2023年11月26日日曜日

覚りの旅  令和5年10月 月次祭を終えて

 2023年10月06日

令和5年10月1日


   覚りの旅  令和5年10月 月次祭を終えて


三救責任者


皆様、月次祭おめでとうございます。




参加者一同


おめでとうございます。




三救責任者

10月ということにつきましては何度もメシヤ講座で御教導いただきました。


「『夜の時代』を形成した出雲系の神様が、10月の間、全部ふるさとに帰っています。その神様がいないので、神無月と言われているのです。ですから、10月は、様々な御神業上の決心が実ってくる。あるいは大きな働きがスタートする、そういう月です。どうか今、話を聞きながら私もこうしないといけない、と思ったことを、スタートさせて、やり始めていただきたいと思います。そういうことが今月は成果をいただける、そういう月ですので、神無月というのは非常に大事な月だと受け止めて、大いに心身ともに前向きに動いていただければありがたいと思います。」


とメシヤ講座浜松平成28年10月で御教導いただいております。


出雲系の神々が不在の十月はまた、伊都能売の神様と御倉板擧の神様を深く認識させていただける有難い月であります。




御講話 昭和10年9月21日に、


十は経緯結ぶ形であります。


外国は三五です(あなないと言うんですけどね)。 三は体、五は霊で、体が上で、霊が下になるゆえ外国で、体霊であります。日本は霊体、五が上で三が下、霊主体従ですから五三となる。


体霊、霊体両方結ぶのが十の字ですから、今度は霊体一致ということになる。三五は三五(あなない)の月というように月で、五三は日で、どっちも日であって月であります。また月であり日であり、三五は月が上で日が下ですが、日本は霊主体従、外国が体主霊従で月が上、日が下、日月結んで伊都能売または観音であります。


(伊都能売または観音であります。)




10月ですので、岩戸観音堂を参拝される方もお見えになりますので、少し話をさせていただきますと、岩戸観音堂という名前から連想されますのは、皆さんはどうか分かりませんけれども、岩戸隠れ、天の岩戸が想起されます。この岩戸観音堂というのは立札は「日の出観音様」でありました。日の出、昼の世界の始まりということでありまして、「日の出観音様」は後に、名称がメシヤ様により「メシヤ観音」と変更になっております。「メシヤとならせ」を想起させるものであります。また、この岩戸観音堂の艮(日本の艮)には国常立尊様(芦別山お隠れになっておりました)、これは岩戸隠れに対して御隠退、芦別山に御引退ということであろうかと思います。ですから、日の出と、今度は御引退していた国常立尊様が現界の審判に現れる、そういうことと対比しているようにも思います。


それで、伊都能売神皇は天照天皇に皇位を譲られ、観音様にお姿を変えられて陰土へ渡られます。そしてお釈迦様に教えを垂れられます。これにより見真実に成なられたお釈迦様は、


「或時期に至ると我が仏法は滅する」


「今まで説いてきたことには少なからず誤りがある。今から説くところが真実である」


と弥勒出現成就経と観音経を説かれます。観音経の深意を祝詞風、和歌風に縮められたのが善言讃詞だと御教えいただいております。


そして、五十六億七千万年後にミロク下生し、ミロクの世が訪れるということをお説きになるのです。


本日の御教えは、『仏滅と五六七の世』です。今のことを念頭においていただきまして御教えの拝読をお願いいたします。




参加者


『文明の創造 仏滅と五六七の世』拝読




三救責任者


はい、ありがとうございました。


今日の御教えは『仏滅と五六七の世』ということで、本文にもありますように、五六七の数字を知らせんが為ということが一番の内容かと思います。ですから、順序正しき世界が『五六七の世』という風に書かれております。順序を正すということで、メシヤ講座を振り返って当時の思いに立ち返ってみましょうということで、「私たちの生活の中で順序を間違ってうまくいかなかった事例とかありましたか?」と、これはメシヤ講座浜松で問われました。


