令和元年十二月度『覚りの旅』御教えは、
『私は主神の仕事をさせられている』昭和27年 「主神様とメシヤ様」・・・147P
『救い主と贖罪主』文明の創造 昭和27年 「主神様とメシヤ様」・・・51P

です。


「私は主神の仕事をさせられている」「秋季大祭御講話」御教え集十四号 昭和二十七年九月二十七日

最近はいろんな神様が お祝いおよろこびにずいぶん出てきます 天照大御神様もお祝いに来られたのです それから月読尊 伊邪諾いざなぎ尊などです。天照大御神は日本では最高の神様としてますが 主神ではないのです。つまり太陽神です 宇宙というものは太陽ばかりではない。月もあるし星もあるし地球もありますから その全体を握っているのが主神なのです それで 私は主神の仕事をさせられているわけですから そこでそういったいままでのえらい神様も これからこのメシヤ教のために大いに働くわけです そんなような意味のことをしきりに言ってますが そんなようなわけ  これから本当に現界的に始まっていくのです 現界的といっても 現界の奥の方に始まっていくのです 本当に現界に始まるのは五  七と それがそろってからが本当の現界です    
 
  今日で御祭も終わりですが、今度の秋の大祭は特に意味があるのです。この神仙郷が完成した最初の秋の大祭なのです。前にも話した通り此処ここは地球の丁度真ん中になるのです。中心なのです。これが講和以前では変な目で見られますから、そんな事を言う事は出来なかったのです。今だから言いますが、此処ここが地上天国の模型で、模型が此処ここに出来てこれが段々拡がって行って世界的になった時が地上天国なのです。そういう意味とすれば、非常に重要な意味になるわけです だからして、段々そういう風に拡がって行くのですから、非常に結構です。しかし良い方はそれで良いけれども、悪い方は・・拡がるに従って、汚いものは取り除かれる事になるのです。ですからその結果戦争も起こりましょうし、それから原子爆弾なんかによるぶち壊しもあるでしょうし、に角世界的の大掃除が始まるわけです。それにいて、いま多賀という人の奥さんに仏霊が憑って来て、盛んに明主様に御詫おわびしてれという事を言っているのですが、これは本当なのです。色んな各仏教の開祖、教祖・・それが中には予期したのもありますし、予期しない霊もあって、愈々いよいよ仏界が無くなるというについて、今まで良いと思ってやった事は大変な間違いがあった。だから御詫おわびして、とか今度の地上天国の御神業・・昼間の世界になる御神業を手伝わしてもらいたいというのが続々と出て来るのです。今のは今度「地上天国」に出ます。最近は色んな神様が、御祝い御よろこびに随分ずいぶん出て来ます。天照大御神様も御祝に来られたのです。それから月読尊、伊邪諾いざなぎ尊などです。天照大御神は日本では最高の神様としてますが、主神ではないのです。つまり太陽神です。宇宙というものは太陽ばかりではない。月もあるし星もあるし地球もありますから、その全体を握っているのが主神なのです。それで、私は主神の仕事をさせられているわけですから、そこでそういった今までえらい神様も、これからこのメシヤ教の為に大いに働くわけです。そんな様な意味の事をしきりに言ってますが、そんな様なわけでこれから本当に現界的に始まっていくのです。現界的と言っても、現界の奥の方に始まっていくのです。本当に現界に始まるのは五、六、七と、それがそろってからが本当の現界です。で、それについての第一段がこれから始まるわけです。第二段が熱海になるわけです。熱海の地上天国が完成すると本当の現界的になります。何時いつも言う通り、此処ここ〔神仙郷〕が霊界になるのです。現界の霊界です。で、熱海は現界の現界です。


「救ひ主と贖罪しょくざいぬし」文明の創造 昭和二十七年

ある期間悪が必要であったから深い意味を主神は知らさなかったのである。従って仮令たとえ正神といえども知り得るよしはなかったので 正神は何処迄どこまでも正義のみによって天国世界を作らんとするに反し 邪神は何処迄どこまでも目的の為手段を撰ばず式で 悪によって野望を遂げんとしたのである 

