるからである。
偖(さ)て愈々(いよいよ)本論に移るが、右の如く人間は霊と体との両者で成立ってゐる以上、肉体のみを対象として出来た科学では、如何に進歩したといっても畢竟(ひっきょう)一方的跛行(はこう)的であってみれば、真の科学は生れる筈(はず)はないのは分り切った話である。之に反し吾々の方は霊体両者の関係を基本として成立ったものである以上、之こそ真の科学でなくて何であらう。
以上の如く善悪なるものは心即ち霊が元であり、而(しか)も霊主体従の法則を真理として、之から解き進める説を充分(じゅうぶん)玩味(がんみ)するに於ては、根本から分る筈(はず)である。処で先づ人間といふものの発生であるが、言う迄もなく妊娠である。之を唯物的にいへば男性の精虫一個が、女性の卵巣に飛込んで胚胎(はいたい)する。之を霊的に言へば神の分霊が一個の魂となって宿るのである。そうして月満ちてオギャーと生れるや右の魂以外別に二つの魂が接近し、茲(ここ)に三つの魂の関係が結ばれる。右の二つの魂とは一は副守護霊といって動物霊であり、多くは二、三才の頃に憑依(ひょうい)する。今一つは正守護霊といって直接憑依(ひょうい)はしないが、絶へず身辺に着き添い守護の役をする。勿論(もちろん)右の二霊共一生を通じて離れる事はないから、言はば人間は三者共同体といってもいい。其(その)様な訳で第一に宿った魂こそ本守護霊と言ひ、神性そのものであり、之こそ良心でもある。昔から人の性は善なりといふのは之を指すのである。第二の副守護霊とは右と反対で悪そのものであるから、常に本守護霊の善と闘ってゐるのは誰も自分の肚の中を思へば分る筈(はず)である。第三の正守護霊とは祖霊中から選抜されたものであって、不断に其(その)人の身辺に附添ひ、守護の役目をしてゐる。例へば災害、危難、病気、悪行、怠慢、堕落等々、凡(すべ)て其(その)人を不幸に導く原因を防止する。よく虫が知らせる、夢知らせ、邪魔が入る、食違ひ、間(ま)が悪いなどといふのがそれである。又何かの事情で汽車に乗遅れた為、危難を免(まぬが)れる事などもそれであり、悪に接近しやうとすると故障が起き、不可能になったりするのもそれである。そうして本霊と副霊とは常に闘ってをり、本霊が勝てば善を行ふが、副霊が勝てば悪を行ふ事になるから、人間は神と動物との中間性であって、向上すれば神の如く、堕落すれば獣の如くになるのは世間を見てもよく分るであらう。では一体副霊とは何の霊かといふと、日本人は男性にあっては天狗、蛇、狸、馬、犬、鳥類等の死霊(しりょう)が主で、其(その)他種々の霊もあり、女性にあっては狐、蛇、猫、鳥類等の死霊(しりょう)が主で、他にも色々な霊があり、又此(この)副守護霊以外臨時に憑(つ)く霊もある。斯(こ)んな事をいふと現代人は馬鹿々々しくて到底信じられまいが、之は一点の誤りなき真実であって、之が信じられないのは其(その)人は唯物迷信の為であるから此(この)迷信を一擲(いってき)すれば直(じき)に判るのである。何よりも人間は其(その)憑(つ)いてゐる動物霊の性質がよく表はれてゐるもので、注意すれば何人にも分る筈(はず)である。
