2022年12月31日土曜日

覚りの旅  令和4年11月 月次祭を終えて

 令和4年11月1日

   覚りの旅  令和4年11月 月次祭を終えて
三救責任者
皆様、月次祭おめでとうございます。

実は、先月〇日の夜に家内と2人とも突然発熱しまして、私は39.5度まで上がり、家内も39度近くまで上がりました。 頭はガンガン、腰は痛くて、食べるものの味が濃く感じる。丸24時間寝続けました。汗をかかない、こもるというのが特徴かと思います。2人とも同時に浄化すると同時に復帰できるのですが、浄霊をいただけないので、自己浄霊で乗り越えるしかないですね。浄霊力を授かっている、自己浄霊のお許しをいただいていることのありがたさを痛感いたしました。
もう一点報告がございます。令和3年版年報はすでに配布はさせていただきました。
この度、平成30年から令和元年版と令和2年版を作成いたしました。
令和2年版は、図もふんだんに取り入れました。少々見にくいですけども、多数挿入いたしましたので、ちょうど333ページになりました。図を見ながら、しっかり学びを振り返っていただきたいと思います。
宜しくお願いいたします。

それでは、『文明の創造』をですね、今回黒塗りにしましたので、皆さんと共に読みながらここ(黒塗りの部分)を答えていっていただけたらと思います。

○○さん読んでもらえますか?

参加者
はい。

『総論』(文創 昭和二十七年)
私は之迄病気に対し、詳細に直接的解説を与えて来たから、病気なるものの真原因と、既成医学が如何に誤ってゐるかが分ったであろうが、まだ知らなければならない点が種々あるから、之から凡ゆる角度から医学の実体を検討し、解剖してみようと思うのである。