 これまで悪についての根本理論として 悪が必要であった事 悪によって今日 ごとき文化の進歩発展を見た事をかいて来たが ここで今一つの重要な事を かねばならない。それは有史以来今日まで幾多の宗教が生れ 説くところは例外 く善をすす 悪を極力排斥したのであった。勿論もちろんこれは悪ものを除く が宗教の建前であるから勿論もちろん当然であるが それについて私はよく ふ質間を受けたものである。〝一体神や仏は愛と慈悲の権化でありなが 悪人を作ってをいて罪を犯させ それを罰するといふのは大いに矛盾 てゐるではないか。それならいっそ最初から悪など造ってをかなけ  罰を当てる必要もないから それこそ真の神の愛ではないか〟 いふのである。なるほどこの質問はもっと千万せんばんで一言もないが 実をいふと私 しても同様の考へ方であるから 都度私はう答へる。〝なるほどそれ は違ひないが 元々私が悪を作ったのでないから、私には説明は出来 い。つまり神様が何か訳があって悪を作られたのであるから いず 神様はそれについての 根本的理由をお示しになるに違いないから  まで待つより仕方がない〟とったも である。
ところ愈々いよいよ時が来た で神は事を詳しく啓示されたので 私は喜びにへないのである。 うして右と同様の疑問をってゐる人も多数あるであら から これを読んだなら 暗夜に燈火を得たごと豁然かつぜんと眼を開くのは勿論もちろん あらう。では何故なぜまでの宗教開祖のことごとくが悪を非難した といふと さきにも詳しくかいたごと ある期間悪が必要であったから 意味を主神は知らさなかったのである。従って仮令たとえ正神といえども知り得るよし なかったので 正神は何処どこまでも正義のみによって天国世界を作らん するに反し 邪神は何処どこまでも目的の為手段を撰ばず式で 悪に って野望を遂げんとしたのである。
ところ愈々いよいよ悪の期限が来た  主神の直接的力の発揮となった事で ここに私といふ人間を選  善と悪との根本義を開示されたのである。それといふのは今まで 各宗開祖は力が足りなかった。最もいい例としてはのキリスト ある。キリスト自身は贖罪しょくざいといったが 救ひ主とははな った。贖罪しょくざいとは読んで字のごと 罪のあがなひ主である。つまり万人ばんにん 罪を一身に引受け 主神に謝罪をし ゆるしをふ役目である。早くいえば万人ばんにん 代理者であり ゆるされる側の神で ゆるす方の神ではな った。為罪の代償として十字架にかかったのである。
この理は仏教につい いえる。の釈尊が最初は仏教によって 極楽世界を造るべく数多く 経文きょうもんを説き 専心教へをれたのであるが どうも予期のごとく進展 なかったところへ仏典にもある通り〝吾七十二歳にして見真実を得た〟 はれた通り この時自己の因縁いんねんと使命を本当に知ったのである。 こでこれまでの誤りを覚り 極楽世界出現は遥かに先の未来である事 分ったので これまで説いたところの経説には誤謬ごびゅうの点少なからずあり  ら説くものこそ真実でありと告白し 説いたのがの法滅尽経 あり 弥勒みろく出現成就経であり 法華経ほけきょう二十八ぼんであったのである。一言 していえば釈尊は仏滅すなわち仏法は必ず滅するといふ事を知  後に至って現世的極楽世界である弥勒みろくの世が来るとはれた は有名な話である。ただここで時期について注意したい事は、釈尊は五十六億七千万年後ミロク 世が来るとはれた。しかしよく考えてみると いくら釈尊でも 途轍とてつもない先の事を予言するはずはない。第一そんな先の事を予言 たとて 何の意味もないではないか。何故なぜならばそん 遠い時代 地球も人類もどうなってゐるか 到底想像もつかないか である。これは神示によれば五六七の数字を現はす為で この数字こそ深 意味が秘めてあった。すなわち五は日(火) 六は月(水) 七は地(土)  これが正しい順序であって 今日までは六七五の不正な順序 あった。之は後に詳しくかく事として かくキリスト 釈尊 二大聖者といえど 真理は説けなかったのである。何よりも経文きょうもんやバイブル しても明確を欠き 何人といえども到底真理の把握は不可能であっ にみて明かである。勿論もちろん時期の関係上止むを得なかったのであ 
ところここに主神は深奥 る真理を愈々いよいよ開示される事となった。この著に説くところ明快にし いささかの疑点なく 何人も容易に真理を掴み得るのである。そうし まで強大なる悪の力が一切を九分九厘まで掌握し 後一厘といふ間際まぎわ 来て 意外にもここに一厘の力が現はれ 邪神の謀略ぼうりゃくを一挙にくつがへす である。つまり悪主善従であった世界が 善主悪従となるのである。 うして之を具体的にいえばうである。すなわち九分九厘の悪 は現代医学であって 之もさきにかいた通り必要悪であるから まで れでよかったのである。しか結果として人間の最大貴重な生命を完全に握っ しまった。し医学が誤ってゐるとすれば 生命の危険は言語に絶す といってもいいであらう。之程世界人類から固く信じられてゐ 医学を是正ぜせいするのであるから 容易なわざでない事は言ふまで い。