節分祭 式次第

祭典五分前になりましたので、ご着席ください。
そして携帯電話などはマナーモードにされるか電源をお切りになって祭典に臨む姿勢づくりにお努めください。

祭典三分前になりました。


しもわれ このでずば全人類ぜんじんるい 
ほろてなんつみ重荷おもにに』

われとはメシヤ様のことです。

罪を背負せおった神々をも、全人類をもゆる権能けんのうをお持ちになられたメシヤ様が地球に、おあらわれくださったからこそ、すくいのみちひらけているのです。

罪の根元こんげんは、

神様を押し込めたこと、

薬をもちいたこと 御教みおしたまわっています。

くすり信奉しんぽうの世の中をうれい、おびし、

メシヤ様の御教みおしえが、

全世界にひろがる事を念じたてまつります。


(祭典)
ただいまから、メシヤ様の御教えに基づき
『節分祭』を執り行わせて頂きます。

天津祝詞・神言 奏上

御浄霊

御教え拝読 世界救世(メシヤ)教教義
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三救責任者節分祭挨拶  令和四年二月三日 

過去の節分祭におきましては、正しい神様を押し込めてしまった。隠してしまった事跡をとらえ、素戔嗚尊の不行跡に対して、あるいは天若彦命をはじめとする神々が国常立尊様を隠退に追いやった罪、そして人間が見て見ぬふり、何もしなかった罪。
そういう私達人間が知らず知らず、夜の世界から癖として受け継いできた罪穢れを、主に国常立尊様に対して想念を当ててのお詫びが中心でした。
今回は司会から祭典前に読んでいただきましたように、
新年の御詠を三救をはじめとする人類に、
神様からお示しくださったことと受け止めまして、
主神様から神々を赦し、人類を赦す権能をもたれて、
そしてこの地球を救うために現れてくださった。

メシヤ様にお詫びし。赦しを請い願い奉る。

この1点に集中しての祭典となったと思います。
日本は世界の雛型でありますので、私たちが厳粛に祭典を執り行わせていただく。
毎年継続して取り組むことの意義は大きいのです。

明日の立春祭は十一時開式です。
よろしくお願いいたします。
本日はありがとうございました。


以上をもちまして節分祭を終わらせていただきます。
ありがとうございました。

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もしもわれ このどにいでずばぜんじんるい ほろびはてなんつみのおもにに

若しも吾 この土に出でずば全人類 滅び果てなん罪の重荷に

(参考)

幸運の秘訣

『栄光』246号、昭和29(1954)年2月3日発行 より

 以上のごとく霊界の籍通りが体に移り、運命となるとしたら、霊の地位向上こそ幸運の根本である事が余りにも明らかである。何よりも事実を見ても分る通り、世間よく出世をして人から羨(うらや)まれるようになり、自分もいい気持になって、いつまでも続くと思っていると、豈(あに)計らんやいつしか失敗転落、元の木阿弥(もくあみ)となる例もよくある。というのはこの理を知らず、人力にのみ頼りすぎるからで、しかも人を苦しめ、無理をする結果、形だけは成功しても、霊は地獄に堕ちているので、霊主体従の法則によりその通りの運命となるのである。そうして霊にも物質と同様重量があり、重ければ地獄に堕ち、軽ければ天国に上る。昔から罪の重荷というが、その通りで、悪の行為は霊が曇り重くなるに反し、善の行為は軽くなり上へ昇るのである。故に人間は悪を慎み、罪を作らないようにする事で、出来るだけ善を行い、霊を軽くする事こそ幸運の秘訣である。これが真理である以上、これ以外方法のない事は断言するのである。といってもなるほど理屈は分るが、さて実行となると中々難かしいものである。ところが容易に出来る方法がある。これこそ信仰であるから、幸運を得たい人は何をおいても、まず信仰に入る事である。

観音様は主神で、全世界を自由にし得る神

御講話 未発表、年代不詳

観音様はとても大きくくださる。なんとなれば観音様は主神で、全世界を自由にし得る神で、金持ちでいえば日本一の金持ちだし、否世界一の金持ち、同じ金持ちでも中位のと小位のと違う。

 同じ番頭でも、同じ働いてもたいへん違う。要するに観音様は、世界一の所有者で、なんでも持っておられる。観音様にいただくということは、どんな大きなことになるか判らないのであります。

その人は徳がつくから、善いこともたくさん出てくる、思わぬ良いことが出てくる。家は栄える。よくなるなど、徳を積んだ報いは、仏教のほうなどで説いてあるから……。言うまでもなく、特に観音様は全世界を救われることを始められた。