一番最初に書いた体験記を想い出せと。


裁判所まで行って、性を元に戻して先祖供養をきちんとし始めた。それがメシヤ講座で学び始めたキッカケであり、『五六七の世』に生活するということ。


順序正して『五六七の世』に生活できているということだと。


先生が大きい教団を離脱された時に浜松の皆様がおられたからこそ、先生と共に御神業を始められ、メシヤ講座で学び始められました。トップランナーであったからこそ全国に広がっていったわけです。




『メシヤ様』と御尊称させていただくことが許されるようになったのも、後に『文明の創造』の発刊という御神業を三重で担いだのも、順序として浜松の皆様が学び始めたからであります。


三重においても同じように、まず仏壇、霊界を整えて、それから座行観音様を御奉斎、それでその時に光背と、額の白豪ですね、白豪で○にゝ(チョン)、主之大御神様の御神名で御参拝されてよいですよという話がありました。皆様もいくつも思うところがおありかと思います。


「順序を正す」ということを念頭において先程の本日の御教えを繰り返し拝読していただければと思います。




ちょっと順序がバラバラになってしまうかもしれませんけども。


昭和25年2月、中島氏帰幽に関するお言葉。これは以前にありましたね、御教えで学びましたね。


ここの中で「メシヤとならせ」ということが出てまいります。




いままで観音様の時は、善悪無差別的救いであったので、非常に軟らかであった。これからは厳しく罪や汚れは徹底的に清算されなくてはならぬ・・・という時期となった。それでどうしても今度のようなことがあり得るわけである。


(今度のようなことというのは中島一斎先生の御帰幽ということですね。)


立春の日には組織が変わった。


これからは世の中に変わり事があろうと思う。今は観音様のお働きはできない。祝詞にも応身弥勒と化し、メシヤとならせと入れた。観音様はメシヤとならせられ、観音様のお働きはメシヤになる。観音様は東洋的であり、世界的のものではない。




こういう御教え。「メシヤとならせ」、昭和25年の2月ですから、6月15日に光の玉にチョン、ミクラタナの神様が御鎮まりになってメシヤとならせられたわけですけれども、その4ヶ月前に、メシヤになるんだと、観音様のお働きはメシヤになるんだ、ということを御教えいただいております。


これは順序ということで、「善言讃詞」の順序、「善言讃詞」は、メシヤ様の御神格が上がっていく、観音様の御神格が上がっていくという順序が冒頭に織り込まれているわけですので、その話の裏付けとしてこういうことをですね。この御教えは、昭和25年ですね。


昭和10年の2月23日に三位一体の力を独り具有され、大千世界の最終的救済をなさるのが、観世音菩薩即大弥勒神の御活動であらせられるのである。


と昭和10年ですね。


今の「メシヤとならせ」というのは昭和25年、時期に応じて上がっていく内の大弥勒の神様というのは昭和10年の時から、もうすでにこの大弥勒様の話はされているということですね。だけど、25年、「メシヤとならせ」となって、善言讃詞に「メシヤとならせ」を入れた時には、メシヤであるわけですから。


いつの御教えかということと、順序ということね。


今は光明如来の働きをしている、という御教えもございますし、時期に応じて、自観書と書かれている観音様のお働きであったし、ということですので、「メシヤとならせ」と入れた以上ですね、最後にはメシヤとなられるんだと、そういうところを、善言讃詞の順序ということを頭に置いておいていただきたいなと思います。




先ほど、観音様の後ろの光背と白毫の話がありましたけども、ちょうど今回の『仏滅と五六七の世』を学んだ、平成28年9月の時の三重の方で、この話が出ております。




仏教の教えも、諸説(しょせつ)ありますが、仏像に手を合わせますが、仏像の光背(こうはい)(背中にある円ですね。光の輪です。)この光に対して礼拝している。前の仏像は形だけ・・・格好がつかないから置いてあるのだそうです。




