2023年6月30日金曜日

覚りの旅  令和5年5月 月次祭を終えて

 令和5年5月1日

   覚りの旅  令和5年5月 月次祭を終えて

三救責任者

皆様、月次祭おめでとうございます。

今日は、『文明の創造 霊的病気』 276頁、お願いします。


参加者


『文明の創造 宗教篇 霊的病気』 拝読


三救責任者

はい、ありがとうございます。

霊的病気ということで、まず胃癌が上がっております。

胃癌といっても多いのは何癌?


参加者

疑似胃癌。


三救責任者


疑似胃癌。少ないのが真症胃癌。

疑似胃癌の原因は?


参加者

薬毒


三救責任者

病気の原因は薬。ここを見たときに、153頁の『胃病』に学んだことなんですけども、ここを読んでいくとですね、158頁に


次に胃癌であるが、これには凝似と真症とあるが、実際上凝似の方がズッと多いものである。そうして真症の胃癌は霊的であり、宗教的になるから、茲では凝似胃癌のみに就て説明するが、勿論之は薬毒が原因で、前述の如く一旦背部に固結し、胃に還元した際、医療は排泄を止める結果再固結する。之は普通の固結よりも悪性である。なぜなれば毒素に変化したものが、再び固まるからで、之が即ち癌である。然し之は薬の性質にもよるので、どの薬もそうであるとは言へない。之も放任しておいても長くは掛るが、必ず治るものである。


そういうふうに学びました。

疑似胃癌の方は、薬毒が原因で一旦背部に固結し・・固まるんですね、それで、胃に還元した際、薬を使って止めようとするので、浄化というのは排泄するように、固まった固結を排泄、浄霊などで排泄しようとするんだけども、自然に放っておいても出ていくんだけども、それを薬を使って止めるので、それがまた固まってしまう。再固結すると、普通より悪性になると。毒素に変化したものが再び固まるから悪性になる。それで、これが癌になっていくんだと。それも薬の性質によりますよと。放任しておいても長くはかかるが、必ず治る。疑似胃癌の場合は必ず治る。薬を出せば。だけど、薬を使い続けていれば治りませんよね、ということが分かりますよね。それで、ここで「性質」ということが出てくるのでこの「性質」って覚えておいて欲しいんですけども、『天国の福音書』、昭和22年2月ですけども、2月5日、ここに何が書いてあるかというと、


およそ人間がこの世に生を受くるや、遺伝黴毒や最初に述べた天然痘毒素を主なるものとして、種々の毒素を保有している事は前項に述べた通りである。そうしてこれらの毒素の支障によって健康が完全に保持出来得ないから、生理的に体外に排泄せらるべく、絶えず自然浄化作用が行われるよう造られているのが人体である。しかしながら自然浄化作用が行われる場合ある程度の苦痛が伴うので、その苦痛の過程を称して病気というのである。


だから、浄化作用ですね。ちょっと癌からは外れていますけれども、『病気の真因』ということで。

それで、


まず浄化作用とはいかなるものであるか、私はこれを大別して第一と第二に分類する。第一浄化作用とは血液中にある種々の毒素が身体各局所に集留固結するのである。


さっきも出てきましたけども、固結して凝りになる。


集留すべき局所としては、すべて神経を集中する局所及び人体静止の場合の下部である。そうして集留毒素は時日を経るに従い、漸次硬化する。俗に凝りと名づくるのもそれである。この場合、苦痛は全然無い事もあり、ありとするも肩の凝り位の程度である。


これが第一浄化作用。それで、第二浄化作用というのは、その固まったものが液体化するということで、


次に、第二浄化作用であるが、これは第一浄化作用である固結がある程度を超ゆる場合、自然排除作用が発生する。その際排除しやすからしめんがため液体化せんとする作用がすなわち発熱である。発熱の高下は固結毒素の性質 (・・ここで先程の「性質」がでてくるんですけども・・) と硬軟と量と患者の体質とによるのである。