右の如く臨時に憑(つ)く霊も、殆(ほと)んどは動物霊であって、偶(たま)には人間の死霊(しりょう)もあり、極く稀(まれ)には生霊(いきりょう)もある。では臨時霊が憑(つ)く理由は何かといふと、言う迄もなく其(その)人の霊の清濁(せいだく)によるので、曇りの多い程悪霊(あくりょう)が憑(つ)き易く、又元からの副霊の力も増すから、どうしても悪い事をするやうになる。此(この)理によって現代人の大部分は霊が曇り切ってゐるから、悪霊(あくりょう)が憑(つ)き易く活動し易い為、犯罪が増へるのである。処がそれとは反対に神仏の信仰者は曇りが少なく、善行を好むのは魂が清まってをり、悪霊(あくりょう)を制圧する力が強いからで、茲(ここ)に信仰の価値があるのである。従って無信仰者は平常善人らしく見へても、何時(いつ)悪霊(あくりょう)が憑依(ひょうい)するか分らない状態にあるので、一種の危険人物といってもいい訳である。此(この)理によってより良き社会を実現するには、清い魂の持主を増やすより外に道はないのである。そうして本来魂なるものは一種の発光体であって、動物霊は此(この)光を最も怖れるのである。処が現代人の殆(ほと)んどは魂が曇ってをり、動物霊といふ御客様は洵(まこと)に入りいいやうになっているから、忽(たちま)ち人間は躍(おど)らせられるので、百鬼(ひゃっき)夜行(やぎょう)の社会状態になってゐるのも当然である。而(しか)も其(その)様な事に盲目である為政者(いせいしゃ)は、只(ただ)法と刑罰のみによって悪
を防止しやうとしてゐるのであるから、全然的(まと)を外した膏薬(こうやく)張で効果の挙がる筈(はず)がないのである。何よりも国会を見ても分る如く、殆(ほと)んどの議案は法律改正と追加といふ膏薬(こうやく)製造法であるから、之を常に見せつけられる吾々は、其(その)無智に長大息(ちょうたいそく)を禁じ得ないのである。
以上の如く悪なるものは大体判ったであらうが、此(この)根本解決こそ信仰以外にない事は言うまでもない。併(しか)し単に信仰といっても其(その)拝む的(まと)である神にも上中下の階級があり、それが百八十一級にも及んでゐると共に、正神と邪神との差別もあるから、之を見別けるには相当困難が伴ふのである。世間よく熱烈な信仰を捧げても思うやうな御利益がなく、病気も治らず、行ひも面白くない人があるが、それは其(その)的(まと)である神の力が弱く、邪神の活躍を阻止する事が出来ないからである。而(しか)も困る事には此(この)状態を見る世人は、之こそ低級な迷信と思ひ、偶々(たまたま)本教の如き正しい宗教を見てもそれと同一視するのであるから実に遺憾に堪(た)へないのである。そうして昔から一般人は神とさへ言へば、只(ただ)尊いもの有難いものと決めて了(しま)ひ、差別のあるなど知らない為、甚だ危険でもあった。尤(もっと)も今日迄最高神の宗教は全然現はれなかったからでもあるが、喜ぶべし茲(ここ)に最高神は顕現され給ふたのである。
それが為今日迄の神は仮(たと)へ正しく共次位の階級であるから、其(その)力が弱く正邪相争ふ場合一時的ではあるが悪の方が勝つので、之を見る人々はそれに憧(あこが)れ、真似しやうとする。特に野心あり力量ある者程そうであるのは、歴史を見ても分る通り、幾多英雄豪傑(ごうけつ)の足跡である。成程一時は成功しても最後は必ず失敗するのは例外がないのである。之を霊的にみると其(その)悉(ことごと)くは邪神界の大物の憑依(ひょうい)であって面白い事には最初はトントン拍子にゆくので有頂天になるが、それも或(ある)程度迄で必ず挫折する。そうなると憑依(ひょうい)霊は忽(たちま)ち脱却して了(しま)ふ。吾々の知る範囲内でもカイゼル、ムッソリーニ、ヒットラーの如きがそうで、失敗後は人が違ふかと思ふ程痴呆(ちほう)暗愚的(あんぐてき)に気の抜けたやうになったが、之は大きな邪霊が抜けた後は誰でもそうなるものである。そうして驚くべき事は邪神界の総頭領は、今から二千数百年前、世界の覇権を握るべく、周到綿密にして永遠な計画を立て、現在迄暗躍を続けつつあるが、正神界の方でも之に対立し戦ってゐるのである。其(その)神としてはキリスト、釈迦、マホメット、国常立尊の系統の神である。
