令和元年メシヤ様御降臨祭挨拶
令和元年12月23日
令和元年メシヤ様御降臨祭挨拶
三救責任者
みなさま、三救として二回目、令和になって初めての『メシヤ様御降臨祭』おめでとうございます。今年もこの三救で祭典を執り行わせて頂けますことを、メシヤ様に感謝申し上げます。
〇生
昨年、「三救」の今年の漢字は「生」で、メシヤ様が現界に新しく生まれ、三救は10月に新しく生まれた。私たち人間は、神様から使命をいただいて生まれてきました。使命とは、「三救」の理念であり、天職使命を遂行できるようこれからの御神業に共々努めてまいりたい。」と挨拶させて頂きました。
〇令
新しい時代が始まり、令和元年は、『令』という漢字で表わされました。この漢字は、「頭上に頂く冠の象形」と「ひざまずく人」の象形から人がひざまずいて神意を聞くことを意味し、そこから「命ずる、いいつける」というのが「令」という漢字の成り立ちで、人々を集めて神様や君主の宣告を伝えるさまをあらわす。清く美しいの意を含む。元は、神々しい神様のお告げのこと。と辞書にあります。
〇額づく
私達、人類が額づく神様とはもちろん主神様であり、メシヤ様ですね。
「額づく」という言葉には皆様も思うところがおありかと思います。
一昨年、メシヤ様の御歌を今年の指針として、おみくじのように、引かせて頂きました。
その時の御歌が、
『全人類やがて我前に跪(ひざま)き 命を乞ふる時近まりぬ』
『八百万神も仏も我前に 額づき救ひを求むる今はし』
でした。この御歌は本当にその年の指針となりました。
そして、一昨年は、人類も、仏様も、神様もメシヤ様の御前に跪(ひざまづ)いて額づいてお詫びを申し上げる型を示したような年になりました。
5月「令和」の幕が開け、『令』の漢字が今年の漢字となりました。型が反映していくというのはこういう事なんだなあ。と神界と現界の繋がりに感じ入った次第です。
〇最高最貴の主神様、メシヤ様に真向かう姿勢、参拝の在り方
さて、「メシヤ様は主神様のお仕事をなされる最高最貴の御方なのですが、人類を救済するために、現身(うつそみ)の姿を持って地上に降りてこられました。そして、人類がおおよそ経験するであろう苦労を御自らなめられて、観音様として観音行から始められ、私達に人を救う力と人を救う方法を授けてくださいました。そして、順次御神格が上がられ、最後は救世主(メシヤ)とお成り遊ばされました。
最高最貴の主神様、メシヤ様に真向かう姿勢、参拝の在り方を先生は求め続けておられました。本日はメシヤ様を求める想念を確立させていただく良い機会でございますので、「祝詞奏上について 参拝する時のイメージ作り メシヤ講座・特選集(№128・平成23年9月分)」について確認させて頂きたいと思います。
旧の三重の御神前を作り変えて御神体をお迎えする前に拝した事について、
【発表文(2010年立春祭体験発表)を抜粋します。】
「後は御神体を迎えるだけ」となった4月4日に、御神前で、御浄霊をいただきに見えたある方と参拝をさせていただいている時に、御神体を御奉斎するその白壁に、光輝く階段、そして階段上には丸い輝く光々しい物を拝しました。その時、感じたのは、六十段の神界のそのまた上段ではないのかということと、善言讃詞の中の一節『光明如来と現じ 応神弥勒と化し 救世主(メシヤ)と成らせ・・』で、まさしく我家にお迎えさせていただくのは、最高の御神体なのだと、強く強くわき上がる喜びに、胸に熱いものが込み上げてきました。
その情景と御教えをくっつけると、御神前はどうなるかとイメージを膨らませていただきたい。想像して見てください。
主神様が頂点におられて、見えた段は霊界全部の段ではなくて天国界の段です。その段数にそれぞれの役割を担った神様が、御神格に応じて整然とお並びになってくださって居られる。その中に皆様方の氏神様もお並びになって居られます。その前に皆様方は座って礼拝をするのです。そうして、『祓戸大神等 諸々の枉事罪穢を 祓ひ給へ浄め賜へと申す事の由を 』と唱えると 祓戸大神様がサーッと出てきて、祓うのです。それが皆、主神様の許可によって執り行われるのが、この月次祭なのだ、と、そういう気持ちでズーッと祝詞奏上を聞いていただけると有難いです。(御降臨祭などの祭典も基本的には同じだと思います)