『手術』(文創 昭和二十七年)
近来、医学は大いに進歩したといひ、取り分け手術の進歩を誇称してゐるが、私から見れば之程の間違ひはあるまい。考える迄もなく、手術が進歩したといふ事は、実は医学が進歩しない (進歩しない) といふ事になる。
といふと不思議に思ふであろうが、手術とは言う迄もなく、病に冒された機能 (機能) を除去する手段であって、病其ものを除去する手段ではない。判り易く言えば、病気と其機能とは密接な関係はあるが本質は異ってゐる。
従って真の医術とは病 (病) だけを除って、機能は元の儘でなくてはならない筈である。処が医学が如何に進歩したといっても、病 (病) のみを除り去る事が不可能であるから、止むを得ず二義的手段として、機能  (機能) をも併せて除去して了ふのであるから、此事を考へただけでも、手術の進歩とは、医学の無力 (無力) を表白する以外の何物でもない事が分るであらう。斯んな分り切った理屈でさへ気がつかないとしたら、今日迄の医学者は驚くべき迷蒙に陥っていたのである。従って何としても大いに覚醒して、初めから行り直すより外あるまい。即ち医学の再出発である。処が今日迄其意味を発見した者がなかったが為、盲目的に邪道を驀進して来たのであるから、何年経っても人類は、病気の苦痛から解放されないにみて明かであらう。
以上の意味に於て考へてみる時、手術の進歩とは、医術の進歩ではなく、技術 (技術) の進歩でしかない事が分るであらう。そうして尚深く考へて貰ひたい事は、造物主即ち神が造られた万物中最高傑作品としての人間 (人間) であるとしたら、仮にも神として人体を創造する場合、五臓六腑も、胃も、筋肉も、皮膚も、何も彼も無駄 (無駄) なものは一つも造られてゐない筈である。之は常識で考へても分るであらう。処が驚くべし、二十世紀に入るや、人間の形はしてゐるが、神以上の生物が現はれた。其生物は曰く、人体内には種々な不要物がある。盲腸も、片方の腎臓 (腎臓) も、卵巣 (卵巣) も、扁桃腺もそうであるから、そんな物は切って除って了ふ方がいい。そうすればそれに関した病気は無くなるから安心ではないか、と言って得々として、メスを振っては切り除って了ふのである。何と素晴しい超人的、否超神的存在ではなからうか。処が不思議なる哉、此大胆極まる暴力に対し、現代人は無批判処か、随喜の涙を雫(しずく)してゐる。而も、人民は疎か、各国の政府迄も有難がって、之こそ文化の偉大なる進歩であると心酔し、援助し奨励迄してゐるのであるから、其無智蒙昧さは何と言っていいか言葉はないのである。としたら此現実を見らるる流石の造物主も、呆れて唖然とされ給ふと察せらるるのである。そうして右の超神的生物こそ、誰あらう近代医学者 (近代医学者) といふ人間である。としたら全く彼等の人間を見る眼が強度の近視眼にかかってをり、近くの唯物科学だけが見へて、其先にある黄金の宝物が見えないのであらう。
然し私は、唯物科学を敢えて非難 (非難) する者ではない。人類は之によって、如何に大なる恩恵を蒙り、今後と雖も蒙るかは、最大級の讃辞を捧げても足りない位である。といって何も彼もそう考へる事が早計であって、唯物科学にも自ら分野があり、越えてはならない境界線 (境界線) がある。ではそれは何かといふと、有機物も無機物 (無機物) も同一視する単純な考え方では、駄目であるといふ事である。つまり唯物科学は、生物である人間も他の動物も、無生物である鉱物や植物と混同してゐる錯覚である。といふのは本来動物なるものは無生物ではないから、唯物科学の分野に入れてはならないに拘はらず、どう間違へたものか、入れて了った事である。之が根本的誤謬で、それによって進歩して来た医学であってみれば、手術といふ人体 (人体) を無生物扱ひにする行り方も当然であらう。又斯ういふ点も見逃す事が出来ない。それは唯物科学の進歩が、余りに素晴しかった為、何も彼も之によって解決出来るものと信じて了った科学 (科学) 至上主義である。
処が実際上動物はそうはゆかない。成程医学によって、一時的には効果はあるやうだが、根本が誤ってゐる以上、真の効果が挙らないにも拘はらず、それに気付かず、相変らず邪道を進みつつあるのである。
そうして右の如く私は生物と無生物の関係を大体かいて来たが、今一層掘下げてみれば生物の中でも人間と他の動物とを同一視 (同一視) してはならない事である。といっても之は根本的ではないが、相当の異ひさがある。例えば人間に対って、結核といえば直に神経を起し、悪化したり、死を早めるが、牛の結核を牛に言っても、何等の影響もないのである。従ってモルモットや二十日鼠を研究して、人間に応用しても、決して良い結果は得られないのである。
茲で前に戻って、再び手術に就て筆を進めるが、成程一時手術によって、治ったとしても、それで本当に治ったのではないから、暫くすると必ず何等かの病気が発生するが、医学は其原因に気が付かないのである。そんな訳で手術後の先には余り関心を持たないのである。然し考へても見るがいい。体内の重要機能を除去したとすれば、言はば体内的不具者となるのであるから、全然影響のない筈はない。例えば外的不具者で足一本、手一本処か、指一本、否指の頭だけ欠損しても、其不自由さは一生涯の悩みの種である。況んや内的不具者に於てをやである。而も外的不具者なら、生命に関係はないが、内的のそれは生命に至大の関係があるのは当然である。例えば盲腸の手術で、虫様突起を失ふとすればどうなるであろうか、元来盲腸なるものは、重要な役目をもってゐる。それは人間の背部一面に溜った毒素が、一旦右側背面腎臓部に溜って固結し、少しづつ盲腸部に移行固結するが、或程度に達するや急激な浄化が起り、発熱、痛み等が発生し、溶解された毒素は下痢となって排除され、それで治るのであるから、実に結構に出来てゐる。処が可笑しいのは、此際医師は手遅れになると大変だから、一刻も早く手術せよといふが、此様な事は絶対ないので、手遅れになる程反って治る (治る) 可能性が多くなる。之は理屈ではない。私は何人も其様にしたが、一人の間違ひもなかったのである。寧ろ手術の為不幸になった例は時偶聞くのである。