 で、治るのは、罪の重荷を観音様がとってくださる一般では、その罪をお医者や薬がとってくれると思うから違う。顕微鏡みたようなものなど、そんなもので罪はとれぬ。それは罪をとるためにできたものではない。肉体に現われたものを消滅しようとする。

 観音会では、人間に観音光を与える。すると子孫が祖先から受けた罪は解消し、この人の魂が光り、光が放射して祖先の罪は許されて天国へ行く。天国ではみな観音様のお側へ行く。ですから祀るより早く行く、根本的であります。

病気はすべて罪の重荷に堪えきれず死ぬのである

御講話 未発表、年代不詳

 どういう形で祖先の罪は子孫へ来るかというと、多く脊髄へ来る。御自分の犯した罪は外へ来る。

 頭と脊髄へ来る、これはなにか、祖先から子孫へ流れる形は経である。祖先の霊線は頭へ来ている、目の上へ来る。

 よく頭が重いというが、これは祖先が霊界で苦しんでる証拠で、頭へ来てオッかぶさってるわけで、頭へ重荷を負ってるわけである。首筋から脊髄へ来、よく脊髄カリエスになる。これは罪が直接流れて来て膿になってくる。

 肺など脊髄から膿が出て肺に入るのが非常に多い。そういうわけであるからして、祖先の罪穢ということによって病気発生し、それにより早く死ぬ。これが根本原則である。

 霊統というのは、霊線といい霊に線があり、これはたくさんあって、いままで霊的事実にぶつかって霊統というものは争えないことをたくさん経験していますが、よく霊が乗り憑ったり、死霊が祟ることがあるが、ぜんぜん縁もゆかりもない所へはできない。善いにつけ悪いにつけ、必ず霊統のものに祟ったりなどする。

 どんな方でも、祖先の霊線は何百本、何千本、霊の巣のごとく引かれている、総合されてる。これは切っても切れない、どうしても繋がってゆく。草木とすれば、種が落ち実がなり、また、種ができ、実がなると……そうなって、どこまでもその種の霊統が繋がっている。

 米なら米として、どこまでも米は米で、多少の変化はあっても、麦はどこまでも麦である。粟はどこまでも粟である。どうしてもそれだけの特色をもって続く。これが何種何億にもなる。

 自分自身は霊線により繋がってる。ぜんぜん関係なく繋がっているものでない。

 祖先がまるっきり罪なく往生することもない、めったにない。なにでそれは証拠立てるかというと、寿命でないのに死ぬことがある。なぜ死ぬかというと、罪の重荷に堪えきれずに死ぬ。病気はすべて罪の重荷に堪えきれず死ぬのである

本当の誠

御講話(S27年4月1日)『御垂示録』8号、昭和27(1952)年4月25日発行

それから、みんな罪の重荷をいっぱい背負ってますからね。病人を助けるのも結構だし、金の御用をして、早く地上天国を造るというのも結構ですし、そこが ちょうど良いところですね。なかなか難しいですがその人なりに、自分はこのくらいが良い、こうすべきだ。と言う程度にやれば良いんです。それで、そういった信仰の関係や理屈は、御神書を読んで、教師は私の話を、質問したり聞いたりすることそれから普段、先輩の先生――資格者から聞いたり、質問したりして、だんだん磨いていくんです。

 一番いけないのは、あの人はああやっちゃいけない。あの人は間違っている。と言うことがいけないんですよ。人の良いとか悪いとか言うことは、人間には解らないんだからね。神様以外には解らないんだからね。あの人は邪神だとか、邪神が憑いているとか言うことは、神様のなさるべきことを冒しているので、たい へんなことです。だから、人を見ないで自分を見るんです。自分は間違っているかいないかと見るんです。それが本当の誠です。人の悪いことを諌める――注意 するのが良いことと思っているが、それがたいへんな間違いです。一般社会ならそれで良いですが、この教団の信者になった以上はいけないんです。もしその人 が間違っていれば、神様が捻(ひね)っちゃいますよ。何でもないです。もしそうでないなら、人間が神様の力より上になっちゃうことになりますよ。それで、 今度書きましたから、新聞に出します。そういう点において、世の中とよほど違いますからね。それが、信仰の妙諦(みょうてい)なんですよ。

 結局、何でも決めるのがいけない。決めると間違う。決められないこともあるんだからね。だから、だいたい決めてはいけないということにして、それから決 めなければならないことは決める。それは、事と次第によっていろいろあるんだから――決めないと決めるようにするのもいけない。そこが千変万化、幽玄微妙 の境地なんです。だから、それに少しでも近寄って行けば、その人は本当に身魂が磨けているんです。これは今までの信仰にはないんです。これは高い信仰なんです。そういう人の信仰は間違いないんです。それが真理なんだからね。