以上の如く主(す)神(しん)は正神と邪神とを対立させ闘争させつつ文化を進めて来たのであるが、其(その)結果遂に邪神の方が九分九厘迄勝ったのが現在であって、茲(ここ)に主(す)神(しん)は愈々(いよいよ)一厘の力を顕現され、彼等の大計画を一挙に転覆させ給ふ、之が九分九厘と一厘の闘ひであって、今や其(その)一歩手前に迄来たのである。従って此(この)真相を把握されたとしたら、何人と雖(いえど)も翻然(ほんぜん)と目覚めない訳にはゆかないであらう。
浄霊とは何か (医革 昭和二十八年)
今迄病気の原因と、その又原因である薬毒に就て詳説して来たから、今度は治す方法と其原理を詳しくかく事にしやう。勿論之こそ我浄霊法であって、その素晴しい治病効果は言い尽した位だが、病原とは霊の曇りにあるので、曇りさへ払拭すれば病気は治るのは当然であって、此理は科学的にも説明出来る。然し単に科学のやうに極限された小乗的のものではない。曰ってみれば此世界は大別して上中下三段階になってをり、之が一切万有の実相である。処が小乗科学に於ては、前記の如く唯物的分野に限定されてゐる以上、外形のみに捉はれ、進めば進む程皮相的緻密になるばかりで、其結果生れたのが黴菌医学である。従って病理の根本から益々遠去かり、逸脱して了ったのである。
そうして大乗科学の三段階とは上段は神科学、中段は霊科学、下段が物科学となってをり、此下段に生れたのが医学であるから、其レベルが低く幼稚であるのも当然であって其様な程度の低い科学を以て、最高度の人間生命の解決などは思ひもよらない話で、寧ろ僣越でさへあり、長竿を以て大空の星を落そうとするやうなものである。
茲で以上の如き三段階を一層徹底してみると斯うである。即ち今日迄の世界は物科学と霊科学との二段階のみであったが為、人間生命や病気健康等の根本まで分らなかったのである。勿論独り医学ばかりではない。凡ゆる文化がそうであって、永遠性のない一時的間に合せ物が其殆んどであったのである。という訳で治病方法にしても、前記の如く三段階中の物科学と、そうして霊科学中の信仰療法の此二つだけであった。前者は略すが、後者に於ては治病方法としては祈り、苦行、禁厭等であって、医学と同様見るべき効果はなかったのである。
又之は別の話だが彼の釈尊にしてもキスリトにしても、成程見真実の境地に達したとは云はれてゐるが、最高ではなく二段階の上位程度であり、智慧も力もそれ相応であって、絶対でなかった事は歴史の示す通りである。之も時期の関係上止むを得なかったのである。処が私に於ては右の第一段階の最高地位に置かれてゐる以上、無限絶対の大本元を把握してをり、一切の事物に精通すると共に、病気其他万般に渉って驚異的奇蹟を現はし得るのである。斯んな事をいっても、第三者は直に信ずる事は出来まいが、之こそ真理の具現である以上、何人と雖も結局信ぜざるを得なくなるのは断言して憚らないのである。然るに今日迄の人類はそこまで分らないが為、釈迦キリストを最高神仏として崇敬し信じて来たのであるが、事実がそれに伴はない為、人々は疑雲に閉ざされ、霊の実在を否定し、科学万能時代を生んだのである。
そうして聖書には再臨のキリストを予言してあり、仏教は彌勒下生を唱へてをり、猶太教やその他の教派にしても救世主降臨を待望してゐる。といふやうに夫々昔から期待はかけられてゐたが、只其時が明示されてゐなかった為、大衆はそれ等の説は理想の表徴位にしか思はず、いつとはなしに忘れられたのが現在の世界である。
