教祖祭 挨拶 令和二年二月十日
2月10日は教祖祭です。
それぞれの御神前で執り行っていただきますので、早めに挨拶文を掲載させて頂きます。
それぞれの御神前で執り行っていただきますので、早めに挨拶文を掲載させて頂きます。
令和二年二月十日
三救責任者
教祖祭 挨拶
みなさんこんにちは。
本日はそれぞれの御神前で教祖祭を執り行っておられることと思います。
昨年は、メシヤ講座と『入門と奥座敷』から挨拶させて頂きました。
初めての方もおられると思いますので、繰り返させて頂きたいと思います。
《教祖祭という日は、メシヤ様が肉体というものを持ってこの世に降りてこられて、そして肉体としてのご一生を終えて神界にお還りになった日であります。私たち信者からすれば、この日はメシヤ様が御一生を懸けて、人としてあらゆる御苦労をされて、そして、私たちに
を教えてくださって、神界にお還りになられた、という日です。『メシヤ様がなされようとされた本来の御神業』を力強く推進させていただく、という決意をみなぎらせなければいけないという、想いで祝詞を奏上させていただきました。」 メシヤ講座より》
『本来の御神業の推進』ということを、先生は平成24年2月の教祖祭(この日は三重の月次祭でもありました)で打ち出されました。
そして、私たちの取り組みから、とにかく、感化を与えていくのだとお話しされました。
感化を与えていくときの中心は「浄霊力」です。メシヤ様が御昇天されて65年になります。本来もっともっと素晴らしい奇蹟に溢れる浄霊ができるはずですので、もっともっと「浄霊力」をみんなで伝授していきたいと思います。
それでは、教祖とはどのような御存在なのでしょうか。
これは、『入門と奥座敷』に詳しいのでそこから学ばせて頂きます。
私たちは岡田茂吉教祖を『メシヤ様』と尊称します。教祖をメシヤ(救世主)と信ずる信仰です。
私たちは主神様とメシヤ様のご関係を、この御教えに求めて「主之大御神様には、ただひたすらに全宇宙のご経綸に対する感謝と真善美全き恒久平和の理想世界実現の祈りを捧げさせていただき、具体的な祈りをメシヤ様に捧げさせていただく」という姿勢をもちたいものです。
メシヤ様に祈りを捧げる時に大切なこととして『入門と奥座敷』では、
1.メシヤ様という御存在
2.メシヤ様からいただくもの
の二点をあげられました。
1.メシヤ様という御存在
メシヤ様はどのような御存在なのでしょうか。
2月4日は立春祭であると同時に、世界救世(メシヤ)教の開教記念日であります。
メシヤ様はその開教の挨拶の末尾で、次のように御教えくださいました。
【御教え】世界救世教の誕生に就て 開教の辞 救世48号、昭和25年2月4日
『善悪を立別け、善を育て悪を滅しなければならない事になった、いわゆる悪のトドメである、従って救いの力も決定的でなくてはならない、その力こそメシヤの揮わせらるる大神力である。』
メシヤ様は生殺与奪の一切の権能を有され、全てを救い助ける観音様のお働きと、正邪を立て別けていく国常立尊様のお働きを同時になされてゆくのです。
そのような御存在の方へ祈りを捧げるという自覚をもって祈らせていただくことが大切です。
畏れを抱く必要はありません。
正しい祈りであれば良いのです。
『困った時、助けて欲しい時は、すぐその場で私の名前を呼びなさい』と仰ってくださっておりますので大変ありがたいことです。
メシヤ様はいつも私たちをお守りくださっています。
それだけに、参拝時のみならず、四六時中「メシヤ様の御心を求めて過ごす生活」を心掛けたいものです。
【御教え】御光話録15号、昭和24年12月20日
『神様にも感情がある』
――御利益で治った方に新しい人を紹介するようにと話すことはいかがでしょうか。
そんなこと言っちゃいけませんよ、安ッぽくなってしまう。そんな気があるのはまだ信仰が本当の線に入ってないんです。決して無理にすすめたり、押し売りしたりしちゃいけません。
それから、発展しないのは、人間が見ていいようでも神様に対してピッタリしない点があるんです。ピッタリしてれば、神様がこの人ならという教導師の所へ信者を持って来てくれるんです。神様が霊界でその人の守護神を働かせて連れて来てくださるんです。思うように信者が来ないってのは神様の気に入らない点があるんです。人間が気を揉んだりすると、神様のほうでは「あれは俺を信じてないから、いい加減にしてやろう」ってことになるし、人間のほうで心から神様を信じてれば「そんなに俺を信じるんなら、俺もそうとうにやってやろう」ということにもなるんです。感情の点では神様だって人間と同じですよ。喜怒哀楽は同じなんですよ。ただ、違うのは、神様のほうはそれが大きいし、人間のほうは小さいというところが違うんです。人間は自己愛が強いんですが、神様は非常に自然であり合理性なんですよ、理屈に合ってるんです。
それに、時期ということもあるんです。時期ということは大切なんですが、人間はまったくこれを閑却して進むもんだから、どうしても逆結果になるんですよ。
常日頃から絶えず自らを顧みつつ生活する
何を顧みるか?
