令和二年七月度『覚りの旅』御教え
テーマ1 『医学革命の書』に関する御教え
天恩地惠 2020年6月号14頁の『天国の福音書』発刊の進め方について(H.24.6.15)に、第三巻 救世主の御力 浄霊篇 として「今までの浄霊の急所だけを記載したものではなく、現代の科学の進歩と浄霊を関連付けた意識を持って浄霊を取り次げるような組み立てとする。」とあります。この内容は『文明の創造 科学篇』のメシヤ講座に集約されています。編纂するにおいて、根本としなければならないのは、『医学革命』だと拝察いたします。『文明の創造』はS27年の御著書です。S28年の御著書に『医学革命の書』があります。この御著書も『文明の創造』同様『英文にして世界的に配ります』とお述べになっておられます。そこで今月は『医学革命の書』についての御教えを学ばせて頂きます。
・神も時節には敵わぬ事
・真如実相となる事
・人と動物との本質的な相違が分からなかったのも神の経綸による事
・医学迷信が壊れれば五、六、七の世になる
・医学革命と農業革命を比較する
・医学革命は神定のもので教師が気をもむ必要のない事
・薬毒と列強の衰退
・奇蹟中の奇蹟
・油断ならぬ結核の現状
・超科学
・医学封建
・宗教と科学を超越しての会合
・超奇蹟
・御対談 医学の根本的革命
「医学革命の書」 序文 (昭和二十八年)
凡そ人間としての最大欲求は、何といっても健康と長寿であらう。他の凡ゆる条件が具備しても之が得られないとしたら、何等意味をなさないのは今更言う迄もない。従って人間生の執着程強いものはなく、此執着から離れられないのが人間の特性である。といってもそれを免れる事の不可能なるが為、今日迄は諦めてゐたに過ぎないのであって、若し此解決可能な方法が発見されたとしたら、之こそ人類にとっての最大福音であり、大問題である。処が喜ぶべし、その欲求は完全に達せられたのである。
即ち凡ての病気は医され、天寿を全うし得るといふ実に驚くべき新医術が、私によって創造された事であって、此医術が普く世界に知れ渡るに於ては、既成医学は当然革命されなければならないと共に、人類の理想たる病なき世界は茲に実現するのである。そうして先ず現在に到る迄の医学の歴史からかいてみるが、抑々今日の医学なるものは、知らるる如く西暦紀元前、彼の有名な医聖ヒポクラテスによって創められ、その後欧羅巴に於ては医療以外、信仰、星占、霊療法等様々な治病法が現はれ、東洋に於ては古代から神儒仏の信仰による医しの業をはじめ、易占、禁厭等の外、支那漢時代に到って漢方医術が生まれ、支那全土は固より、特に旺んに採入れられたのが我日本である。西洋医学渡来前までは、今日の西洋医学の如く漢方が一般に普及された事は衆知の通りである。
処が十八世紀後半に到って、俄然擡頭したのが科学である。之が素晴しい勢を以て欧羅巴全土は固より、世界各地に拡がり、遂に今日の如き科学万能時代が現出したのである。それというのも凡ゆるものが科学によって解決され、それ迄不可能とされてゐた凡ゆるものが可能となる等々、遂に絢爛たる近代文明が確立されたのである。従って此恩恵に浴した人類は、科学を以て無上のものと信じ、科学ならでは何事も解決出来ないとする一種の信仰的観念にまでなったのである。特に医学を以て科学中の最も重要な部門として扱はれた結果、人間生命の鍵をも握って了った事は、恰度宗教信者が神に対する尊信帰依と同様で、他を顧りみる事さへ異端視せられるといふやうになり、世は滔々として科学信仰時代となったのは知る通りである。
之によって医学は客観的には驚くべき進歩発達を遂げ、人類の福祉は一歩々々増進されるかに見えるが、一度冷静な眼を以てその内容を検討する時、之は又意外にも進歩処か、反って逆コースの道を盲目的に進んでゐる有様であって、その迷蒙なるいうべき言葉はないのである。何よりも事実がよく示してゐる。それは病気の種類は年々増へ、罹病率も減る処か、益々増へる一方である。その結果人間は常時病の不安に怯え、寿齢にしても一般人は六、七十歳が精々で、それ以上は不可能とされてゐる。上代の文献にある如き、百歳以上などは昔の夢でしかない事になって了った。勿論百歳以下で死ぬのは悉く病の為であるから、言はば不自然死であるに反し、自然死なら百歳以上生きられるのが当然である。といふやうに人間の健康は極めて低下したにも拘はらず、それに気付かず、遂に病と寿命のみは宿命的のものとして諦めて了ったのである。而もそれに拍車をかけたのが彼の宗教であって、それは斯う説いてゐる。即ち死は不可抗力のものであるから、その諦めが真の悟りとして諭へたのである。彼の釈尊が唱えた生病老死の四苦の中に病を入れた事によってみても分るであらう。
