令和二年三月度『覚りの旅』御教え
令和二年三月度『覚りの旅』御教え
『浄霊の力の元は太陽の黒点』
令和二年三月度『覚りの旅』御教え
三月度に学び合う御教えです。『メシヤ降誕本祝典記念祭』にて『覚りの旅』を行います。
よろしくお願いいたします。
『浄霊の力の元は太陽の黒点』 昭和二十八年七月二十五日
『五六七大祭』 昭和二十五年三月十一日
『浄霊の力の元は太陽の黒点』
日に月に霊界ではだんだん変化しつつあるのです。それは実におもしろいのです。その根本だけは話してもよいですが、その根本というのは力の根原です。それはなにかというと太陽の黒点なのです。太陽の黒点が宇宙の支配力の中心なのです。あそこから力が出るのです。それで (ス)のヽが太陽の黒点なのです。これがたいへんなものなのです。ですから浄霊の力の元は太陽の黒点から来るのです。だからおもしろいとも言えます。それで学者もやっぱり昔から太陽の黒点を研究してますが、遠過ぎてそれはとうてい分かりません。私はいつか科学博物館で望遠鏡で見たことがありますが、中にいくつも黒点が大きい小さいのが混じってます。それを総合してみるとチョンになるわけですが、それがなんだということは、学者がいくら想像してみても、それはとうてい分かるはずはありません。それで昼間の世界ということは黒点が変化するのです。それで太陽の熱というものは、太陽の黒点から放射されている一つのエネルギーですが、火力というものは太陽よりか黒点の方がもっと強いので、それは神秘なものです。その黒点の代表者が主神です。そこから私の体に光が来ているのです。
いつも言っていることですが、新宗教に対しての〝科学的ではない〟ということについてですが、この間の子供の睾丸ができたことなどは、たいへんな奇蹟です から、世界の医学界に知らせたいのです。あれを知らせないということは非常に惜しいのです。医学の方では、心臓の手術ができたとか、われわれから見ればつまらない、へみたいなことを、たいしたもののように新聞などにデカデカと書いてます。だからこっちの、それの百倍にもあたる奇蹟を新聞に出したらよいだろうと思って、毎日、読売にも言ったのです。毎日ではいろいろ協議したそうですが、まだ出ないところをみると結局出さないように決まったのでしょう。それで 本人を調査に行くとか言ってましたが、それもやらなかったようです。ところで新聞の方には〈法規的ではないのでしょうが〉一つの不文律のようなものがあるのです。それは日刊新聞、ふつう新聞では宗教の宣伝にわたるようなことは書かないということになっているのです。このことは前から聞いてますが、おそらくそのためだろうと思います。結局救世教の宣伝になるからというのです。しかし宗教の宣伝になるとかならないとか言うが、この間の奇蹟というのはそんなチッポケなことではありません。それこそ医学的どころでなく、世界的の大問題になるべきことです。子供の睾丸から陰茎がすっかり取れてしまったのが、自然に生えて元どおりに育ったのですから、人類始まって以来の奇蹟ですが、要するに宗教宣伝になるというために出さないのでしょう。そうすると文明というものは、 宗教とか科学とか言って一つの城廓をつくって、その中に閉じ籠もって、敵視しているようです。新聞社の方は科学の城廓に閉じ籠もって、宗教という敵の利益になるようなことは絶対にやらないことになるからして、考えてみるとおかしな話です。けれどもそれもあながち全面的にケシカランとは言えません。というの は、宗教そのものが実に科学以下のものがたくさんあります。だから科学の方で軽蔑して、かえって宗教よりも以上の科学を微力なようなことを言ったりすることはけしからんと言うのです。要するに科学も宗教であって、ただ形が違うだけです。ですから自分の方の科学宗教を守らんがために(科学といっても唯物科学ですから)唯物科学の城廓を固守し、唯心科学の方を葬ろうとしたり、それから軽蔑して、それに乗るなということを警告するというので、この間のラジオはそれなのです。ところが本当から言うと唯物科学も宗教もないので、あらゆるものを冷静に批判して、良いものをとって悪いものを捨てるというのが本当ですが、 まだ人間の頭脳がそこまで行ってないのです。まだ小乗的文化の殻に閉じ籠もって、そうしてアップアップやっているのですから、われわれからみれば実にかわいそうなくらいです。
