6月のテーマ2は『法律と人間の野蛮性』です。『一人が百人』となっておりました。
お詫びし訂正いたします。


令和二年六月度『覚りの旅』御教え
中島氏帰幽に関するお言葉    (昭和二十五年二月)
廿九日の晩、中島から電話がかかり、中島が人事不省に陥ってゐるから御守護御願したいといふのである。変だと思って、様子を聞いてみると、脳溢血の具合である。それで、指図をして廿分位すると、又電話がかかったが、どうも脳溢血らしくもないが、盛んに嘔吐をするとの事で、非常に悪いから、よく聞いてみると、余程重病らしい。それから一回か二回電話があった。丁度夜中の三時頃で、遅いし、運転手の家もちょっとあったが、やっと起して車で行った。見ると脳溢血症状である。そういふのは脳溢血か脳貧血であるが、脳貧血ならそう長くはない。霊憑りとすれば嘔吐をする事はない。やっぱり脳溢血的である。とすれば左か右かだが、手は両方突張ってゐる。稀には両方の脳溢血もある。
二、三十分浄霊した。大抵は二、三十分で快くなるが、脳溢血は必ず気の附くものであるから、明日あたりは気づくであらうと一先づ帰った。すると明くる日になって亡くなったといふ報せで、驚いたと共にハッと思った事がある。
これは浄化作用ではない。重要な使命を持つ人は斯ういふ事がある。今は大転換期であるから今迄……即ち仏は滅し、神様の出る境目である。そして仏界に罪穢がある。それを掃除するのに間に合はぬ時、その型になる人が犠牲になる。
そして罪を贖ふ事になる。中島さんは、その意味が多分にある。
今迄観音様の時は、善悪無差別的救いであったので、非常に軟かであった。
これからは厳しく罪や穢れは徹底的に清算されなくてはならぬ-といふ時期となった。それでどうしても今度のような事があり得る訳である。
立春の日には組織が変った。
元日には、今年から大変だと言った。それは世間の事と思ったら、教団自体に大きい変り事があった。
これからは世の中に変り事があらうと思ふ。今は観音様のお働きは出来ない。祝詞にも、応身彌勒と化し、メシヤとならせと入れた。観音様はメシヤとならせられ、観音様のお働きはメシヤになる。観音様は東洋的であり、世界的のものではない。世界人類の救済からゆくと、メシヤ教は余程キリスト教に近くなる。何れはそうなるべきだが、漸く時期が来たのである。
神様はいろいろさせてそれにより神代の罪を今帳消しになさる。故にその死が重大な
意味をもつ。故に、中島氏のやった事など何れは大変な良い事をされた訳になる。
一時は犠牲になるが、永遠な見方をしないと結論は出ない。



法律と人間の野蛮性   (栄百十八号  昭和二十六年八月二十二日) 

現代の世界では、文明と曰われる国程法的制度が進んでおり、法律条文も年々増えつつあるのは衆知の通りであって、全く現代は法律万能時代といってもよかろう、従って法規の多い事は、其局にある司法官や、弁護士なども、全部を覚えるには一生涯掛っても難しいであろう、事実自分に関係のある部分のみが漸くという位であるとしたら其効果は相当目に見える筈であるに拘わらず、肝腎な犯罪は減らない処か寧ろ年毎に増えつつあるのはどうした事か、実に不可解千万ではなかろうか、全く文化の進歩とは凡そ矛盾しているのである、そこで私は其原因に就て茲に検討してみようと思うのである。
抑々、法の主なる目的は、社会から犯罪を減らし、遂には犯罪者なき世界を作るにある事は今更言う迄もないが、事実は前述の如く其逆であって年々国会に於ては、法規の条文増やしが、議事の大半を占めている、若し文化が予期通り進歩するとすれば、犯罪者は順次減少して、法規の条文中不必要なものが出来るに違いないから、国会に於ての議事も、法規の一部廃止法案が討議されるようになるべき筈ではなかろうか、処が其反対であるという事は不思議であるに対し、怪しむ程の者もない、というのは何人の考えも、今更どうしようもないとして諦めている為であろう、之によってみても、犯罪を無くすのは、法律だけでは到底駄目だという事が、よく判るのである、そうかといって今の処、法がないとしたら、之は又大変である、そうなったら最後悪人の天下となり、良民は迚ても枕を高くして寝る事は出来ないから、やはり法は法として今の儘にして置き、他の有力な方法を併せ行えばいいと思うのである、然し外のものといっても、先ず教育と宗教の此二つよりないが、之も余り期待はかけられ得まい、何となれば何世紀、何十世紀それを続けて来た今日と雖も現在の如き人間世界の有様であるからである。
之に就て以前もかいた事があるが、大体法律というものは獣を収容する檻と同様の意味で、つまり檻がないと人畜に危害を及ぼす危険があるから厳重に太い格子や、網を張って漸く取締っているにすぎないので、彼等は隙があると破って出ようとするから、段々細かく隙のないようにしているだけである、其手段として年々法を密にし、取締りを厳にするのであるから寧ろ人間の恥辱といってもよかろう、其様な訳で今日の人間は、獣と同様の扱いを受けているとしたら、余り威張った口は利けたものではあるまい、従って之等の点をよく考えたら、一日も早く目覚めるべきで、昔からよく言われる人間の形をした獣とは現代人にも当嵌らない事もあるまい、之を一言にしていえば、まだ半文明半野蛮の域を脱していないのである。
とはいうものの、それにも厚薄がある、即ち人間扱いをされていい人と獣扱いをされなければならない人とがあるのは止むを得ないので、国にしても軍国主義と、平和主義とがある如く、前者は野蛮国であり、後者は真の文明国である。
次に教育であるが、之も今日は既に試験済みとなっているから、敢てかく程の事もないが、知らるる如く之も幾世紀に渉って、大勢の学者、教育家等が努力して来たので或程度の功績は認められるが、それ以上の力はなかった、尤も野蛮時代からみれば人智は進み、政治にしろ、社会機構にしろ凡ゆる方面に渉って驚くべき進歩発達を遂げたのであるから、全く教育のお蔭も疎かには出来ないが、そうかといって精神面即ち魂の改善には、力が足りなかった事は争えない処である、何よりも法律という檻を不要にする事が、今以て出来ないからである、教育の問題は此位にしておいて、次の宗教であるが、之も昔から偉い聖者や、卓越せる偉人が幾人も現われ而も其弟子や信徒迄が生命を賭し、血の滲むような苦心努力を続けて来たに拘わらず、或程度の精神的救いは無論認められるが、法を不必要とする迄には到っていなかったのである、としたら既成宗教にも多くの期待は持てない訳である。
そこで人間から真に獣性を抜き、檻を必要としない社会を作るには、どうすればいいかという問題であるが、之こそ凡ゆる既成文化を超越した破天荒的な力が現われなくてはならないのは言う迄もあるまい、処が喜ぶべし、其力こそ主の神としてのエホバから吾等に与えられ、今現に発揮しつつある事実で、之が本教の真髄であるから、本教は全く超宗教的大いなる存在であって、やがて来るべき光明世界の先覚者として、第一番に人類の迷蒙を醒ますべき警鐘が此文と思って貰いたいのである。