運動すると、疲れるので疲労になって発熱すると。これは、運動中の浄化促進の役目もするので、浄化促進、だから毒素が液体化するんです。そうすると液体になって、汗とか喀痰とか鼻汁。それで、痰の場合はポンプ作用で外へ出る。鼻汁の場合はくしゃみで外へ出す。これで、体外へ排泄するということです。食欲不振というのも発熱とか吐痰、服薬のためです。それで、例えば、病気は痛みを伴うことで、頭痛とか節々の痛みとかも毒素を溶解し、液体となって排除するときに神経を刺激するので痛い、ということがこの『病気の真因』に書かれています。


この「性質」という言葉が出てきたということ、疑似胃癌を今説明している。真症胃癌の前に疑似胃癌を説明しました。

キーワードとして、「性質」という言葉が出てきました。

先ほどの霊的のところにいくと、今度は言葉は何でしたでしょう?


参加者

執着。


三救責任者

執着。今度は「執着」ということで、体的の方では「性質」、霊的の方では「執着」。

真症胃癌という場合は霊的であって憑霊なんだと。

では、何の霊が憑きますか?

ほとんどが蛇の霊です。蛇の霊が怨霊となってかかって苦しめる。

何で蛇の霊が?というと、自分の前世とか祖霊が蛇を殺した、その蛇の怨霊ですよと。蛇というのは、性格は執着が強い。だからその性格。人間が前々世における執着が強いという罪、その執着が強いので性格上執着が強いと、今度は前々世の話だけども、今世まで追求して復讐しようとするのが蛇の性格です。それで、人間が前々世において執着が強いというその罪によって畜生界に落ちて蛇となって再生する。その蛇となって再生した時に生き物を飲み込むと、今度はその飲み込まれた生き物の怨霊が固まって凝って、蛇の腹の中に宿る。蛇の腹の中に宿ったまんま、人間に再生する。これが本当の真症胃癌で、非常に悪性であって、執着、執着の塊みたいなものですね。

蛇も執着が強いけどもその蛇に飲み込まれた生き物の怨霊が人間に、蛇に再生したその蛇が人間にかかって人間となって再生してくると、丸々腹の中蛇みたいなものですね。

それが真症胃癌の原因だと書かれています。


「執着」ということで見ていきますと、『医学革命の書』 序文昭和28年に


人間生の執着程強いものはなく、此執着から離れられないのが人間の特性である。といってもそれを免れる事の不可能なるが為、今日迄は諦めてゐたに過ぎないのであって、若し此解決可能な方法が発見されたとしたら、之こそ人類にとっての最大福音であり、大問題である。処が喜ぶべし、その欲求は完全に達せられたのである。


浄霊のことですね。


何しろ人類から病を無くし生命の延長も可能になった。

私は叫ぶ(・・メシヤ様は叫ぶ・・)、最早人類最大の悩みである病は茲に完全に解決されたのである。故に此著を読んで信じ得られる人は天国の門に入ったのであり、之を信ぜず躊躇逡巡、何だ彼んだといって見過す人は、折角天の与へた幸福のチャンスを自ら逃して了ひ、何れは臍を噛む時の来るのは、断言して憚らないのである。


昭和28年。『文明の創造』 の後の『医学革命の書』にそのように書かれております。

それから 「我と執着」 ということで、『信仰雑話』は昭和23年ですけれども、

いろんな執着、例えば政治家が地位に執着するとか、実業家が金銭に執着して利益に執着するとか、男女関係においても執着する方が嫌われる。問題を起こすのも執着が強すぎるから。信仰の主要目的は我と執着をとることである。「取越苦労と過越苦労をするな」という事があるが、良い言葉ですねと。

我執を捨てるということは、「取越苦労と過越苦労をするな」という事ですね。我執を捨てると。


そうして霊界における修行の最大目標は執着を除(と)る事で、執着の除れるに従い地位が向上する事になっている。


霊界においてもそうですよと。


霊界においては夫婦同棲する事は、普通はほとんどないのである。それは夫と妻との霊的地位が異(ちが)っているからで、夫婦同棲は天国か極楽人とならなければ許されない。


ということは、天国とか極楽人の場合は夫婦同棲も許されているということですね。


しかしながら、ある程度修行の出来た者は許されるが、それも一時の間である。その場合、その界の監督神に願って許されるのであるが、許されて夫婦相逢うや、懐かしさのあまり相擁するような事は決して許されない。いささかの邪念を起こすや、身体が硬直し、自由にならなくなる。そのくらい執着がいけないのである。故に霊界の修行によって執着心が除去されるに従って地位は向上し、向上されるに従って夫婦の邂逅も容易になるので、現界と如何に違うかが想像されるであろう。そうしてさきに述べたごとく、執着の権化は蛇霊となるのであるから恐るべきである。人霊が蛇霊となる際は、足部から漸次上方へ向かって、相当の年月を経て蛇霊化するもので、私は以前首が人間で身体が蛇という患者を取り扱った事があるが、これは半蛇霊となったものである。