これは、私が○○本山の仏教講座に1週間行って聞いてきた話を先生にしましたら、そのことを聞くために1週間行ったんだよ、という話がございました。


仏教講座に行った時、28年の8月ぐらいの話ですけども、この時に、順序としては一番最初の以前の御神床に、この観音様(座行観音様)にですね、〇にチョン、これを主之大御神様と御唱えしていいよ、という話が、この時に仏教の方もそういう風な、光背に対して拝んでいたんだよということで、腑に落ちたわけですね。


当時、主之大御神で御唱えさせていただいていたわけですけども、観音様に対していいのかなと思いつつも、ここで本当に腑に落ちたということです。


順序がきちっと合っていたんだよ、ということだと思います。


この話は何回もしてますね。




話は余談になってしまうかもしれませんけども、黄泉比良坂(よもつひらさか)の話。


伊弉諾尊が黄泉の国で追われて、桃の実を投げて助かったというのが、黄泉比良坂なんですけども、その黄泉比良坂というのは御教えでは明治神宮の平らな坂なんだと、平坂ですから平な坂なんですよという話と、九鬼という話が出てきます。


昭和23年7月18日の御講話で、


黄泉比良坂の意味を教えてください、とあり、


これは現にあったんですよ。ヨモツとは世を持つで時の帝王のことであり、比良坂とは平らな坂で、明治神宮の参道が平坂になってます。あの横丁に九鬼子爵がいた。そこへ私は二、三度行きましたが、ここで戦争があり、私の家へ子爵夫妻を呼んだ時、宮中から下賜された菊の紋の盃を持ってきました。それで戦いは終わったのです。




九分九厘まで負けて宝を持ってきて、これで戦いが終わったのですということが御教えにあります。


九鬼というのは九つの鬼と書きますので、たくさんの鬼のことで、この九鬼を調べますと、例の、先生の口から真珠が出てきたという時に僕はこの連想をしていたわけですけども、九鬼ということと、真珠を宝としたら、これは献上したという事と、これは何らかの関係があるのかな、というふうには思っていました。


この九鬼ね・・、熊野九鬼水軍は知ってます? 海賊。海賊が大きく戦国時代・・・九鬼水軍と村上水軍、村上水軍というのは瀬戸内海、九鬼水軍というのは伊勢志摩を本拠ににして。織田信長、秀吉に仕えていたのが九鬼であって、村上水軍というのは毛利とか。


何が言いたいかと思いますよね。




鳥羽の向こうの大王崎、大王崎の灯台は行ったことある?




参加者


あります。




三救責任者


(図を見ながら)この辺が波切城という城だったんですよ。 ここが九鬼嘉隆の生まれたところ、元は熊野の宮司、熊野別当と言って、熊野の宮司から分かれて尾鷲の向こうの九鬼浦にいて、そこから九鬼嘉隆より5代前に志摩の方へ来た。


ここに父親が住んでたのでね・・ここのすぐそばに仙遊寺という寺があるんですけども、ここに九鬼五代のお墓がある。菩提寺です。うちの菩提寺も元はここなんです。


熊野の別当、大宮司、熊野神宮の大宮司で分かれていって、熊野の九鬼浦へ行って、波切城へ行って、鳥羽に来たと、そこで活躍するのが九鬼嘉隆ですけども、その次の代になってくると、今度はお家騒動で綾部と摂津三田に分裂するので、山へやられるんです。これがシーパワーの封印ということで、徳川の時代になって平和になってきたので、海軍の力、徳川家を脅かすとダメなので山へ押し込んで力を削いだと、そういうことがこの時代にあった。それで、この綾部。綾部って何を思います? 〇本教。