又盲腸炎潜伏を知るのは訳はない。医学でもいふ通り、臍から右側斜に一、二寸位の辺を指で押すと痛みがあるから直ぐ判る。然し原因は其奥にあるので、盲腸部だけの浄霊では全部の痛みは除れない。盲腸炎の場合、右側腎臓部 (腎臓部) を指で探ると必ず固結があり、押すと痛むからそこを浄霊するや、忽ち無痛となり全治するのである。治る迄に早ければ十数分遅くとも三、 四十分位であって、間もなく下痢があり、それで済んで了ふので、再発などは決してない。としたら何と素晴しい治病法ではなかろうか。処が医学では手術の苦痛も費用も、並大抵ではない。其上不具とされ、運の悪い人は手術の跡の傷が容易に治らず、数年かかる者さへある。稀には手術の為生命を失ふ者さへあるのだから、我浄霊と比較したら、其異ひさは野蛮と文明よりも甚だしいと言へよう。処が手術によって盲腸炎は治ったとしても、それだけでは済まない。前述の如く盲腸なる機能は、背部一面の毒素の排泄 (排泄) 機関であるから、それが失くなった以上、毒素は出口がないから、大部分は腹膜に溜ると共に、腎臓部の固結も大きさを増すから、それが又腎臓を圧迫し、腹膜炎に拍車をかける事になる。之が主なる悪影響であるが、其他の個所にも溜るのみか、手術後腹力や握力が弱り、持久力や粘り強さ等も薄くなり、性欲も減退する。之等は体験者の知る処であらう。
次は腎臓剔出であるが、此手術は腎臓結核の場合であって、痛みや血尿があるので、そう決められ剔出するが、此成績も面白くない。大抵は何かしら故障が起る。その中で一番困るのは、残っている一つの腎臓は二つの負担を負はされるから、病気が起り易いと共に、剔出する事も出来ず、どうしていいか判らないといふ惨めな人もよくある。といふのは誰しも保有毒素が相当あるから、残った腎臓へ溜結するのである。その外全身的には弱体化し、歩行にも困難があり、腰を捻ったり、正坐すら出来ない人もあって、先ず半分廃人である。処が最初から浄霊によれば、手も触れずして簡単に全治するのである。
次は胃癌の手術であるが、之も仲々厄介である。之に就て遺憾に思ふ事は、切開してみると、癌が見当らないといふ過失をよく聞くが、患者は全く災難である。幸ひ予定通り切り除っても、大抵は時日が経つと僅かでも残った癌が広がってゆき、再度の手術をするやうになるが、三度目になると不可能で、最早致命的である。そうして手術が成功しても、縮小した胃と腸と繋ぎ合すので、食物も少しづつ何回も摂らねばならず、而も医学の統計によれば、手術後の寿命は平均二年半とされてゐる。
それに就て医学は斯ういふのである。どうせ半年か一年で死ぬべきものを、手術によって一年でも二年でも延びるとしたら、それだけ有利ではないかと。成程其通りにゆけばいいが、事実は放って置けば三年も五年も生きられるものを、手術の為に縮められる例を、私は幾人となく経験したのである。又医学は癌の治療にラヂュームの放射をするが、之は反って悪化する。といふのはラヂュ―ムは癌を破壊すると共に、組織  (組織) 迄も破壊して了ふからである。
右の解説は真症胃癌に就てであるが、実は真症は少なく、大部分は擬似胃癌 (疑似胃癌) であり、擬似は勿論薬毒が原因である。それは薬の性質にもよるが、一旦吸収された薬は、時を経て毒に変化し胃へ還元し固まる。それが癌とされるのであるから、之は浄霊によれば非常に衰弱していない限り、必ず治るのである。
右の外卵巣除去、乳癌の手術、中耳炎、瘍疔(ヨウチョウ)、眼科、肋膜炎の穿孔、痔疾、横疲(ヨコネ)、睾丸炎、瘭疽(ヒョウソ)、脱疽、整形外科手術等々種々あるが、之等も大同小異であるから略すが、茲に二、三の書き残しをかいてみよう。それは各種の腫物であるが、之は手術をせず放っておけば、腫れるだけ腫れて自然に穴が穿き、そこから血膿が出て完全に治って了ふものである。処が患者は痛みに堪へ兼ねるので、医療は早く治そうとして手術するが、之が大変な誤りである。といふのは手術にも時期がある。充分腫れてからなら左程の事もないが、そうならない内に行ふと、今迄一ヶ所に集中してゐた膿は、其運動を止めて了ひ、他の近接部へ腫れ出すのである。之は手術処か、一寸針で穴を穿けた位でも、ヤハリ集溜が停止されるので、之は知っておくべき重要事である。
之に就て斯ういう例があった。以前私は頼まれて某外科病院へ行った事がある。患者は四十歳位の男子で、よく訊いてみると、初め頚部淋巴腺に鶉(ウズラ)の卵位の腫物が出来た。早速医者へ往って穴を穿け、膿を出して貰うと、間もなくお隣へ同じやうな腫物が出来た、それを切ると又お隣へ出来る、という具合で、遂には反対側の方にも出来、それも次々切ったり出たりする内、遂には腫物の数珠繋ぎとなって、私を招んだのである。そんな訳で外部には腫れる場所がなくなったので、今度は内側へ腫れ出した。恰度其時であったので、私と難もどうする事も出来ず、断って辞したが、其後数日を経て、咽喉が腫れ塞がり、窒息で死んだとの知らせがあった。之等は全く手術の為の犠牲者である。といふのは最初腫物が出来た時、放っておけば段々腫れて、恐らく赤子の頭位に大きくなったであらうが、それでも放っておけば、終には真ッ赤にブヨブヨになって穴が穿き、多量の血膿が出て、完全に治って了ひ、痕跡も残らないのである。
次は、近来一部の医師で、脳の手術をするが、之等は勿論癲癇とか、脳疾患等の場合行ふのであるが、之は何等の効果もない。何故なれば頭脳の機質性病患でなく、精神的のものであるからで、つまり霊的原因である。之に就ては霊の項目に詳記するから、茲では略す事とする。次は近頃流行の結核に関する手術療法で、之は肋骨を切り除ったり、空洞のある患者には、合成樹脂の玉を入れたり、横隔膜を手術したりするが、之等は一時的効果で、反って後は悪いのである。要するに再三言う通り、手術なるものは、如何に有害無益なものであるかは、医学が一層進歩すれば分る筈であるから、最初に述べた如く手術の如き、野蛮的方法は、是非全廃して貰ひたいのである。