 従って信仰を勧める上においても、執念深く説得する事は熱心のようではあるが、結果は良くない。これは信仰の押し売りとなり、神仏を冒涜する事となるからである。すべて信仰を勧める場合、ちょっと話して相手が乗気になるようなれば話を続けるもよいが、先方にその気のない場合は、話を続けるのを差し控え、 機の到るを待つべきである。


だから、追うな、機を待てということですね。

それと、またこれも執着で、


病人でも、これを治したら宣伝力もあるし、ぜひ治したいと思うが治らない。そんなことをぜんぜん考えないで、なーに、とやっていると治る。それは、ぜひ治したい治したいと言うと、執着ですから人間の働きばかり出る。そんなことを考えずに神様にお任せしようと、執着を取るでしょう。すると神様のほうからくる。人間の執着が――想念がそこにいくから、神様のほうを邪魔する。病人でも、こんな病気に負けるものか、俺の精神力で治して見せると言うのは、たいてい死んじゃいます。そうでなく、神様の御意のままだ。とあきらめると、助かります。だから、よくもう駄目だ。あきらめなさいといってから、治るのがたくさんあります。面倒なものは、なんでも神様に任せてしまえと言うんです。そうすると、案外うまくいくんです。私なんか、始終ややこしいことがありますが、ええい。と、神様にお任せする。ややこしいのがあって、あっちを立てればこっちが立たない。という場合に――お任せすると、うまくいきます。思ったよりかうまくいく。よく、「惟神の大道」と言ってね。惟神と言う言葉は良いです。「カミナガラ」ですね。神様の思し召しのままに進んで行くというので、非常に良い言葉ですね。


メシヤ講座でも執着ということで、平成28年1月です。


世の中は、夜叉龍神はメシヤ様によって解脱しているのですけれど、その配下である者たちがまだしつこく、ずっとこの世の中に執着をもってはびこっております。それをひとつひとつ同じように改心させていかないといけないので、これからより一層朝夕のお参りは勿論、この月次祭を通して浄めていくという取組みを続けていかないといけないし、そういう浄めるという場がもっともっと拡がっていかないといけないと思わせて頂いております。ひとつよろしくお願いしたいと思います。


もう一つ、遺言について


祀ってない霊がありますが、盆とか彼岸に祀るべきでしょうか。

 一日も早く祀らなくてはいけない。霊は霊界へ行っても気になるからである。よく死ぬ時遺言したりなどするが、これは出来るだけ執着のないようという意味で、いわゆる浮ばれるためである。執着がなければ早い。(S23.11.25)


観音講座の方でも、昭和10年です。


又死ぬ時に想念で一人々々が余程違うのである。生の執着の多少にて非常に違う。早く死んで極楽に行きたいと思って死ぬ人は早く生れ変ってこない。なぜならば、自分の思った所へ行けた為、再び人として生れ変って来よう等と思わないからである。これに反して生の執着の強い人は早く生れ変ってくる。脳溢血等にて急に死んだ人は特に供養しなければならん。生の執着の為に身寄りに懸って病気をさしたり等するのはこの様な霊に多い。


執着の話で、メシヤ講座平成24年6月。

霊界の修行は何と言っても「我と執着」を取ること、ということで。



霊界の修行は何と言っても「我と執着」を取ることですから、何時までも恨んでいたり、心配していたら執着が取れないので、結局何時まで経っても救われないことになります。私は「救霊」を心掛けていくことが宗教の使命の一つだと思います。それから「慰霊祭」というのも人任せにせぬ方が良いですね。それぞれの宗教で、慰霊祭の斎行方法を知り得たならば、自分の霊性を高めつつ真心を込めて自分で取り組んでいく事も大切です。