医学の方ですが、医学の今の建前というものは、黴菌すなわち微生物が病気の原因であり、それを殺菌するということによって病気は治るという建前になっていて、結核にしても結核菌を殺す薬、「どうすれば殺せるか」ということを研究しているのですが、このくらい馬鹿馬鹿しいことはありません。体の中にあるものだけを殺すということは、常識だけで考えてもできるはずはありません。私は前に書いたが、結核菌を殺すには人間を殺せば、それは一匹残らず死にます。そういう馬鹿げたことで世界中の学者が頭を悩めているのですから、宗教の迷信と同じようなものです。しかし宗教の方でも、そのとんでもない医学迷信よりか もっと以下のものが多いです。なんとなれば病院を造ってます。自分たちでは病気は治らない、医学でなければ治らないというのですから、医学よりもっと以下なのです。ですから医学が軽蔑するのももっともかもしれません。医学の方を信じ、医学に手を合わせるのですから、医学の方が教主様になるわけです。そこで 医学の一番の根本である黴菌について書いてみました。この前にも読みましたが、まだ分かり難いと思ったので、もっと分かりよく念を入れて書き直しました。 これは簡単な事柄でありながら、なかなか難しいのです。そこをもういっそう深く突っ込んだのと、両方を読ませます。
(御論文「科学で病気は治らない」「超科学」)
これはなかなかややこしいのですが、今読んだように今の科学は素粒子、つまりごく小さい細胞ですが、それは分かったのです。それで今言う物性論というのは、それよりもっと細かい、顕微鏡でつかめないものがあるというのです。一つの理論物理学ですから、これは推理、想像し、実験によって確認されるのです が、それを実験する方法がないのです。というのは、もっと細かい所が見える顕微鏡でなければならないが、そういう顕微鏡はいつ作られるか分かりませんか ら、そうすると科学の研究は、今読んだとおり壁にぶつかる手前に来たわけです。それでその次はこうだということをこれから書きますが、これができあがった ら湯川博士に送ってやろうと思ってますが、理解できるかできないか分からないが、少なくともヒントを与えることにはなります。ですから世界のそういう偉い哲学者といっても、私からみればずっと手前のものです。ところが今まで駆け出していたのが息が切れて、これから先は駆け出せないという時期がもうじき来るのです。それでこっちで乗り物を与えてやるのです。これに乗ればどこまででも行けるのです。ところでここで始末が悪いのは、その乗り物というのは宗教なの ですから、科学者は宗教と科学とは別物に思い、あるいは宗教の方が下だと思っているのです。しかし偉い科学者はそうは思っていないらしいです。湯川さんな どは宗教に対してそうとうの認識を持っているようです。パスツールというのは、あの時代に神ということをよほど分かっていたのです。あの人たちは科学と哲 学と両方やっていたようですが、パスツールはコッホより先に黴菌を発見した人ですから偉い人には違いありません。そうして結局最後は神だ、それでなければ 解決はつかないということを言っています。しかし一般の科学者はまだまだそこまで行ってないどころか、そういったような目に見えない科学以外のものは全部 否定するというのですから、浄霊で治るとかいろいろ言っても、非科学的だと言うのです。ですからそういった科学迷信を大いに自慢しているわけです。そういうようなわけで、ただ有力な哲学者ないし科学者は、結局、神、唯心論に行かなければ解決できないということは朧げながら思っているが、そうかといって、はっきりつかむことはできないのです。ということは、はっきり説明する人がなかったのです。また説明だけでは、いかに巧妙に言ったところで信ずる ということはできません。ところが私の方では、こうやれば病気が治るという、要するに実験を見せるのですから信じないわけにはゆきません。ただそこまで彼 らを導くのがたいへんです。というのは、この門の中にあるこの扉を開ければたいへんな宝があると言っても、そんなことはあるものか、絶対にないと思い込んで頑張っているのですから、その扉の中に誘うのがたいへんなことです。しかしそれは神様がやられているのですから、神様がどんなうまい手を打つか分からないし、また手を打つに違いないですから、結論として時の問題です。時の問題といったところでそう長いことはありません。もしまだ長いとすると、だんだん浄化が旺盛になってくると死ぬ人ばかり多くなってくるから、人類は死ぬ人が多くなりますから、よほど急がなければならないのです。それは分かってますが、もう少したったらはっきり言いますが、私もやっぱりそれを待っているのです。