三救責任者
はい、ありがとうございました。
「黒塗り個所を書籍で確認して見ましょう」と(天恩地惠に)書いたんだけど。
このやり方、どうですか?
黒塗りにしておいたら、1回は調べてくれるかなと思ったのです。

参加者
勉強します。調べるんですけど、また忘れています。

三救責任者
今日は、ここ(天恩地惠)に掲載のメシヤ講座を続けてやっていきたいと思います。

メシヤ講座・三重 75号(平成26年1月度)ですけども、

○メシヤ様は『医学の再出発を願っておられた』
(先生)今回は『総論』ということで、ここの箇所(タイトル)は文字をもう少し大きくしておいた方が良かったかもしれません。
メシヤ様は『病気に対して詳細に直接的解説を与へて来たから、病気なるものの真原因と、既成医学が如何に誤っているかが判ったであらうが、まだ知らなければならない点が種々あるから、之から凡ゆる角度から医学の実体を検討し、解剖してみようと思ふのである。』ということで『手術』ということに触れたのだということなのです。それで実際『手術』の箇所の冒頭をもう一度確認していただきたいのですが、
『近来、医学は大いに進歩したといひ、取り分け手術の進歩を誇称してゐるが、私から見れば之程の間違ひはあるまい。考へる迄もなく、手術が進歩したといふ事は、実は医学が進歩しないといふ事になる。といふと不思議に思ふであらうが、手術とは言う迄もなく、病に冒された機能を除去する手段であって、病其ものを除去する手段ではない。』これは考えてみればその通りなのですけども、どうしても私たちは医者の言いなりになってしまって、〝これが治療だと思い込んでしまっている″ということがありますので、メシヤ様はまずこのことに気付いて貰いたいということでお書きになっておられるのです。それで次に、『判り易く言えば、病気と其機能とは密接な関係はあるが本質は異ってゐる。従って真の医術とは病だけを除って、機能は元の侭でなくてはならない筈である。処が医学が如何(いか)に進歩したといっても、病のみを除り去る事が不可能であるから、止むを得ず二義的手段として、機能をも併せて除去して了(しま)ふのであるから、此事を考へただけでも、手術の進歩とは、医学の無力を表白(ひょうはく)する以外の何物でもない事が分るであらう。斯(こ)んな分り切った理屈でさへ気がつかないとしたら、今日迄の医学者は驚くべき迷蒙に陥(おちい)ってゐたのである。従って何としても大いに覚醒して、初めから行(や)り直すより外(ほか)あるまい。即ち医学の再出発である。』ですから、メシヤ様は『医学の再出発を願っておられた』ということなのです。
しかも、『斯(こ)んな分り切った理屈でさへ気がつかないとしたら』ということですので、この〝気が付く″ということが大切だということなのです。『文明の創造』だけでなく、御教え全般にわたって私達信者に願っておられることは、〝迷蒙に気が付いて欲しい″と言うことなのです。
私達は何事に直面しても〝迷蒙に気が付いているか″自分に問いかけていただきたいと思います。〝気が付く″ということが実はメシヤ様を信仰していくということなのだ、と言えるのではないかなと思います。