そういうような気持ちを膨らませてこの御神前に額かなければ祝詞の意味がさっぱりわからないということです。
その形として、主神様は半径150億光年の宇宙総てを主宰されておられるので、その主神様の地球をお救いになる部分だけがメシヤ様として正面に出て来られているのですが、縦に(重ねて)御奉斎すると主神様が見えないので横に(御尊影を)御奉斎させていただいているのです。
それで御神業上必要なお金を運んでくださるのが大黒様です。大黒様は元々人間だったのですが、神格を得た人格神ですのでズーッと下の辺りです。この間にいろんな役割を担う神様とか氏神様の御神霊が我々の霊統に応じて整然と並ばれているのです。そして、月次祭を今か今かとお待ちしているのがこの御神前なのだということです。
その御神前に対してまず天津祝詞を奏上することによって、我々の日常の枉事罪穢をまず祓っていただいて、それから、メシヤ様がおつくりになった善言讃詞を奏上して、その善言讃詞によって天国が作られて行く形が詠みこまれているのを響かせて、そして、我々の霊界をズーッと天国に引き上げていただけるのがこの天津祝詞、善言讃詞なのだという意識を持って月次祭に来ていただきたい。
そういう尊い月次祭だから参拝を絶対欠かしてはいけない、そういうものなんだ、という意識を持って、毎月毎月意識を高めて足を運んでいただきたいと思います。(また、その際の服装も、自ずから在り様が定まってくるものなのです。)
善言讃詞の前に天津祝詞を奏上する。天津祝詞を奏上する時の御神前の姿ですね、それを今日を境にさらに意識作りをしていただきたい、と思います。
『文明の創造』を中心にしてズーッと学びを積み上げてきたからこそ、こういうお話をする事が出来たのです。
それから、「おしえみおやぬしのかみ」というのは、一般的に教祖様です。教祖の祖はおやと読みます。遠津御祖(とうつみおや)と一緒です。
もうメシヤ様という御存在になられたので、ややこしい言い方をしなくて良いのです。
もう主神様とメシヤ様は御一体であるし、大きさこそ違うけども同一神霊であられるのでね。だから主神様だけの御神名を唱えれば良いのです。
メシヤ様は『信者たるもの常に魂を磨き言葉を練り・・・』と仰っていますね。
言葉を練り、と言われた以上一番大切な参拝の言葉がおかしければ信仰自体どうにもなりません。「そう思って私は言っているのよ」と言うのと同じなのです。子供が「思っているのはこういうことだけど口を衝いて出ちゃったの」と言った時に「何馬鹿なことを言うの」と叱るでしょう。
だから我々の信仰姿勢も「言葉ではこう出ているけども、心はこうなんです」と言うことはね、神様からすればね、親と一緒だから、『何馬鹿なことを言っているんだ』ということになるからね。その点を一つ一つ正して行かないといけないということです。
まずは参拝する時のイメージ作りからきちんとしていただきたいと思います。
参拝の想念作りがより明確になったかと思います。私達が月次祭へ臨む姿勢も含めて、日々、月々、向上を目指す上で参考にしていただきたい内容ですので、繰り返し確認していただくようにお願いいたします。
〇『仁愛(メシヤ)の御手に帰一され』
次に、参拝の想念つくりということに関わってまいりますので、『仁愛(メシヤ)の御手に帰一され』と善言讃詞を改められた時のメシヤ講座も再確認させて頂きたく思います。
『仁愛(メシヤ)の御手に帰一され』と善言讃詞の文言を改められましたのは、2012年の御降臨祭からでした。今年で7年になります。七は、土ができて完成する。「ナリナル」などと、できあがること。ですので、唱え続けて完成させることを求められた年であったわけです。来年は、八年目ですから自然と開けていくわけです。
それでは、2012年の先生の想いに立ち還って、本当に先生がお望みになられたことが何であったのかと、想いを馳せながら聞いていただきたく思います。
2013年1月の浜松でのメシヤ講座
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「それから、御降臨祭の時にもお話ししましたように『仁愛(メシヤ)の御手に帰一され』という風に文言を改めましたので、この仁愛と書いて『仁愛(みろく)の御手に帰一され』という表現は、この”みろく”は大本教からきている部分があります。大本教の教典の中とか、それからお歌の中にもこの御文字をもって”みろく”と読まされているところが多く出てきます。