力が削がれていっているもので、城持ちでなかった。城じゃなくて陣屋という。九鬼の代々の陣屋跡が〇本教の本部だったのだそうです。そういう関係です。


だから、〇〇王仁三郎の王に仁斎の仁ですけど、これは九鬼・・から来ているかもしれないですね。


代々九鬼、元はと言ったら鳥羽、その元はと言ったら熊野と繋がりがあるよということ。


時代がもう少し下ってくると、九鬼綾部と九鬼三田というのは、九鬼綾部から養子に迎え当主になったりしているので、仲良くなってくるわけです。


それで、そこからもう一つ、そこの九鬼から分かれていったのが今熊野の宮司をしているのが九鬼という大宮司です。


だから、300年たって回帰して来た、熊野に。


そういう話をしたかったんです。時代を長いスパンで見ると、熊野から九鬼に行って、鳥羽に行って、綾部三田に行って、そしてまた熊野に。


そういうのが読み解けるのと、もう一つ、先ほどの徳川幕府は水軍を山へ押し込めたという話の中で、先ほどの村上水軍。有力な村上水軍というのは来島(くるしま)村上水軍というのがありまして、この来島村上水軍というのも力があったので、山へ押し込められた。その山はどこかというと豊後森(ぶんごもり)です。玖珠です。玖珠の山奥へ押し込められて海軍としての力を発揮できないようにした。そういう力がなかったので、ペリーが来た時にペリーに対抗できなかった。海軍力を維持してなかったのでね。そういうことにつながってくるんですけども、平和だったのでね、江戸時代というのは。




これはちょっとずれますけども、義経と弁慶の弁慶というのは出身が熊野の別当の子孫という説かあります。熊野の別当、先ほどの大宮司。暴れん坊だったんですけど。そういう話です。なんかすごくつながっていませんか? 

たまたま調べていて「九鬼嘉隆と九鬼水軍 豊田祥三著 戎光祥出版」という本が出たので、取り寄せて読んで、そういうことが分かってきました。




だから志摩市大王町ですけど、大王って名前がつくところはないでしょ?閻魔大王の大王だね。エライ名前を付けたなと思うんだけど、付けさせられたのかもしれないしね。こういう風に、自分の生まれた地域から御神業との関係、先生との関係、というのがつながっているんだなと思わせていただいたので、そういう話をさせてもらいました。




全然違う話ですが、最近のニュースからです。


アルツハイマー病の新薬「○○ネバブ」。


認知症の薬が出たという話は最近ニュースでやってましたけどご存知でしょうか?




参加者


ニュースでは聞きました。調べては無いです。




三救責任者


これはね、認知症の影響物質を調べて取り除く方法。何を取り除くかと言うと、アミロイドというのを取り除く。 アミロイドというのは有害タンパク質の塊なんだそうです。それを取り除く。要は、何でもこれが悪いって決めて、取り除けばいいという考えですね。このアミロイドを取り除こうとしています。しかし、このアミロイドというのは、アルツハイマー病患者によく見られる、血管の壁の細胞に置きかわってしまうことがあるらしいです。そういう患者がこの薬を飲むと、血管が破壊され、出血が起きます。だから、抗凝固薬、血液をサラサラにする薬とかいうのを飲んでいたりすると、これはもう危ないです。亡くなった事例もあります。だけど、問題はそういう亡くなった事例があるにもかかわらず、そういったことはあまり公開せずに、皆に対しては、認知症の効果ある薬が出たんだよ、としか言ってない。それを認可していく、ということを皆さんはよく分かっておかないと、なんでもいい薬が出ましたといって、それに行ってしまうと・・・亡くなった人もいるんですよ、ということです。


実際にはアルツハイマー病を完治させる薬はないんだとわかってるんですよ。医学界は認識していても、やっぱりちょっとでも症状を、対象療法ですね、何かこの物質を取り除けば少しかるくなるよと。少しは・・であって副作用の方も非常に大きいということです。


○ロナでも一緒ですよね。


だから、○○ネマブというのは、神経細胞に対する毒性がより強いらしいです。それで、認知機能の低下を送らせる効果はわずかだった。だから承認されるべきではなかったのではないかと考える専門家も多い。一部の患者では脳の腫れや出血などの副作用が発生していた。