参加者
うーん。

三救責任者
何か気が付いたり、思う事があったら話をして頂いて構いませんので、宜しくお願いします。

参加者
ここがズシンときました。
最後の3行くらい、〝迷蒙に気が付いて欲しい″というところ。

三救責任者
信者全般に対してね、〝迷蒙に気が付いて欲しい″。
『文明の創造』は特にそういう事だと思います。
一般の人向けに書かれた『文明の創造』ですからね。ただ、一般の中には医者、医学者の方も含んでいるわけですからね。
ズシンときますよね。

参加者
はい。

三救責任者
「癌が消えている。」
読んで下さい。

参加者
○癌が消えている
年末年始から休む間もなく電話がかかってきておりまして、ある支部で肝臓癌と医師から宣告を受けたご婦人がおります。浄霊をいただくと楽になるので医者からは手術を勧められたのですけども、「手術したらどうなりますか」と聞きますと、「手術しても来年の4月まで持つかわからない」ということなので、「手術しても来年の4月まで持つかわからないのならもう手術はしません」ということで、浄霊一本でズーッとやってきまして、年末に検査をしましたら、〝癌が消えている″のです。
「4月まで持つかわからないと言ったじゃないですか」と医者に食いつきましたら、「希にそういうこともある」と言うのです。こんないい加減な医者は〝何を考えているのだ″と言いたいくらいです。そのご婦人は今浄霊をいただきつつ元気に過ごして今年の4月までと余命を切られていますので、「4月までは体を養生しながらしっかり浄霊をいただいてください。」と言いまして、支部へ通いつつ自己浄霊と家族からの浄霊をいただくことに取り組んでおります。非常に健康な顔をして生活をしてくださっています。余命を切った医者も医者ですが、浄霊をいただくことによって健康を確保して癌の症状も消えていっていますので大変有難いと思います。
それから、信者さんの母親が70代前半なのですが、乳癌を患って治療をズーッと続けていたのですけども、医者から「効果的な新薬が出たのでぜひ試させていただきたい」とお願いされたのですが、「今は体調も復調しているから、これ以上の抗癌治療はやめてもらいたい」と娘さんが言ったのですが、母親が「お医者さんに親切にしていただいたので、もう一回受けてみる」と言うので治療を受けさせましたら、腕がパンパンに腫れてしまいました。そして脇からリンパ液が出始めたのです。それで治療をした医者が慌てて「この治療はあなたに合わなかったのだ。もうこれ以上する術(すべ)がないので、病院を世話するので緩和ケアに移ってください」と言うのです。
「あなたの治療でこんなに腫れてしまったのにこの腫れたのを治さないで退院させるのか」と言うべきなのですが、とても医者に対してそこまでは言えなかったそうです。それで転院した病院でも「もう片方にも転移しているから治療しましょう」と言われたそうです。それで「これ以上治療したらもう片方の腕もパンパンに腫れて両手が動かなくなるので、充分考えなければいけない」と私はアドバイスをしました。
治療した責任を取ることなくタライ回しで次の病院に送ってしまう〝無責任な医者がいる″という現実に直面すると〝医学とはいい加減なものだ″とやっと気付くのですが、気付いた時には手遅れな状態になってしまうことが多いです。今回メシヤ様がこのように手術について御指摘されておられることは、私たちの日常生活にとっては非常に大切なことですので、そういうことをしっかり受け止めながら繰り返し繰り返し拝読していただきたいと思います。

三救責任者
はい、ありがとうございます。
ありそうな話が2つ載っていますね。実際にそういう事に直面しそうです。
最初の方は、「4月まで持つか分からない」といったのが持ったのだから有難いですよね。
「希にそういうこともある」、医者が分からないからと捉えれば、別に医者に食ってかかることでもないような気がしますけども。
「薬を試させてください」と言われて、試したのは自分ですからね。
こういう事例、何かの時にお話しできることがあるかと思いますので、読んで頭の片隅に入れておいていただければ、と思います。