救霊ということですね。

もう一つ、慰霊祭に関する話で、メシヤ講座浜松、平成26年3月ですけども。


だから救いを求めて来た人が憑かった場合も、やっぱり気持ちがいいからずーっといたいわけ。しかし、そのうち光をいただくと浄まっていくので、ああ自分はここにいつも留まっちゃいかんなーと自覚するので、スーッと帰るわけ。これがメシヤ様と繋がったところの一番の素晴らしさ。浄霊で浄まって元津御蔵へ帰るので全然執着が残らない。

しかし、祈祷(きとう)してしまうと、祓(はら)っていくと、無理やり帰されるから腹立ってくるから、今度はその人じゃなくて祓った方に怨んでくるわけ。だから祈祷師は不幸になっていく。だから昔の祈祷師は最期が悪かったわけ。

メシヤ様の浄霊というのは無理やりじゃないから。浄めて、そして本人が救われて帰っていくわけだから、感謝していくわけ。恨みじゃなくて感謝をしていくわけだからね。だから素晴らしいと。

だから我々はメシヤ様と繋がっているということはどれだけ幸せなことかと。

そして特別な地位を持たなくても、家族同士で浄霊できるわけだから、こんな素晴らしい、救いはないわけ。


それと、矛盾と思える出来事も、全て御神業に必要な事なのだ ということで、特選集の平成22年3月に、

「メシヤ様お出ましの夢物語をどう解釈するか」ということで、これは先生の夢のお話ですけれども、

呪術具というので、人々のムクムクと沸き起こる執着をとろうとするのですが、際限なく沸き起こるので、主神様にお願いし、最上天国から御光を呪術具に注いで頂くと、それを使用しようとした瞬間に人々の執着が消滅したそうです。夢の中で。それでそのことを報告しようとすると、メシヤ様が『私も知っている』と御答えになられたそうで、この時「矛盾に思える学習内容でも全て開拓布教に必要なことなのだ」と解釈されたと載っておりました。

矛盾と思えることがどんどん膨らんで執着になってしまいます。メシヤ様は何でも知っておられるのですから、私たちは矛盾と思える出来事も、全て御神業に必要な事なのだと受け止めて前向きに御神業に励み、自分の執着、人々の執着を取って行こうではありませんか!


執着ということで、結構な内容になったかと思いますけども。

霊的な胃癌の話から、そういうこと・・。

今の内容に何か思うところございましたら。


参加者

今回の真症胃癌のところで、この執着が課題になっていると伺って、『文明の創造』を読んだ時に執着が課題になっていることに全然私は気づかなくて、この資料をいただいてそういうことだというのが分かったんですけど、その後から、本当に「我と執着」ということを考えないといけないんだな、ということがいろいろ起こってきて、今まで「我」は意識してきてたつもりだったけど、「執着」はあまり意識がなかったなと思って、この資料を読ませていただいていたら今まで自分に起きてきていたことと応用して考えていくと、これも執着かな?これも執着かな?(笑)というようなことがいろいろ考える機会になりました。

まとめられないですけど、そういう機会をいただいて今、考えている状況かなと思って。


三救責任者

あまり一つのことをずっと考えすぎても。


参加者

そうですね。それがまた執着にもなるし。(笑)

前は言葉通りにしか取っていなかったかなと思って。今、いろんなことをちょっと応用して、これもそういうふうに当てはまるのかな、というふうな考え方ができるようになったかなと・・。


三救責任者

なるほど。


前にもちょっと話しましたけども、ある本の中で、例えば我の話でね、「僕がやります」と、自力で頑張っている間は「他力」が入る余地がないと。自分ができる、自分がやるんだと自力で頑張っている間は他力が入る余地がない。

本当は「自力」より「他力」の方が何万倍もパワーがある。自分が、というこの「が」をなくした途端に他力がわーっと集まってくる。他力が信じられないと自分の「が」を捨てられないので他力が増えません。

そういうバランス関係にあると。

自分が信じられないから、他力を頼れないと。

自分の「が」が増えると他力が減る。自分の「が」を減らすと他力が増える。簡単なバランスゲームですよと。


参加者

すみません、さっきのところですが、自分が信じられないと・・他力が・・?