日に月に霊界ではだんだん変化しつつあるのです。それは実におもしろいのです。その根本だけは話してもよいですが、その根本というのは力の根原です。それはなにかというと太陽の黒点なのです。太陽の黒点が宇宙の支配力の中心なのです。あそこから力が出るのです。それで (ス)のヽが太陽の黒点なのです。これがたいへんなものなのです。ですから浄霊の力の元は太陽の黒点から来るのです。だからおもしろいとも言えます。それで学者もやっぱり昔から太陽の黒点を研究してますが、遠過ぎてそれはとうてい分かりません。私はいつか科学博物館で望遠鏡で見たことがありますが、中にいくつも黒点が大きい小さいのが混じってます。それを総合してみるとチョンになるわけですが、それがなんだということは、学者がいくら想像してみても、それはとうてい分かるはずはありません。それで昼間の世界ということは黒点が変化するのです。それで太陽の熱というものは、太陽の黒点から放射されている一つのエネルギーですが、火力というものは太陽よりか黒点の方がもっと強いので、それは神秘なものです。その黒点の代表者が主神です。そこから私の体に光が来ているのです。だから病気などを治すのはなんでもありませんし、大体病気というのは黴菌が今は二十万倍まで見えるというが、これが千万倍、一億万倍となっても、もっと細かいのです。それはなんだというと無限なのです。これはちょうど大空の広さが無限なのと同じように、小さいものもまた無限なのです。ですからして病原というのは無限なの ですから、顕微鏡が発達しようと、どんな機械ができようと、それは分かりません。それはちょうど大空の壁を発見するようなものですから、分かるはずがありません。ですから医学が科学的に研究してもなにもならないので、害を与えるようなものです。それを分からせるように今書いているのですが、そこまで信じさせるのは容易なものではありません。ただ、神様をどうしても分からなければならない、というようなことがいずれ始まりますから、そうすればなんでもありません。というのは霊界における太陽の精気、黒点の精気が非常に強くなりますから。あれは学問の方では十一年目に黒点が強く現われるということになってますが、黒点が強く現われるということは、これが十一年目にこういうように開くので、強くなるのです。あらゆるものは一定していないのです。すなわち呼吸運動が行なわれているのです。太陽もやはり呼吸運動が行なわれているのです。十一年目に一回行なうのです。拡がったり、つぼまったりする呼吸です。それはなん でもそうです。太陽でも月でも地球でも呼吸運動をして、それによっていろんな変化が起こるのです。春夏秋冬の四季も呼吸運動の小さなものです。一年に一度 の呼吸ですが、これが十一年目に一度、百年目に一度、千年に一度という大きなものもあります。哲学のような天文学のような話になって、大学の講義のようになりましたが、もっとも神霊大学の講義かもしれません。それ以上のところまで知る必要はないが、ざっと話してみればそういうようなものです。