メシヤ様の御精神を顧みる。
【御教え】私というもの 地上天国7号、昭和24年8月30日
『私は若い頃から人を喜ばせる事が好きで、ほとんど道楽のようになっている。私は常にいかにしたらみんなが幸福になるかということをおもっている。これについてこういう事がある。私は朝起きるとまず家族の者の御機嫌はどうかという事に関心をもつので、一人でも御機嫌が悪いと私も気持が悪い。この点は世間と反対だ。世間はよく主人の機嫌が良いか悪いかについて何よりも先に関心をもつのであるが、私はそれと反対であるから、自分でも不思議のような、残念のような気もする。こんな訳で、罵詈怒号(ばりどごう)のような声を聞いたり、愚痴や泣言を聞かされたりする事が何よりも辛いのである。また一つ事を繰返し聞かされる事も随分辛い。どこまでも平和的、幸福的で、これが私の本性である。
以上述べたような結果が、私をして幸福者たらしむる原因の一つの要素であるという理由によって私は「人を幸福にしなければ、自分は幸福になり得ない」と常に言うのである。』
『私の最大目標である地上天国とは、この私の心が共通し拡大される事と思っている。』
私たちの目標である地上天国建設とは、この御教えにあるように、メシヤ様の御心に求めて、自らの心を照らし、生活していくという人が拡大されていくことなのです。
2.メシヤ様からいただくもの
次にメシヤ様からいただくものの項では、
〇メシヤ様は病気に対する判釈を持たれていました。
【御教え】『文明の創造』 科学篇 肺炎と結核(文創 昭和二十七年)
『茲(ここ)で、浄化作用なるものの本質を説いてみるが』と書かれております。
そして、『説いてみるが、曩(さき)に述べた如く、体内の毒素を排除すべく、生まれながらに保有してゐる自然良能力である。』と、『自然良能力』ということをメシヤ様はお示しくださっております。
【御教え】病気の真因 明日の医術(再版)第一編 昭和18年2月5日
『今日までのあらゆる医学上の理論はこれの反対であって、感冒は重病の前奏曲かのように恐れられるのであって昔から“風邪は万病の基”などといい、今日では結核の門のように恐れられているのである。しかし右の理によって、感冒は“万病を免れる因”結核に罹らぬ方法であるというべきである。』
風邪は、発熱によって身体に溜まった毒素を溶解させ、咳や痰、鼻汁、汗などによって体外に排泄させる作用です。人間が健康を維持していくために起きる自然整理作用であって、神様の発露でもあります。
風邪は有難いものなのです。
しかし、体力が弱っている場合には注意が必要です。
【御教え】肺結核治癒の過程 結核問題ト其解決策 昭和17年12月13日
『健康状態であれば、浄化作用終了まで体力が充分持続なし得る為全快するのである』
とありますように、浄化終了まで持続できるだけの体力は必要なのです。
毒素溶解を停止させ、そのまま毒素を身体にとどめさせると、やがては肉体の使用が不可能になってしまいます。形としてはかえって大きな病気を患うことになりますので、早めに体内を清掃しておくという作用なのです。
〇教祖になる人は人を救う言葉を身に着けている。
・人を救うには相手の心にピッタリくる言葉が出ないとなかなか救っていけない。
・余命いくばくもない人に、元気な人が励ましの言葉をかけてもぴったり来ない。
・教祖になる人は、そうした死線をさまよう経験をいくつも重ねている。
だから
相手の心がわかり、相手がどういう言葉を待っているかも推し量ることができる。
・教祖になる人は言葉を身に着ける準備期間を経ている。
メシヤ様は『婦人病以外全ての病気を患った(東方の光 上巻 昭和五十八年六月十五日)』と仰るほど、絶え間なく病患に悩まされたそうです。
大借金や妻子との死別など準備期間を経て昭和元年に天啓を受けられています。
そして、約十年の間に『浄霊法』と、浄霊の力を万人に授ける方法を確立され、教祖になられたのです。
そうすると、私たちの祈りの根本はどうあるべきでしょうか。
〇一人でも多くの人を救うことのできる浄霊力を授けてください
〇一人でも多くの人を救うことのできる言葉を身に着けさせてください。
この二点が、同時にメシヤ様からいただくものであり、人を救い自分も救われていく御力なのです。
ですから、信者は次の御教えを心掛けなければならないのです。
信者たるもの、常に魂を磨き、言葉を練り、
上魂の人間たることを心掛けるべきである。
【御教え】言霊の偉力 昭和25年
『よく病気の苦痛はもちろん、諸々の苦痛に対して、祝詞または善言讃詞によって、偉効を奏することがある。これについて不思議に思うのであるが、これは立派な理由があるから書いてみよう。