これは、ネットで調べたことなので見ることができます。


総合的に見ないとね。発表だけ見てるとね・・。


どんな症状かというと、頭痛とか目眩とか錯乱とか。結局、認知症を予防しようとして頭痛、目眩、錯乱が起こってくるということです。何か繰り返してますよね。


それと、その評価のフォローアップ試験で3人の患者が死亡しています。


この3人が18カ月間の治験の間に○○ネマブを投与されていたのかプラセボ群(プラセボ群というのは、偽の薬を、薬ですよと渡して、効果があるかどうか。病は気からという・・。プラセボ群、そういうチームと、今から認可したい薬を与えて効果を見るという。)にいたのかは明らかにされていないが、いずれも治験終了後に○○ネマブを使用することを選択していた。




アミロイドというタンパク質も置き換わるんだから、物質としては必要な物質かもしれませんよね。盲腸が不要だと思い込んでしまってる医学界ですけども・・、今はどうか分からないですけどね。それと同じような感じで、取ればいいんだ、という考えだと思います。


働きのよくわからない物質を薬で取り除こうとしているんだと。そのよくわからない物質がアミロイドと言うんですね。だから、盲腸は必要なのに除去しようとするのと同じような考え方のように思いますね。




また戻るけど、316ページに「此世は厭離穢土(おんりえど)であり・・」と出ていましたけど、厭離穢土って大河ドラマでも出てきたね。「どうする家康」の旗印が厭離穢土欣求浄土。


仏教の言葉で、この世を穢れたものであるとして嫌い離れること。


徳川軍の旗印。厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)。極楽浄土に往生、生まれ変わることを心から願い求めることを。浄土というのは平和の世、平和の世を求めること。


徳川は浄土宗でしたね。岡崎で一揆が起こって、徳川の家来も浄土宗に信仰している人がいたので、徳川が二つに割れたんですね。浄土宗派と徳川殿様にというのと分かれて戦う、だから部下同士が戦う、一番最初にそういった一向一揆、それを治めるということがありました。


浄土宗、信ずる者への救いの道、篤く信ずれば来世では幸せの世界が待っている。


これが浄土宗の考え方らしくて、だから仏教はこの世ではもう浄土が来ない、諦めの世界ということです。


家康は、「天下太平」の軍配を持っていた。そういうのを持って「押し出せー!」とか「引けー!」とか軍配でやるわけですね。「天下太平」という軍配を持っていたらしいです。


有能な武将というのは、人を動かすために言葉を活用していました。


桶狭間合戦後、松平元康(家康)が逃げ込んだ大樹寺で、初めてこの文言に住職、登誉(とうよ)上人に諭された言葉であります。


穢れた現世を逃れ清らかな仏の国(あの世)に生まれ変わることを望む という意味だそうです。


この旗印というのは、どう戦うかを示すものだったそうです。


有名な武田信玄の旗印は?




参加者


風林火山。




三救責任者


風林火山ですね。


上杉謙信は?




参加者


毘沙・・




三救責任者


毘沙門天に帰依していたので、自分は毘沙門天の生まれ変わりだという風に思ってやっていたので、毘沙門天の「毘」が旗印です。




これは兵を迷わせないための行動指針であるわけです。死んだとしても仏の国へ行けるのだということで、奮い立たせようとするということですね。


私たちの旗印はというと、「地上天国建設」、「世界に知らせよ薬禍薬害」。そういうことかなと、スローガンということかと思います。




10月10日は三救祭です。


眞位(みくらい)についての考察の話をさせて頂きます。


大石凝真素美翁の⦿(ス)のいわれの文章を声を出して拝読しておかれることを希望します。


大石凝真素美翁の⦿(ス)のいわれはブログにもアップしましたよね。これを、声を出して読まれることを希望します。


11時開式ですので、10時40分頃に準備をお願い致します。


リモートは三拠点になります。三重、浜松、一宮となります。


スムーズな進行に御協力をお願い致します。




何かご質問等ございましたらお受けします。


この1か月、何か話はありますか?


今日が仏滅の話でしたね。




大丈夫ですか?


それでは、終わらせて頂きます。


10日、またよろしくお願いします。




司会


以上をもちまして月次祭並びに一日祭を終わらせていただきます。




参加者一同


ありがとうございました。


 

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