それから病気の話を少ししようと思いますが、この間″肩の固いのを柔らかくしなければいけない〟ということを言いましたが、肩を柔らかくするのに、よく間違えることがあります。というのは肩をもむということを言いますが、もんで柔らかくするのは按摩です。ところが肩をもむほどよけい固くなるのです。ですから按摩を始終やっている人はだんだん肩が凝るようになります。これは私も若い時分に経験がありますが、私は按摩が好きで始終もましてましたら、だんだん固くなって、ふつうの按摩ではきかないくらいになったのです。それは私が大森にいた時ですが、そこの按摩の家には、なんでも十人前後の按摩が始終いたのですが、そこでは私が一番強いのです。誰が来ても私の気に入らないのです。そうすると、そこで一番強いのがいて、みんなが相談して〝一つ岡田の大将を誰かやっつけないか〟というので、オレがやろうというのがいて、今夜行って降参させようという相談が一決してきたのです。二十いくつかの者で、それがやったと ころがばかによい気持ちなのです。それで〝君は上手い、君くらい上手い者はいない〟と褒めたのです。それで帰って、始終私のところに来る男に″いや駄目だ、オレは一生懸命やったが、よい気持ちだと褒めた。強過ぎると言うかと思ったら、気持ちがよいというくらいでは駄目だ〟とカブトをぬいだのです。そういうようだったのです。その時分は分からなかったのですが、今考えると体的にやるから駄目なのです。それで信仰をするようになってからそういうことが分かっ たので、ごく柔らかい按摩をしました。家の奉仕の若い女の人の素人もみをやりました。そうしているとだんだん柔らかくなってきたのです。それで浄霊を知る ようになってから、浄霊でよくなってきて、このごろはもんでもらっても簡単にちょっとやるくらいで、それにいい気持ちでなくなってきました。ですからもう じきもむこともいらなくなるわけです。無論肩を柔らかくするということも、固いほど力を入れないのです。ところが固いほど力を入れたがるのです。すべて力を入れないのがよいのですが、固いと、ちょっと力を入れたい気になりますから、それを注意して、これ以上力を抜けないというところまで力を抜くのです。そうすると固い肩でも柔らかくなってきます。それで一番は結核によいです。それから心臓病によいです。心臓病によければ喘息にもよいし、それから食欲が出ますから、胃によいから、消化不良などはたちまち治ってしまいます。それから胃が良くなれば肝臓も膵臓も良くなり、胆嚢も良くなります。それで下の方は、な んと言ってもいつも言うとおり尾てい骨の付近を浄霊すると、腰から下の、足などの重いのや、くたびれるのや、息の切れるのに一番効果があります。今話したのが急所です。
それから近ごろは信者の女の人でだんだん化粧しなくなってきました。オシロイとかクリームをつけない人が増えてきました。今にみんながそうなるでしょうが、これを少なくとも半年とか一年とやっていると非常にきれいになります。化粧代はいらなくなるし、大体こんなこと(化粧の手間)をする必要はありません。それで人に招ばれた時など、ちょっと便所とかに行ってこうやりますが、あれは一つの不正直な行為です。一つの欺瞞行為です。より美しく見せようというのは悪いということではないが、しかし実価以上のものに見せようというので、善意の欺瞞です。罪にならない犯罪です。浄霊をやっていると、化粧を止めて当分は真っ黒で、それこそ南洋の土人か、アメリカのニグロみたいに見えますが、〈私もこの間見てびっくりした人がありますが、これはオシロイを止めたせいだ なと思いましたが、それは覚悟しなければなりません〉その代わりそれを過ぎると実にきれいになります。それも気持ちのよいきれいさです。それに始終浄化し て血がきれいになりますから、きれいな血が皮膚から透けて見えるのですから、実に感じのよいきれいさです。だから本当は今の世の中に美人というのはいません。それから形も違うようです。やっぱり性格において、女らしい優しさというのがなくなってます。なんでもかんでも理屈をつけて、男女同権とか言っていばるのですが、高慢な者が出てます。というのは、明治、大正時代の女の写真を見ると美しいです。ところが今の女の写真は美しくありません。ブツブツが出たり皮膚が荒れたりで、化粧しなければ見られたものではありません。化粧しないのを側で見たら、美ではなく醜です。だからつまり自然の美、天然の美というもの をだんだん失ったわけです。ですからこれをふたたび自然の美に復活するということが必要なわけです。それからもう一つは、今のクリームなどはいろんな薬剤を使いますが、それがだんだん強くなってます。この間新聞に出てましたが、アメリカの婦人は顔の皮膚が荒れて困っているということが書いてありましたが、アメリカはよけい強い薬を入れるからに違いないと思いました。そういうようですから、信者の女の人はそういったようなことをよく知っていれば、つけるのも少なくなるからよいですが、ずっと少なくして、ある時期に行ったら断然止めて、自然の美人になった方がよいと思います。時間と金の非常な経済になって、夫の愛も増えるというわけですから、一挙三得というわけです。