そのやうな訳で現在の人類は、病の解決は医学の進歩による以外あり得ないとし、万一医療で治らない場合、止むなき運命と片付けて了う程に信頼しきったのである。処が之こそ驚くべき迷蒙である事を、私は神示によって知り得たのである。というのは医療は病を治すものではなく、反って病を作り悪化させ、遂に死にまで導くという到底信じられない程のマイナス的存在であるという事と併せて、凡ゆる病を治す力をも与へられたのであるから、之によって普く人類を救へとの神の大命であって、今日迄不可能と諦めてゐた夢が、現実となって此地上に現はれたのである。現在私の弟子が日々何十万に上る病者を治しつつある事実によってみても、何等疑う処はあるまい。万一疑念のある人は、遠慮なく来って検討されん事である。
以上の如く此驚異的新医術の出現こそ、今日迄の如何なる発明発見と雖も比肩する事は不可能であらう。何しろ人類から病を無くし生命の延長も可能になったとしたら、彼のキリストの予言された天国の福音でなくて何であらう。之が世界に知れ渡るに於ては、一大センセーションを捲き起し、世界は百八十度の転換となるのは火を睹るよりも明かである。最近の大発見として世界に衝撃を与へた彼の原子科学にしても、之に比べたら問題にはなるまい。私は叫ぶ、最早人類最大の悩みである病は茲に完全に解決されたのである。故に此著を読んで信じ得られる人は天国の門に入ったのであり、之を信ぜず躊躇逡巡、何だ彼んだといって見過す人は、折角天の与へた幸福のチャンスを自ら逃して了ひ、何れは臍を噛む時の来るのは、断言して憚らないのである。
序論 (医革 昭和二十八年)
人類は今日まで実に恐るべき過誤を犯して来た。恐らく之程大きな誤算はあるま。それは何かといふと医学である。何しろ人間にとっての最も貴重なる生命を、保するものとしての重要な存在であるからである。然るに之が前記の如しとすれば、以上の大問題はあるまい。従って現在文化の素晴しい進歩によって、人間に与えらてゐる処の、礼讃し感謝しても尽し切れない程の福祉も、此医学によってその功績を抹殺しても、尚余りある位である。処が之程の誤りを今日迄気付かなかったといふ事は、実に不可解というべきである。処が神の大愛はいつまでもそれを許される筈はない。茲に医学の蒙を啓くべく、断乎としてその手段を執られ始めた。即ち医学の革命である。
昔から革命と名の付くものは幾度かあったが、それは一国家、一民族、若くは一時代、一思想といったやうに限られてゐたが、今私が行はんとする此医学革命に至っては、全人類の生命を永遠に救うという、その福祉の大きい事は、破天荒といっていいか、画期的といっていいか、言葉では現はす事は不可能であろう。要するに神は全人類苦悩の根本である医学の過誤に目醒めさせるべく、私に対しそれに必要な智慧と力を与へられたのであって、此事こそ真理の具現であり、救ひの基本的条件である。処が人類は何千年間に亘って真理を知らなかった。否神は或事情によって知らせなかったのである。併し愈々天の時到って茲に真理を知らせ、文明転換といふ史上空前の偉業を開幕されたのである。之こそキリストの曰った“世の終り”であり、“最後の審判”であり、世界的大清算である。
此時に際して、神の大慈悲は今や此渦中に巻込まれ、溺れんとする最大多数の生命を救はんとするのである。勿論此大清算こそ、既成文明の欠陥を明かにし、真の文明のあり方を教へ、神の大目的たる理想世界を実現せられるのである。之もキリストの曰った“天国”、釈尊の曰った“彌勒の世”、本教のモットーである“病貧争絶無の世界”であり、その根本こそ何といっても人類から病を無くす事である。
以上の如く私は、古往今来夢想だもしなかった大胆極まる宣言をするのであって、之は神言である以上、一点の誤りはないのである。此意味に於て本著を精読するや、茲に豁然として目覚むるであらう。
・「医学革命の書」『文明の創造』科学篇 目次
テーマ2
「救世教とは何ぞや」栄光二五三号 昭和二十九年三月二十四日
根本としては長い間眠っていた有神思想を呼覚すことであって、これが容易ではない。何しろ文化民族の大半は科学に魂を奪われ、神を無視して来た今日、この魂を揺り動かすとしたら、実に驚異的超人力によらねばならないからで、これによって神の実在は確認されるのである。その方法としては奇蹟より外はないので、本教に奇蹟の多いのもその為である。勿論この力こそ主神から伝達される絶対力であるから、如何なる無神主義者と雖も、有神思想に転向するのは勿論であって、ここに精神文化興隆時代に入るのである。その結果跛行的文化は是正され、真の文明世界実現と共に、人類の最大苦悩である病気、貧乏、争いの三大災厄は根本的に解決されるのであって、その為選ばれたのが私であって、このことは今改めて言うのではない。昔から幾多の聖者賢哲が予言された処であり、只その時期が到来したまでである。彼のキリストの天国は近づけり、釈尊の弥勒下生、天理教教祖の甘露台の世、大本教教祖の松の世、日蓮の義農の世、猶太教の救世主降臨等々もそれであって、これに就ての注目すべき一事がある。それは右は全部予言であって、実現性はない事である。然るに私はこの地上天国を現実に樹立するのであるから、その実行者であり各聖者の予言の裏付け者でもある。というとその言の余りに誇大なるに驚歎するであろうが、この言を発する私としては、如何に確信に満ちているかが窺われるであろう。それというのも主神は私に対して目的達成に必要な凡ゆる智慧と能力を付与せられ、然も超人的神力をも授け給うたのである。そうしてこの神力なるものは人類の経験上未だ嘗てなかったものであるから、到底想像は不可能である。現在私はこの力を自由自在に行使し、無数の奇蹟を現わしている。故にひとたび本教信者となるや、如何なる人でも直ちにこの福音に浴す事が出来るのである。