それから、「僅かの期間で脳梗塞から回復」ということで、これは先生のお兄さんの話ですね。

○僅かの期間で脳梗塞から回復
身内のことですが、私の兄が年末に脳梗塞で倒れてしまいました。比較的軽い脳梗塞で右手右足が痺れている状態で、口が良く話せないので、浄霊をしてみますともう脳梗塞は終わっていまして、そのあとも修復に向かっている状態でした。それで母に「ごはんをしっかり食べさせるのと、酒とタバコをやめさせないと脳梗塞がまた再発するからやめるようにということと、こういう運動をさせるように」と指示をしましたら昨日で大体良くなりましたので、今日から出社する予定です。
ですから徹底的に浄霊をして運動としっかりした食事をとれば脳梗塞というのはこの位の日数で回復するのです。
これを精密検査して治療を始めると長期入院になってしまうので大変なことになります。我々がこの『浄霊力』を授かっているということは大変ありがたいことでありますし、慣れてきますと「このくらいの症状だったら何日間位徹底して浄霊していけば良い」ということが脳血栓とか脳梗塞とかいうのはわりとわかりやすいのです。ですからメシヤ様の『救済力』、『浄霊力』と『御教え』をいただいておけばどういうことが起きても大体対応できるのではないかなと思います。
しかし、残念ながら今までの所属の教団ではそこまで的確な指示ができなかったので、多くの方々が壁にぶつかったまま医療と併用してしまったりということで不幸なことが起きております。どうか、支部責任者を中心に三重支部でメシヤ様が本来お示しくださっている智慧と力を大勢の方々に授けていただきたいと思います。

そうですね。
浄霊力を授かって浄霊に取り組まれる、自己浄霊に取り組まれるという方が増えて来ればいいんですけどね。

参加者
すみません。この、『救済力』というのは、どういう・・?
『浄霊力』も『御教え』も『救済力』かなと思うんですけど、また別の捉え方があるんでしょうか?

三救責任者
メシヤ様が救って下さる力。世界人類を救う力。
御祈願とか、メシヤ様に祈れば、メシヤ様と祈れば救われる とかあるじゃないですか?

参加者
大きなものだね。

三救責任者
そうそう。
『浄霊力』というのは、人間を通じた浄霊力ですね。
そういう事にかかわらず、何か働いているって感じるじゃないですか?それが、メシヤ様の力なのかもしれないし。それがいい方に行けばそれが『救済力』でしょうね。
『救世済民』って、ここ(御神前)にかかっているんですけど、そういう事じゃないかな。衆生を救うということですので。そういうことの意味で、メシヤ様の『救済力』ということを、先生が言われたんじゃないかなと思います。

参加者
今までやってみえた・・。

三救責任者
先生の思いとしては、メシヤ様の救済力。
メシヤ様と唱えてきた私達が感じるメシヤ様の『救済力』。

参加者
ありがとうございます。
今、読んでいただくのを聞きながら、今迄思ったことなかったのに、急に何か「あれっ?」と思って。
『浄霊力』と『御教え』も、両方『救済力』だよなぁって思ったんです。

三救責任者
『御教え』も『救済力』です。『浄霊力』も『救済力』です。どちらも合わせてメシヤ様から与えていただいた。

参加者
はい。

三救責任者
「日常生活で『錯覚』を起こしていないか」
○○さん、読んでもらえますか?