三救責任者

だから任せられないとということね。自分ができる、自分が何でもできる、自分がやるんだって人を受け付けずに全部やろうとする、それよりも人の力を借りた方が物事は出来るでしょと。


参加者

助けてって?


三救責任者

助けてって言えるかどうかですね。


参加者

そこで、何でも出来るという思いじゃなく、頼ると悪いかな・・という思いであっても「我」になるということですか?


三救責任者

うん。その人を信じていないということ。だけど・・


参加者

信じていないって言うことになるのかなぁ?


三救責任者

頼ったらいいんだよということ。


参加者

ああ、そうですね。


三救責任者

頼れば、「助けて」って


参加者

物事によるということでしょ?


三救責任者

それはそうです。


参加者

何もかもじゃないけど。


参加者

何もかもじゃないけど、頼れるときは甘えて頼っても・・頑なにならなくてもっていうことですね。


参加者

強情ってやつだね。(笑)


三救責任者

頑張るということで、例えば、

ハードルは超えるのではなく、そもそも必要なかったんじゃないのという考え方もあるよということね。

なぜ頑張らないと自分は価値がないと思ってしまったのか。


参加者

思う思う。


三救責任者

小さい頃、親や先生や周りの人にそう言われ続けたからじゃないの?と。

大人は子供に「頑張りなさい」「楽するな」「世の中は厳しいんだ」と言います。子供の心には頑張れば褒めてもらえる。頑張れば認めてもらえる。褒めてもらいたくて頑張る。親に悲しい顔をさせたくなくて頑張る。ハードルが高ければ高いほどたくさん褒めてもらえる。次はもっと高いハードルを、次々とハードルを上げていく。頑張り屋さんになっていく。そもそもそのハードル、必要ですか?脇を通ってもよかったんじゃないの?と。

それを、ズルだと思うから、あなたには最初から脇を通る道は見えてなかったでしょう。脇を通るのをズルだと思ってしまうから見えてないでしょ?その道は。道があるのに見えない。それはあなたが拒否しているからです。試練という、ハードルを越えなくても価値ある自分を・・だから、自分を認めるってことね。


参加者

自己肯定感みたいな。


三救責任者

自分はここまでしなきゃいけないしなきゃいけないと思うんですけども、自分で作った目標ですよね。でも、今の自分も素晴らしいんじゃないのと、そういう価値ある自分を認めたらどう?と、ハードルなんてなかったんだと、超える必要なんてなかったんだよと、ハードルなんていらないんだと気づくことが、本当の自分の価値を見つけることじゃないですかと、頑張りすぎてる人に対しての言葉ですね。


参加者

頑張りすぎてる人にね。


三救責任者

何でも放り投げよと言うわけではないんですよ。


参加者

それをそのまま受け止めてしまうと怠惰にもなりますよね。(笑)


三救責任者

それは怠惰なのか、人が見たらズルやってるって思われるのが嫌なのか、別に思われてもいいじゃないかっていうのも、そういう自分は自分が好きなことをこれだけやって、その価値があるんだよっていうことを・・。自分をいつも卑下してしまうので、そうじゃなくて、自分が自分を認めなかったら誰にも認めてもらえないのと同じようなことで、それなら好きなことをすぐやってみたらと、「いつやる?」 「今でしょう」と。今、好きなことができない人はどこに行っても好きなことができません。まだまだ、こんなちっぽけなことじゃない自分がやりたかったことは、と自分でハードルを高く作ってしまって、いつまでたっても好きなことをしているという満足感が得られない。今ある好きなことができる人は、本当に好きなことが出てきたときも、「あ、やろう」とフットワーク軽く動くことができる。普段から体を動かしていないと体は急に動きません。そういうことと同じじゃないですかと。

だから好きなことをするには・・、これがねここの本の中ではね・・、好きなことをするには、一番嫌なことをする。


参加者

うーん。


三救責任者

好きなことをしたいと思ったら、安定を手放す。収入をなくす。築いてきた地位や立場を捨てる。恐ろしくてあり得ないいところに飛び込まないと好きなことをして生きていけません。