『五六七大祭』救世五十三号 昭和二十五年三月十一日
『五六七大祭』救世五十三号 昭和二十五年三月十一日
大神力の発揮がなくてはならない、といっても生神様的個人の力でもむづかしい、どうしても全人類を主宰し給う主の神即ちエホバの絶対力の発現である、勿論人類発生以来今日まで、右のような大神力は出なかった、それは地上天国準備だけの力でよかったからである、言はば本教と同様これまでの世界は楽屋であった訳である、処がいよいよ時期熟して世界は茲に一大転換と共に、天国樹立という神の理想実現となったのである。@
此事が根本であって、之を深く認識する事によって初めて大神業に参加され得る資格者となるのである。
此事が根本であって、之を深く認識する事によって初めて大神業に参加され得る資格者となるのである。
愈よ本教救世教となって第一回の五六七大祭を例年の如く三月五日、六日、七日の三日間に執行はれる事になったのは、まことに芽出度い限りである。
此の意味によって、今日の祭典の重要なる意味を思ふ時感慨無量である、私が御神業に身を投じた抑々の第一歩は昭和三年二月、節分の日であったから、今年で恰度弐拾三年目である、此二十三年間に基礎工事が成ったので、愈よ本格的に発足すべく陣容を整え、世界人類救済の大旆を翳して、本格的活動に入らんとするのである、言はば今迄は楽屋で扮装していたようなもので、扮装が出来上ったので、茲に舞台へ登るようなものである。
大体、メシヤとはキリスト教と深い関連があるので、此解釈は欧米に於ても諸説紛々として今以て決定はされないようである、というのは人智では深い神秘の奥を探り当る事は困難であるからである。
私自身としても未だメシヤとは名のらないと共に、キリストの再臨ともいはない、之は或時期までは神様から発表を禁じられてゐるからでもある、尤も仮にメシヤの降臨などと思はれでもしたら大変である、世界中からワーワーとやって来て、到底仕事など出来るものではないからである。
今日確実にいえる事は、世を救ふべく大経綸を行ふ事である、之は現に私が行ひつつある事実を見れば判る、救世教の名を冠したのもその為である。
茲で特に言ふべき事がある、それは凡ゆるものが世界的になった今日、既成宗教は未だ殆んどが、限られたる地域的救の業であるに見て、全人類を救ふべき使命ではなかった事を知るべきである、只だキリスト教のみは、全人類の救ひが使命であるから、今日の如き大を成したのである、といっても現在の如き全人類の一大苦悩を救い得らるるかは大いに疑問の余地があろう、何となれば事実が明かにそれを示しているからである、忌憚なくいえる事はもはや宗教そのものの力ではどうにもならないので、之は識者の等しく唱える処である、茲に於て率直にいえる事は、宗教以上の力が出なくてはならない事で、これが超宗教でなくて何であろう。
元来、宗教とは読んで字の如く宗祖の教である、彼のバイブルといい経文といい、コーランというも畢竟文字を介して教え人間の魂を目覚めさせるのであるから、畢竟人間の自力である、処が今日はもはや人間力では間に合わない事になった、勿論教も必要ではあるが、それ以上大神力の発揮がなくてはならない、といっても生神様的個人の力でもむづかしい、どうしても全人類を主宰し給う主の神即ちヱホバの絶対力の発現である、勿論人類発生以来今日まで、右のような大神力は出なかった、それは地上天国準備だけの力でよかったからである、言はば本教と同様これまでの世界は楽屋であった訳である、処がいよいよ時期熟して世界は茲に一大転換と共に、天国樹立といふ神の理想実現となったのである。
此事が根本であって、之を深く認識する事によって初めて大神業に参加され得る資格者となるのである。
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