この文を書くに当って、前以て断っておきたい事は、我が救世教は純然たる宗教ではないのである。と言っても、一部には宗教も含まれてはいるが、全部でない事は勿論である。では、何故救世教の名を附けたかというと、何しろ有史以来夢想だもしなかった処の劃期的救いの業である以上、止むを得ずそう附けたまでであって、特殊の名前を附けるよりも、この方が分り易く親しみ易いからで、これを卒直に言って宗教以上の宗教、即ち超宗教であり、空前の救いの業と思えばいいのである。
そこで先ず大体の輪郭を書いてみるが、抑々この世界は人類が原始時代から現在に到るまでの長い間、幾多の卓越せる有能者が現われ、力の限り遠大なる理想の下に苦心努力した事によって、今日見るが如き絢爛たる文明世界が出来上ったのであるから、人間はその恩恵に対し、大いに感謝感激が湧くべきに拘らず、事実はそうでないとしたら、実に不思議と言ってよかろう。併しよく考えてみると、何よりも肝腎な幸福がそれに伴なわないからである。その原因は言うまでもなく現在文明のどこかに一大欠陥があるからであって、私はその欠陥を神から知らされたのである。それは何かというと現代文明は全面的進歩ではなく、半面である唯物分野のみの進歩であり、他の半面である唯心分野は全然顧みられなかった事である。併しこれにも理由がないわけではない。即ち神の経綸上、物質文化を発達させる為には、或期間唯心文化の発達を阻止しなければならないからである。それによって物質文化は予定の線にまで発達した今日、ここに神は唯心文化を一挙に飛躍させ、両々相俟って真の文明世界を創造されんとするのである。そうしてその使命の下に生まれたのが我が救世教であるから、既成宗教とは凡てに渉って比べものにならない程の相違があるのである。
以上の如くであるから、根本としては長い間眠っていた有神思想を呼び覚ますことであって、これが容易ではない。何しろ文化民族の大半は科学に魂を奪われ、神を無視して来た今日、この魂を揺り動かすとしたら、実に驚異的超人力によらねばならないからで、これによって神の実在は確認されるのである。その方法としては奇蹟より外はないので、本教に奇蹟の多いのもその為である。勿論この力こそ主神から伝達される絶対力であるから、如何なる無神主義者と雖も、有神思想に転向するのは勿論であって、ここに精神文化興隆時代に入るのである。その結果、跛行的文化は是正され、真の文明世界実現と共に、人類の最大苦悩である病気、貧乏、争いの三大災厄は根本的に解決されるのであって、その為選ばれたのが私であって、このことは今改めて言うのではない、昔から幾多の聖者賢哲が予言された処であり、只その時期が到来したまでである。彼のキリストの天国は近づけり、釈尊の彌勒下生、天理教教祖の甘露台の世、大本教教祖の松の世、日蓮の義農の世、猶太教の救世主降臨等々もそれであって、これに就いての注目すべき一事がある。それは右は全部予言であって、実現性はない事である。然るに私はこの地上天国を現実に樹立するのであるから、その実行者であり、各聖者の予言の裏附者でもある。というと、その言の余りに誇大なるに驚歎するであろうが、この言を発する私としては、いかに確信に満ちているかが窺われるであろう。それというのも、主神は私に対して目的達成に必要な凡ゆる智慧と能力を附与せられ、然も超人的神力をも授け給うたのである。そうしてこの神力なるものは人類の経験上未だ嘗てなかったものであるから、到底想像は不可能である。現在私はこの力を自由自在に行使し、無数の奇蹟を現わしている。故に一度本教信者となるや、如何なる人でも直ちにこの福音に浴す事が出来るのである。
即ち病める者は医され、貧なる者は裕かに、争いは霧消し、不幸は幸福に転化する等々、神の恩恵の如何に深遠なるかに感激するのである。そうして個人の集合体が、社会であり、国家であり、世界であるとしたら、本教発展に従いここに平和幸福なる地上天国は実現するのであって、かくして神の御目的は達成せられるのである。その境目が現在であるから、先ずこの事を知り、幸福を掴む事こそ光栄の至りである。
故にこの著は、宗教始め凡ゆる事象の真髄を、神智を通じての解説書であって、今まで書いた多くの中から、私の指示のまま弟子に選ばせ、編纂したものであるから、実に空前絶後の真理の解明であり、寸毫の誤りはないのである。それと共に、今後も続々出るので、溜った都度刊行する予定である。即ちこれこそ救世教の聖書であり、将来世界の宝典として子々孫々に伝えらるべきものであろう。
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