好きなことをするには一番嫌なことをしなければいけない。上手に嫌われないことばかり選んで逃げ回っていくのが楽な生き方で、この生き方はいつも周りに振り回されてしまう。

この人のことばかりを考えて逃げているというのは楽な生き方を選んでいる。この生き方は、いつも周りに振り回されている。人を見ているから。自分を見失ってしまう。だから好きなことができない。楽な生き方ではなく、好きなことをして生きていきたいと思うなら、「嫌われてもいい」、「非難されてもいい」と、「他人軸」のハードルを超えなくてはいけません。

「ああしたらあの人どう思うかな?」、という気配りのように見えるけれども、自分をずっと押し殺してしまっているんじゃないですかと。本の話ですよ。(笑)


参加者

痛い(笑)


三救責任者

みんな好きなことをして生きていきたいと思うのに、それができないのは、目の前の「嫌われる」という一番大きな問題が乗り越えられないからです。

手前で、「これでいいや」と我慢して生きているからなんじゃないですか?と。

家族を幸せにしたいから働いているのに、いつの間にか働くことに一生懸命になりすぎて、家族を犠牲にしてしまっていませんかと。

日本人の、頑張りすぎの人に対しての。

ちょっといい言葉かな、というふうに思ったので。


参加者

自分の好きなことをやるっていうのが、人良かれとか、そういうのにもつながる?


三救責任者

自分の好きなことをやって人が幸せになるのが一番いいじゃないですか。自分も幸せになって、人も幸せになるって。考え方の・・・。


参加者

考え方ね。


参加者

程ですね。程々というやつだね。


参加者

大分前になるんですけど、仕事を辞めて、色んな迷いもある時に、周りの人に恩返しというか、これからどうさせてもらうといいのかなぁというのを考えてる・・みたいなことをある人に話したら、「あなたが好きなことをやったらいいのよ。笑っていれば周りも楽しくなるから」って言われたのを、今ちょっと、これを伺っていて思い出しました。


三救責任者

だから人の言うことにも耳を傾けるということですね。

だけど、その、自分でハードルを上げて、自分の目標としてはいけども、自分が人によく思われたいという目標じゃなくて、自分が好きなことをしていくための目標だったらいいでしょうけども、それで、好きなことやって人も楽しくなればいいんじゃないという、これはそういう考え方。

メシヤ様もね、「朝起きると先づ家族の者の御機嫌がどうかという事に関心をもつのであるが、一人でも御機嫌が悪いと私も気持ちが悪い」という、『私というもの』にも出てきますし。


参加者

はい。


三救責任者

目標は世界人類を救うという非常に高い目標ですけども、まず自分の・・。


参加者

本当に。そうだなぁっと思って。

あんなにずっと読んできてたのに・・(笑)。

この間も言いましたけど、『○○の礎』。○○光教団の時にあった『○○の礎』の「私というもの」には、「執着」という言葉が無かったから、何でだったんだろうと思って。


参加者

ん?


三救責任者

え?


参加者

「どこまでも平和的幸福的で執着を嫌う」って書いてあるじゃないですか。


三救責任者

そこが抜けているの?


参加者

「執着を嫌う」が無いんです。

あれっと思って。『○○え抄』に「執着」が書かれていないなって気付いたんですけど・・。


三救責任者

それ、今回見つかったの?そういうことが分ったの?この「執着」の話から。


参加者

そうそう、今回。

「執着を嫌う」というところが、何でここにこれが入っているんだろうと思って、これはスゴイ言葉だよなと思って、今までなんで気付かなかったんだろうって、『○○え抄』にあったはずだからと見てみたら、無かったんです。


三救責任者

でも、「一つ事を繰り返し聞かされることも随分辛い」っていうのは?


参加者

ありました。それはありました。

「どこまでも平和的幸福的で、それが私の本性である」になっていた。


三救責任者

ほう。


参加者

『○○え抄』は抜粋されてるから、ところどころ編集というか、部分的に抜かれてたりするじゃないですか。だからそうかなと思って今朝『○○の礎』の方も見たら、その部分は無かった。

何かの間違いとか・・?