これこそ言霊(ことたま)の偉力であって、それは霊界においては、大言霊界、すなわち七十五声の言霊が鳴り響いているからである。しかし、これは霊界に充実している無声の声であって、人間の耳には感じないのである。しかし、この大言霊に対して、人間が発する言霊は大いに影響する。もちろん、正なる言霊は霊界の汚濁を軽減させるが、これと反対に、悪の言霊は汚濁を増すのである。これはなぜかといえば、七十五声の言霊の配列の順序によるので、その基は善悪いかんである。すなわち、善の言霊とは美辞麗句であって、美辞麗句とは、一つ一つの単語の綴り方が、真善美に適っているからである。これは何よりも人間の耳へも快く響くもので、なぜ快く響くかというと、人間良心の本源である魂にまで透徹するからである。しかるに、悪の言霊は、魂には透徹しないので、それを包んでいる心の範囲にまでしか達しないのである。
ここで今一層、徹底しなければならない。ということは、私が常に言うところの副守護神、すなわち動物言霊は、心の範囲内に限定して憑依している以上、心の曇りが濃度であるほど副守護神の能力は強化される。しかしこれが曲者で、常に良心たる魂の光を遮蔽しているから悪を好む人間となるのである。ところが、悪の言霊は副守護神には快く響くので、これは事実がよく証明している。良い話を好むのは前述のごとく魂に快く響くからであり、悪い言霊を好むのは副守護神が喜んで、快く響くのである。例えば、悪人共が悪事を語り合っているのを、仮に吾々が聴くとすれば、堪えられない程の不快であるにかかわらず、悪人は快感を催すのである。
以上の理によって、善い言霊は魂に響くから魂の光が増し、それによって心の曇りが減り、副守護神は萎縮する。萎縮するから悪を好まなくなる。というわけで、人間を苦しめていた副守護神は、善言讃詞によって萎縮、または、離脱することになり、心の曇りも減少するから、苦悩から解放されるのである。
右によってみても、善言讃詞の言霊は、いかに善美極まるものであるかが判ると共に、善言讃詞を奏上するや、その周囲の霊界は大いに浄まるのである。特に今一つの重要事がある。それは言霊を発する人間の霊の清濁が大いに関係がある。すなわち、魂の清い者程、言霊の偉力は発揮されるのである。それは霊的階級が上位であるからである。特に龍神に対する場合、龍神は非常に強いから、よほど上魂でないと龍神は承服することは出来難い、これについてこういう話がある。
以前ある日蓮宗の行者で、「自分は龍神を祀りたいが、恐くて祀ることが出来ない。なぜなれば、龍神は怒りやすいので、少しでも粗相があると、何をされるか判らないから」というのである。しかし本教信者であれば、まず大抵の龍神は反対することは出来ないのである。そうして龍神中、最高位であり、絶対力を具有しているのは、私の守護神である伊都能売金龍神である。たとえサタンの本体である赤龍といえども、敵し得ないことはもちろんで、二十数年以前、琵琶湖の上空で戦った際、赤龍は敗北遁走したによってみても明らかである(これは『奇蹟物語』に詳説してある)。
従って、信者は常に魂を磨き、言霊を練り、上魂の人間たることを心掛けねばならぬ。』
ここまでが、昨年の挨拶の内容であります。
この一年『主神様とメシヤ様』を毎月拝読研鑽させていただきましたので、メシヤ様という御神格の御存在に対して、より認識が深まってこられたのではないでしょうか。
一月度の『覚りの旅』を思い出して見てください。
『私のことを‶主神様〟と言っています。』の御教えでした。メシヤ様は主神様であられるわけです。そして、『主神様とメシヤ様』編纂のキッカケとなった『帰一、一とは元の神様即ち主神の事である。それに帰する事であります。』の御教えを拝察させて頂くならば、『仁愛の御手に帰一され』の善言讃詞の文言は、帰一していくのは主神様にです。
即ちメシヤ様であられるのです。そうすれば、『仁愛(メシヤ)の御手に帰一され』と、先生の生前の教え通り奏上させて頂いていることに納得いただけるのではないでしょうか。
祭典の都度その意味合いを思考し、想いを共有することで、より祭典の意義が深まり、信仰が高まってまいります。それは私達の人生の糧となっていくことなのだと思います。
本日は教祖祭ということで、メシヤ様に関して昨年よりの学びの復習をさせて頂きました。
「人を救う力」と「人を救う方法」を教えてくださったメシヤ様の御心に適うようにするには、その御教えと浄霊を一人でも多くの人に宣べ伝えること、実践することです。
本日を機会にまた一歩メシヤ様の御心に近づけましたなら有難い事だと思います。
以上で教祖祭での私の挨拶を終わらせて頂きます。
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