霊層界

自観叢書第3編『霊界叢談』、昭和24(1949)年8月25日発行

霊層界のより上段に霊魂の籍をおく事が幸運者たり得る唯一の方法である。元来霊魂の位置は一定してはいないもので常に昇降している。なぜかというと軽い程上方に昇り、重い程下向するのであって、この軽重の原因はいかなる訳かというと、人間の行為の善悪によるもので、善事を行ない徳行を重ねれば罪穢が減少するから軽くなり、悪事を行ない罪を重ねれば罪穢が増すから重くなるという訳で、昔から罪の重荷とはよく言ったものである。故に善悪の心言行そのままが霊線によって神へ直通するのであるから、この理を知ったならどうしても善徳者にならざるを得ないのである。

 前述のごとく人間は神の命によって、運命は疎か生死までも決定するのであるから、人間の生命の命の字は命令の命の字である。故に死とは神よりの命令解除である。それは世の中に害毒を与えたり生存の価値なきためであるから、人間は命令を解除されぬよう神に愛され社会有用なる人間にならなければ、長寿と幸福は得られる筈がないのである。

浄霊によること、私の本を読むこと

明主様と御対談(二) 『栄光』267号、昭和29(1954)年7月28日発行

明主様 魂の罪が減ればよいのです。つまり、罪の重荷と言いますが、その罪を取れば軽くなるから上がるのです。

真山氏 どういたしましたらその罪が取れましょうか。

明主様 浄霊によることと私の本を読むとかすることです。それは光が出るからです。私の方で発行する新聞の活字から光が出るので、それを見る人があります。

真山氏 そうしますと私どもは当分の間は貧から救われないわけですね。

明主様 あなたしだいです。救われたいと思えば信者になればよいのです。そうすればドンドン良くなります。しかし、うまいことを言って信仰させようとするのだろうと思うでしょうが、思っても思わなくても、「信じろ」と言うのは嘘です。ものは試しだ瞞されたと思ってやって「なるほど、これだな」と思えばよいし、思わなければ御守りは捨ててもよいのです。

真山氏 私も救われたいとは思いますが……それはやはり罪が多いわけでしょうか。

明主様 人を苦しめるというのは罪になりますが、自分が仕合せになろうというのは本当の欲求です。人をいじめてオレだけというのはいけませんが、人も良くなりオレも良くなるというのは良いです。共存主義です。

毒素の解剖 

『結核信仰療法』昭和27(1952)年12月1日発行

さてこの世界なるものは、霊界と物質界との構成であるから、人間も同様霊と体とで成立っており、両者密接不離の関係にあって、霊体一致が原則である。という訳で霊の曇りが体に映れば濁血となり、濁血が霊に映れば曇りとなる。これが最も重点であるから、そのつもりで読んで貰いたい。そうして今それを霊の方から説いてみると、人間が悪の行為をするやその罪が霊の曇りとなり、この曇りの溜積がある程度に達するや、ここに浄化作用が発生する。これが病気、災害、または法による刑罰であって、これに洩れた分が神の律法によって霊的刑罰を受けるのである。しかしこの刑罰をいかに巧妙に免れ得たとしても、神のそれは絶対である以上、体に移写して大きな苦悩となる。もちろんこの際の病気は悪性で、多くは生命にまで及ぶのである。そうして悪の刑罰は、早ければ早い程軽く済むもので、ちょうど借金と同様、返えさずにおくと利子が溜るようなものである。しかし悪人によっては、人と神との両刑罰を巧く免れる者も稀にはあるが、それらは死と共に霊界に往くや、罪の重荷によって地獄のドン底に堕ちてしまうので、いかなる悪人も悔悟せざるを得ない事になる。

夜の終り近づけり汝等悔改めよ

『光』42号、昭和24(1949)年12月31日発行

 以上の意味において、大審判が今や全人類の頭上に蔽い被らんとするこの秋(とき)一人でも多くの人間を救い給うのが神の大愛である以上大審判の執行者であり人間の生命を握られ給うのであるから神の御手に縋って罪を許されるより外にこの難関を切り抜ける方法は絶対ないのである、すなわち人類が負える罪の重荷を神の御手によって取除かれ清められる以外救われる道はないからである。

 私はこの最後の救いの執行者として、神の委任のままに責任を遂行すべくここに一大警鐘を鳴らすのである以上、耳を塞ぎ聞くを欲せざる人は自ら滅びの運命を選ぶ人と言うより外に言葉はない、いよいよの時になって悔改むるも最早取返しのつかない事を警告して筆をおくのである。