三救責任者

そのまま出していないっていうことだね。そういうことは他にもあるでしょうけど。色んな手が入って、それこそ人の目を気にしているというか、社会の目を気にしているという。

だから薬はダメだとか、そういう部分のメシヤ様が言われている部分をカットしてるということがあるわけですから・・。


参加者

時代背景かもしれないしね、その時代。


三救責任者

本として出すには出せなかったということでしょ。だから、本とか原文で読まないといけないというのはそういうこと。


参加者

だから、60年前の時代と今の時代、厳しい時代もあっただろうから。


三救責任者

それは発見ですね。


ちょっと話は変わりますけども、先日の岸田首相の演説会場は和歌山県の和歌山市雑賀崎。

ここはね、雑賀衆(さいかしゅう)は、中世戦国最強の鉄砲傭兵・地侍集団の場所。

何でここかなと思ったんですけども、信長とも対立して・・三好三人衆と対立していたり、秀吉とも対立して秀吉が紀州征伐をしてあの辺を滅ぼしていますけども。水軍で言えば信長、秀吉の方は九鬼水軍、毛利方は村上水軍、雑賀水軍という、いろいろな歴史のその舞台の傭兵、鉄砲傭兵。一杯鉄砲があったらしい。そういうところだったと。

それともう一つは武内宿禰、これは知ってますね? 三百歳ぐらいまで生きたんじゃないかという、メシヤ様のお話の中でも、長寿だったということの確かな文献を見たことがあるということが出てきますけども、この武内宿禰というのが神功皇后(じんぐうこうごう)の時に・・新羅遠征、三韓征伐という話を昔にしましたよね。それに従軍した、一緒について行って三韓(百済・高句麗・新羅)征伐に従軍したのが武内宿禰らしいです。それで神功皇后というと?三韓征伐に行くのに神功皇后は妊娠していました。お腹の中に誰がいたでしょう?


参加者

・・・(笑)


三救責任者

応神天皇。応神天皇はメシヤ様の前世。

そういう武内宿禰の神社がここにあるんですよ。

安原八幡宮奥宮に武内神社というのがある。武内宿禰が産湯を使ったとされる武内宿禰誕生井があるらしいです。武内氏は後に紀(き)氏・巨勢(こせ)氏・平群(へぐり)氏・葛城氏・蘇我氏というその共通の祖先であるので、武内氏から日本のほとんどの有力豪族に分かれていく。その元のところ。だから、家臣団の主力みたいなところでもあって、鉄砲の使い手が沢山いた、そういうところでもあったという。場所を調べるとね。

伝説ではあるけども、武内宿禰というのは、この前の大河ドラマの鎌倉の北条義時に生まれ変わったという生まれ変わり説もあります。ちょっとネットで調べたら・・(笑)。そんなことはよく分からないけども・・。

そういうことをこの前の場所から。

安倍さんの時に調べても、いろいろと。


参加者

ありましたね。衝撃的でした。


三救責任者

定かではないけど、場所として、雑賀崎に何かあるかなと思って見ていたらそういうことがあって、何かいろいろ動きがあるんだろうなと思いながら。

今度はまたサミット。サミットということは、原爆だね。広島でやるから。使わずに済むようにという。原爆といえども、戦争を止めるために神様が作られたものであると御教えに出てくるので、悪も善も主神様が握っておられて、人間を動かしているので、そういうことが分かると、一方的に悪いというよりも、必要があって、戦争を止めるために神様が作らせたものであるという御教えがあるので、そういうことも自分たちは意識しておかなければいけないかなと思います。

物事の見方として、今まで一方的に善の側にだけ立ってずっと来ていたのが、御釈迦様とかキリストとかそういう先人の宗教ですけども、こちらのメシヤ様の宗教というのは両方、善があって、悪があって、繰り返しながら科学を進めてきたんだと。それで、最後に悪を転覆させるのが「一厘の御霊」であるということがはっきりと書かれているのがこれ。これが、最後の時に出るということですので、これを学んでいるということはやっぱりすごいことですね。

ちょっと霊的な話に入ってきましたので、そういう話もさせてもらいました。


司会

以上を持ちまして、5月度月次祭、並びに一日祭を終わらせていただきます。

ありがとうございました。


参加者一同

ありがとうございました。

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