それから次の「仁慈(じんじ)」、この仁慈ということも仁慈の神とかいう表現を使って、仁慈というのも非常に大切な文言であります。それから「仁愛(みろく)」の前に「一天四海観音の」という風に言って観音の後にまた「仁愛(メシヤ)」という神様が続くのはどうかというような、そういう質問も来る途中多くありましたけども、これは最初に、「敬しく惟るに 世尊観世音菩薩此土に天降らせ給ひ 光明如来と現じ 応身弥勒と化し 救世主(メシヤ)とならせ」という、これを凝縮したものだというふうに考えていただきたいと思います。そこをもう一度「一天四海観音の」、それから続けて「応身弥勒と化し」というようなことまで入れていくと、二重に表現を使ってしまうことになって祝詞としての格調が非常に下がるので「観音の 仁愛(メシヤ)の御手に帰一され」というこの言葉の中に「応身弥勒と化し」という言葉などが全部詰まっているというふうにお考えになって、これから を奏上する時にはそういうお気持ちで奏上しいただければ大変ありがたいと思います。」
「一天四海観音の
敬しく惟るに 世尊観世音菩薩此土に天降らせ給ひ 光明如来と現じ 応身弥勒と化し 救世主(メシヤ)とならせ・・・想念で御唱えする。
仁愛(メシヤ)の御手に帰一され」―――三救補筆
どうでしょうか? ところがその御神格の向上の認識が信者のほとんどの方が出来ていなかったと思われます。
善言讃詞はメシヤ様の御神格の向上そのものを顕しており、その時々のお働きでもって、地上天国を建設していく様相を、日々私たちは祈っている、想念を一つにしているのではないかと思うのです。
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〇
先日三救に、来客があったのですが、三界万霊 の書を見て「素晴らしい文字」だと感嘆されまして、「どなたのお文字ですか」と尋ねられましたのでメシヤ様のことと、「三界万霊の三界というのは神界、幽界、現界のことです」。とお話しさせて頂きました。
【御教え】光明分会『会報』5月号、昭和24年5月5日
「三界万霊救はせ給ふ」との三界の意味を御教えお願い申し上げます。 神、幽、現、の三界。 神、仏、現界。 経(たて)は天国、中有界、地獄。 緯(よこ)は現界、空気界(地獄、中有界)。 のことを言うのであります。
【御教え】『結核信仰療法』昭和27年12月1日
この世界の構成であるが、それは一次元の物質界と、二次元の空気界と、三次元の霊気界との三段階から成立っている。
実はこの来客は仏具屋さんです。幽界(仏界)のお仕事をされているわけですね。
その方と御神前(神界)で、現界の話や慰霊の話、そしてメシヤ様の話をしたわけです。型のように思えてなりません。
五六七教教義(光号外 昭和二十四年五月三十日)に、
『主神の分霊たる観世音菩薩は、大光明如来又は応身彌勒の御名によって千変万化の御活動をなし給ひ、末法濁世を浄め三界万霊を救はせ給ふ事を信ず。』
とあり、
御讃歌集(改訂版) 昭和26年5月28日 で、
『三界万霊 洩(もれ)なく歓喜に浸(ひた)るらむ 大神光(おおみひかり)の隈(くま)なく照らせば』との御歌をお詠み下さっております。
私達の使命というのは『三界万霊』を救う大きな仕事なのだと、メシヤ様の御光を三界に届けていくのだと、そういう大きな想念をもって、御教えを伝える事と『浄霊』に取り組んでまいりたいと思います。
〇2020
令和二年2020年は
二・・・陰陽 東洋西洋であり、
二十・・・王となり、その上に最高の神様がお乗りになって世界を御経綸になる。という意味が(2020で)重なっておりますから、東洋と西洋にメシヤ様が降誕遊ばされて王となられ、最高の神様(主神様)が世界を御経綸になられる。
そういう年に霊(ひ)の本(もと)の国、日本で五輪(オリンピック)が開催されるのですから、メシヤ降誕本祝典でメシヤ様が現界にお出まし遊ばされ、その御力を存分に世界にお示しになられるのにこれほど相応しい年はないのではないかと思います。
〇まとめ