参加者
○日常生活で『錯覚』を起こしていないか
それからもう一つ、メシヤ様は『錯覚』ということを御指摘になられております。
『つまり唯物科学は、生物である人間も他の動物も、無生物である鉱物や植物と混同してゐる錯覚である。といふのは本来動物なるものは無生物ではないから、唯物科学の分野に入れてはならないに拘(かか)はらず、どう間違へたものか、入れて了(しま)った事である。之が根本的誤謬(ごびゅう)で、それによって進歩して来た医学であってみれば、手術といふ人体を無生物扱ひにする行(や)り方も当然であらう。』
医学の陥っている『錯覚』を御指摘くださっているのですが、これは医学だけでなく私達の日常生活の中でも『錯覚』を起こしてはいないか、ということをよくよく自分に問いかけて行っていただきたいと思います。
どうしてもテレビとかから流れてくる情報を中心に捉えて行ってしまったり、インターネットで得た情報を確かなものと思ってしまいます。これが『錯覚』ということに繋(つな)がってしまいます。
さきほど支部責任者が紹介して下さった資料で「生存率」が出てきます。
それで「生存率」というと読んだだけでは手術してから〝ズーッと生きている″と錯覚してしまいます。しかし、医者達がネット上で言っているのは5年間しか生存していないということです。本来生存というのはズーッと寿命まで生きる筈なのですが、癌の生存率はたった5年間で区切っているのです。こんないい加減な表現なのです。恐ろしいことですね。
例えば60歳で手術して成功と言ったら私達は〝80歳くらいまで生きられるのだろう″と思ってしまいますが、この統計上では5年間生きたことを言っているのです。
如何(いか)に皆生きていないかということです。
(支部責任者)それも100%ではないですからね。
(先生)1期、2期、3期となるに連れて段々下がってくるわけですからね。
こんな恐ろしい現状を私達は平気で受け入れているという『錯覚』です。これが『錯覚』なのだということをよくわかっておいていただきたいと思います。
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最終更新 2013年4月7日 (日) 12:12 ウィキペディアより
5年生存率5年生存率(5ねんせいぞんりつ)とは、ある疾患の予後を測るための医学的な指標である。
主として癌について用いられ、診断から5年経過後に生存している患者の比率を示す。治療効果判定のために使われることが多い。あくまでも集団としての患者群を対象とした指標であり、個々の患者の余命として単純に流用することはできない。また、疾患や研究によっては「1年生存率」、あるいは「10年生存率」といった任意の判定期間による統計も存在する。
多くの癌では、治療により癌が消失してから5年経過後までに再発がない場合を「治癒」と見做す。
なお、がんの終生再発率とは直接の関係にはない。あくまで診断後、治療による寛解をみて、その寛解が患者にもたらした余命延長効果を、特定年数後の時点で計測した数値に過ぎない。
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三救責任者
はい、ありがとうございました。

参加者
よろしいですか?
先程の『救済力』ですけど、
苦しむ人を救い、助けること。神仏の側から差し伸べる救い。キリスト教では、人間を罪や悪から解放し、真実の幸福を与えること。救い、手を差し伸べるってこと。

三救責任者
だから、メシヤ様が手を差し伸べてくださる。
メシヤ様の『救済力』。
それは、実際というのは『浄霊力』と『御教え』を与えてくださって・・。
救いの綱に、『文明の創造』で救いの綱につかまれというのは、これを読めば救いの綱につかまることですから、手を差し伸べて下さっているわけですね。

参加者
だから、それに近い私達も手を差し伸べる力をということ?

三救責任者
授かる。
自分なりに答えを導き出してください。

参加者
はい、もう一度考えます。

三救責任者
色々解釈はあると思いますので、私は『救済力』ということをこう考えると。今度のテーマにしてもいいですよ。

参加者
御手足になるということだね。御手足になって、そこで手を差し伸べて、その人に対しての浄霊力をいただいているから、それを・・・

三救責任者
来月までに、自分の考える『救済力』とはどういう事を言うんだろうかと。
ここのところは重要かと思いますので、改めて来月までにもう一度自分なりに考えていただけたらと思います。

参加者
はい。

三救責任者
なかなかいい問題点を提起して頂けたかと思います。
残りの時間で浜松のところをやりましょう。いつも、三重ばかりやってるので。

○「血圧も浄霊で治る」  (674行)
(先生)三重支部で自然農法をやっていて、今日も野菜をここに届けている方が、血圧が140~50あったのですね。しかし薬とか一切やめて、畑と自分の仕事をしながら自己浄霊しているうちに血圧が130台まで下がったそうです。そして今回の月次祭で初めて、「血圧が正常に戻りました。ありがとうございました。」という報告を受けました。
やはりメシヤ様の教えに沿って、そのように取り組めば、自分の健康は維持できるということがよくわかるので、大変ありがたいな、と、そういう年明けを迎えました。

先生に何も言わずにだったんだね。「血圧が高いんだよ」と言うことなく自己浄霊していて、下がってから話をしたんだね。

702行にいきます。

○「日常生活の《気づき》が大変大切である」
(先生)ですから、もう少し進んできますと、『判り易く言えば、病気と其(その)機能とは密接な関係はあるが本質は異ってゐる。従って真の医術とは病だけを除(と)って、機能は元の侭(まま)でなくてはならない筈(はず)である。処が医学が如何(いか)に進歩したといっても、病のみを除(と)り去る事が不可能であるから、止むを得ず二義的手段として、機能をも併せて除去して了(しま)うのであるから、此(この)事を考へただけでも、手術の進歩とは、医学の無力を表白する以外の何物でもない事が分るであらう。斯(こ)んな分り切った理屈でさへ気がつかないとしたら、今日迄の医学者は驚くべき迷蒙に陥ってゐたのである。』 と御指摘しています。
この『斯(こ)んな分り切った理屈でさへ気がつかない』ということが今回、非常に大事なことです。
これは病気だけではなくて、あるいは手術だけではなくて、日常生活でも気づかないことが大変多くあります。
例えば、子供のちょっとした変化に気づかないでいくと、先々いろいろな問題が起きてきます。ですから日常生活のなかで、やはり『気づく』ということが一番大事だということを、この御論文は『手術』について書かれていますけれども、私たちの日常生活でも『気づく』ということが大変大切であるということを読み取りながら、拝読していただけるとありがたいと思います。