私は今更自分が救世主だとも、再臨のキリストとも曰はない。何故なれば昔から今日迄随分そういう名乗を上げた者もあったが、みな煙の如く消へて了ったからで、今日それを唱へ出した処で、偽キリスト、偽救世主か大山師位にしか見られないのは分り切った話であるからである。要は実際問題であって、今後私の仕事の上に於て、救世主的救ひの力を発揮するか、キリスト再臨的威力を表はすか、彌勒や観音の力徳を顕現するか、天照大御神としての光明を放つか等によって、信ずる信じないを決めればいいであらう。つまり全世界の人々が公正なる批判の眼を以て観てくれれば私は満足であり、それ以外の望みはないのである。
話は戻るが、以上の如く物の科学、霊の科学、神の科学の三段階の原則こそ大乗科学であるとすれば、之こそ今後の時代をリードすべき最高学問であるといってよかろう。故に今日迄の科学が如何に程度の低ひものであったかは充分判る筈である。
従って我救世教こそ、最高最貴の主神が経綸し給ふ処の神科学の具体化であり、それから生れた浄霊医術である以上、超偉力を発揮するのも不思議はないのである。
何よりも事実が遺憾なく證明してゐる。例へばキリストの治病奇蹟にしても、一人対一人であったに対し、私は私の弟子をして、キリストと同様の奇蹟を日日無数に顕はしつつあり、其数も数十万に及んでゐるので、言はば現在已に数十万のキリストが日本に生れてゐる訳である。此神力こそ主神以外にあり得ない事は、常識で考へても分る筈である。
茲で浄霊に就いて一層詳しくかいてみるが、先づ私は一枚の紙片に光といふ文字を 書き、それを畳んで御守として入信者に渡すと、それを懐に入れて手を翳すや、忽ち掌から光が放射され、霊の曇りは解消し病は治るのである。此光とは私の腹中に在る玉の威力であって、此光は無限に放射され、霊線を通じて御守に伝達する。此理はラヂオを考へればすぐ分る。放送局、アンテナ、受信機の関係と同様である。以上長々とかいた事によって、読者は病気の根本が分り、医学の誤謬が明かとなり、治病の根本も会得されたであらうから、之が世界的に拡がるに於ては、病無き世界の実現は敢て難事ではないのである。
右の如く、黴菌の原地を潰滅する手段としての、術者の掌から放射される光としたら、此光は何かといふと、之を科学的に説明してみると、即ち曇りの中に含まれてゐる不純粒子が光に会ふや忽ち焼尽され、純粋水素のみが残るのである。それは光に含まれてゐる火素といふ熱の力であって、之を説明すると、火素とは光に含まれてゐる太陽熱の精で、言はば陽粒子ともいふべきものである。だが科学では水素はいうが、火素を言はないのは不思議である。然し火素は熱の霊であって体ではない。体は吾々が使用する熱い燃へる火であるが、霊の熱は超稀薄のものであって、体の熱に比べれば比較にならない程の強力なものである事は、実験によっても明かである。即ち濃厚な膿に向って浄霊するや、回を重ねる毎に漸次薄くなり、遂には清冽な水になって了ふ。之こそ火素の熱力によって毒粒子だけが焼尽されるからである。此理によって体内何れの深部にある膿や濁血と雖も全然身体に触れずして、浄霊によって溶解し、大部分は漿液となり、濃厚な分だけ排泄物となって出て了ふのであるから、最初手術の項にかいた如く、機能を何等損じないで、病気だけを除去する事が出来るのであるから、之こそ最も進歩せる文化的医術でなくて何であらう。そうして私の腹中にある光の玉というのは、仏教に於ては如意宝珠、神道に於ては麻迩の玉の名によって、昔から知られてゐるものである。
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