本日、 参拝する時のイメージ作りを再確認させて頂きました。『主神様とメシヤ様』を学び、メシヤ様の御神格の認識の向上を求め続けているからこそ、最高最貴の神様に真向い、参拝させていただく想念つくりを再確認すべきことに気づかせて頂けたのだと思います。
御教えもメシヤ講座も尊敬の気持ちをもって拝読させて頂くならば、常に新たな「気づき」をお示しくださいます。語りかけてくださいます。
令和という新たな時代になり、昭和は二昔前になりましたが、それは日本の天皇の歴史観です。釈迦の教えや聖書は2千年の時を人々を導かれました。
メシヤ様降誕がなった今、メシヤ様の御教えがこれからの時代を導いていくのです。
メシヤ様の御教えをもとに、どのように導いていったらよいのかという型を先生はご教導くださいました。
今年の冬至は昨日でありますが、古より冬至を「一陽来復」と称し、その翌日を「陰が極まって陽に転じた日」、「善い方に向き始めた日」としてお祝いする慣しがありました。
御教えに、『二十二日は日が一番短いんでね、二十三日に生まれたっていうのは、これから春になるっていうそこに働きがあるわけです。』とありますので、これから春になります。良い方向に向かうのです。ですから、御教え、浄霊、メシヤ講座の実践を気持ちを新たに、本日より出発させて頂きましょう。本日はおめでとうございました。
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令和元年の最後の祭典でもありますので、
令和始まって直ぐに「梓(あずさ)」というタイトルでブログに投稿した内容をもう一度聞いていただきたいと思います。アンコールですね。アンコールの語源はフランス語で、再び、もう一度、の意味だそうです。
梓(あずさ) 2019年05月07日
令和の時代が始まりました。
皇室にはお印と言ってシンボルマークのようなお名前の代わりとなるものがあります。徳仁天皇陛下は梓(あずさ)です。本を出版することを上梓と言ってこの梓(あずさ)の字を使いますね。建築や出版に使われる日常生活に欠かせない貴重な材木だそうです。
この梓の字を考えてみますと
木は国の霊返しだと御教えにあります。
立の下の十は経(たて)緯(よこ)を結んで立つ国が日本なのだという意味になるかとも思います。
そして、徳仁陛下のお名前はつくりは十と四と心、そして行人偏ですね。
四つの心を結んで行する。
四魂を結んで(調和して)行するのが徳だということが言えるかと思います。
四魂
四魂については御教えに『四魂の調和した働きを伊都能売の働きと言い、観音行である』とありまして、
荒魂(あらみたま)ーーー勇気 強盗はダメ 勇
奇魂(くしみたま)ーーー智慧 叡智〇 奸智× 才智× 智
幸魂(さきみたま)ーーー慈悲 人を幸せにする気持ち 愛
和魂(にぎみたま)ーーー人と親しむ 怒らないこと 親
徳というのはこの四魂を結んで(調和して)行う。
伊都能売の働きを令和の時代は行っていくのだと。
その働きを日本という国は霊の国なのですから他の国の規範となって霊主体従の活動を私達御教えを学んだものが行っていくならば、必ずや地上天国は建設されるのだと思います。
楳木先生がご帰幽されしばらくしたころ、妻が三救の御神前で「モノではない」「楳木は儂の元で働く」というお言葉を聞きました。
先生がメシヤ様の元で働かれておられることは明らかだと思います。
「モノではない」ということを二年間問い続けてまいりました。
「モノではない」ということは組織運営や建物ではないという事ではないかと思うのです。
「メシヤ様の御精神を現代に伝えていく」ことが先生のご精神を現代に伝えていくことであると思うのです。
歴史は繰り返します。
昭和においてメシヤ様がご帰天あそばされ、二代様が世界救世(きゅうせい)教の教主として立たれ、御教えの95%が非公開になされるということが起こりました。
当時いくつかの教団が離脱しました。
私が楳木先生と出会う前の平成11年に私は京都のN先生の御教え研鑽会に学びましたが、そのN先生も離脱され、このままでは御教えが隠され、メシヤ様のお言葉を神様のお言葉と認識できる人、伝えていける人が皆無になってしまうと危惧され、御教えを収集され、御教えの編纂に努められました。
御教えを隠すことはメシヤ様を隠してしまうことだと、若い皆さん方が(当時私は30代でした)御教えを学んで伝えて行かなくては地上天国は成りませんよ。と熱く語っておりました。