同じ事を言ってはいますけども、日常生活の事にまで言及して話をされていますね。

それから、772行

○「手術をした方への浄霊」
(参加者)手術の件ですが、私くらいの年齢になると、周りに結構手術を受けた人がいるのですが、その方に御取次させていただきたいときにはどのようにさせていただけば良いですか?
(先生)切ったところは、あとで消毒液とか、切る前は麻酔液とか使っているので、そういうところに集溜している部分があるのでそれを浄霊するのと、薬を前後使っているので肝臓と腎臓を痛めていてその周辺に薬毒が溜まっているのでそこを浄霊してあげるといいですね。
そして手術をして何かを取り除いている場合には、その取り除いた部分の霊も欠損しているので、霊界にいったときその切ったところがなくなって、ぽっかりと穴があいてしまっているらしいのです。ですから霊界にいったとき霊界生活で非常に不自由な思いをするという報告がずいぶんあるので、死んだあとのことを思って浄霊をしてあげるということが大事になります。
その切り取った霊が元通りになるように、そういう気持ちで浄霊をしてあげれば、その人の霊界生活が何不自由のない霊界生活を送ることができるのです。そういうことも含めて浄霊というのは、非常にありがたいわけです。
そういうふうに話をしてあげてください。
(参加者)おかげさまで私は全部まだあります。
(先生)だから「ありがたい」「ありがたい」とみんなに言っておかないと。「信仰のお蔭でありがたい、ありがたい」と。
私が子供の頃、脱疽になった人がいて、足の付け根から切り落としていました。切り落としてはいるけれど霊は病んだままなので、足の先が痛むのです。「痛いので浄霊もらいたい」というので、浄霊をしてあげると、切ったところを浄霊しても、「いやこの先が痛いのです」と言うのです。ですからもうないのですが、この辺りが足の先だなと思ってそこを浄霊してあげると「楽になりました」というような、こんな話を私は何度も経験しているので、やはり手術で取ってしまうと、それで病気はよくなったようにみんな思っていますが、実は霊の部分がまだ病んでいるから、そこをきちっと浄霊してあげないといけないということがあります。
(参加者)手術で取ったところも、浄霊によって、霊界にいったときにはそこが欠損してない状態になるのですか?
(先生)そう、浄霊を長いことしてあげればね。まあ1回の浄霊でもよくなる場合も、場合によってはあるけれど。できるだけ何回も何回も浄霊をしてあげたほうが良いわけです。
(参加者)そうしたら霊界にいっても不自由な生活をしなくてもよくなるということですか?
(先生)〇〇の一番の罪は、死んだらみんな元気になっているという〈大霊界〉という映画を作ってしまったことです。自殺しても、あの世で天国生活を送れると思っているけれども、自殺した場合は、「殺人」と「事故死」の2つの罪穢を以って霊界に往くので、地獄にいくのです。自分の命だから、人を殺したのと同じ殺人の罪と、それから途中で死んだ事故死の罪を負って霊界にいくのだから、とても天国生活はできません。そういうみんなを勘違いさせるような映画を作ってしまったというのが、最期がよくなかったという最大の理由なわけです。

これは三重では話をしていないことですね。
先程の『救済』という事にもつながりますけども、神幽現とあるわけですから、現界だけじゃなくてね、今の話の場合は霊界に行ってのことを思っての『救済』につながっていくと思います。
そういう事を含めて言うのかな、『救済力』。
色々深く考える事は出来ると思います。
新たな課題を提案して頂いて、次へ向かってのステップになるということで。

ちょうど時間になりましたので、終わらせて頂きます。

司会
以上を持ちまして、11月度月次祭並びに一日祭を終わらせて頂きます。
ありがとうございました。

参加者一同
ありがとうございました。

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