平成11年ですからちょうどその年ですね、楳木先生は玖珠の地に初めて主神様の御神体を奉斎され、浄霊力伝授活動とメシヤ講座に取り組まれ始めたのです。
先生が生涯をかけて各地に細目に足を運ばれ、インターネットで発信されたメシヤ講座は180号に及びます。
霊層界の段数も180段ですね。メシヤ講座の一回一回の積み重ねが霊層界の階段を上っていくように、天国への道しるべをお示し下さっておられたのかもしれません。
現界から霊界へ籍を移してもなお、私達を誘ってくださっておられるのだと思います。
「メシヤ様の御教え」「メシヤ講座」は隠すことなく伝え続けていくことが私達メシヤ様の信者、そして楳木先生に御縁を頂いた者の使命ではないかと思っております。
メシヤ様を再び押し込めてはならず、先生もお隠ししてはなりません。
学びたい、伝えたい、取り次ぎたい そう思いませんか。
どうしたら御教えを、メシヤ講座を伝えていけるのだろうか。
議論の中心はそこになくてはならないと思っています。
というのが、投稿の内容です。
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180段 という階段の話は、本日学ばせていただいた主神様に真向かう姿勢に通じます。その上、最上段に鎮座されますのでね。
そして、メシヤ降誕本祝典記念大祭(平成29年3月)で、「四魂の調和を目指す」として体験発表があったのを覚えていますか。
自分の性格を分析され、「悪を否定するのではなく自分も含め皆悪い部分を持っているので、話し方一つをとってみても、言葉を練って、共感を得られるように努めていきたいと思います。」
「花鳥風月、百鳥の声、紅白梅の老木向かい合う、恵まれた環境に住まわれ、メシヤ様に日々感謝の生活の中で今まで以上に自分を見つめ、魂の癖に気付いて直していく努力をしていきつつ、四魂の調和を目指して神性が蘇って、充分に御力をいただけるような道を歩ませていただきたい。神性を取り戻す努力をしながら、メシヤ様の御神意に適うご神業の場として、たくさんの人が許されるように願いつつ、今日新たな出発をさせていただきたい。」
と発表されました。
「梓」のお印を持ち、四魂を結んで(調和して)行するのが、徳の名をお持ちの徳仁天皇の令和の時代なのです。令和の時代の目指す望ましいあり方を先取りされた素晴らしい発表であったと思います。
今まで幾度も学ばせて頂きましたように、善悪を司るのは主神様であり、メシヤ様です。人の善悪をとやかく言わず、『四魂の調和した働きを伊都能売の働きと言い、観音行である』との御教えの通り、私達は観音行に徹してまいりたいと思います。
2018年より三救での御神業を始めましたので、2020年は3年目を迎えます。
御講話 昭和10年8月11日
『観音会がだんだん発展する上においても、観音様は非常にやわらかくて厳粛で、たくさんな人を呼び寄せては、一人も残らずお試しになり、すぐりにすぐりこの人はという人だけ残し、そういう人達で固めて建設されるので、実にその点は大磐石で、ただパッと拡げない。世間ではよく形だけ見せるようにするが、こういうやり方は非常に観音様は嫌われる。場当たりのいい、ある一時的の仕事などはなさらない。要するに真実で飾り気のないこと、人間のように衒(てら)いもなにもない。本当のお試しとは、自己というものをぜんぜん見ない。本当に世界人類を救わなければならぬというやむにやまれぬ状、またこの世の中の状態を見て、実に哀れだ、かわいそうだ、見てはおれぬ、しかし人間の力ではどうすることもできぬ、しかし観音様が観音力を揮われるにつき、その一部にも加えてもらって、そして力限りやらしてもらうというそれだけで、そこに名誉心などがあると、反対の結果になる。』
と今月の『覚りの旅』で学ばせていただいたばかりです。
人間の力ではどうすることもできないのですから、パッと拡がらずとも、メシヤ様の御神業の一部に加わりたいと集う人たちと共に力の限りやらせていただきたいと思います。
さあ、気持ちを新たに今日よりの御神業に出発しましょう。
本日はおめでとうございました。
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